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口に入れた分で、ビスケットの缶は空になった。結局、半分は犬にあげたことになる。健太は読んでいたマンガを引き出しにしまい、急いで本棚からテキストを鞄にくべ、部屋を出た。
居間では座布団の山の上で、犬が気持ちよさそうに寝ていた。健太が脇を通ったとき、畳のきしむ音に目を開け、耳を上げ、めんどくさそうに尻尾だけ動かした。
食卓のテーブルクロスの上に、レースのカーテンがゆれている。光は橙味を帯び、影は薄い青だ。炊飯中のランプが灯る家電の向こうから、まな板を叩く音がする。
「宿題は終ったの?」と母の声がした。健太は冷蔵庫と母の背の間をひょいと通り過ぎて台所に入った。「今日ね、体育の授業で跳び箱七段飛べたんだよ」と健太。
ねぎを刻んでいる母の手が止まった。母の丸い目が健太を見る。
「それは、すごいわね」前は体育の話をしても、母は全く無関心だった。それが私立中の内申基準が改正されて、体育の成績が三倍になるようになってからは、急に話に乗るようになった。健太は以前と同じように話しているだけだから、その変化が不思議でならない。母は、私はがんばっても四段までだった、でも私は勉強の方が得意で、人の何倍も努力したものだった、私の頃は体育で跳び箱はあまりやらなかったと続けた。
「ねえ、お母さん。聞いていい?」
「何よ」
「どうしてお母さん達って自分のこと『私』っていうの?」
母は横顔に戻った。まな板が再び鳴り出す。
「私達の時代はみんな、そう言ったもんなのよ」
「昔のマンガもそう。でも、みんなって全員?」
「まあ、女の人はそうね」
「大人も子供も?」
母は手際よくねぎをまな板の一角へ追いやると、冷蔵庫を開けた。めんつゆの匂いがする。キャップがきちんと閉まっていないに違いない。
「まあ、そうだわね」
「一人残らず?」
「たぶん」
母の手は冷蔵灯のオレンジ色に照らされ、鶏肉の入った発泡スチロールのトレイをつまんだ。
「ところでさ、何で大人って」
「お母さん忙しいんだから。聞きたいことは先生に聞きなさいよ」
冷蔵庫がバタンと閉まる。めんつゆの匂いも消えた。
「先生に聞くと成績落ちるって。美緒ちゃんが言ってた」
「でもお母さんは忙しいんだから」
母はトレイのラップを開けるのに手間取ったあと、肉をまな板に横たえる。
「じゃ、先生に聞いていいんだね?」
母は肉の脂肪分を、包丁で取り除きはじめた。友達にそそのかされてエアロビクス教室に通うようになってから、母はこうしたことを急に細かく気にするようになった。しかし、体型を見ている限りうまく言っているとは言い難い。
「ねえってば」
母の眼は脂肪の白身から動かない。
「ねえ」
母は作業に集中している。
「ねえってば」
母の小鼻が大きくなる。
「ねえ」
健太が母のエプロンの裾をつかむと、母は手を止めた。
「そのうち、お母さんも本気で怒るからね」
健太は後ずさりすると、食器棚の取っ手に背中が当たった。
「先生に聞いていいの? いけないの?」
「減らず口はいいから、さっさと塾に行ってらっしゃい、ホラどいたどいた」
健太は母の肘で台所から押し出された。