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1991年(平成3年)9月19日、上陸した平成3年台風第18号は近畿地方から北東部へ進んでいた。当日は千葉県北西部地方に大雨洪水警報、雷・強風・波浪注意報が出されており、松戸市内では1時間31mmの降雨量を記録している。しかしその中でも作業員による分水路掘削が続けられていた。
16時30分頃、トンネル東端では国分川が氾濫していた。濁流は土手にあった土嚢・仮堤防を越えて、仮締切(千葉県管理)手前の掘削地へ流れ込み始めた。施工を続ける飛島建設の現場代理人は作業員引き上げを指示したが、その後千葉県真間川改修事務所の国分川建設課の課長が作業継続の旨を現場代理人に伝える。そして一人の係員が現場に残っていた5人の作業員に対し、作業終了後にトンネルを上がるように指示した。
暫くして、仮締切に溜まりつつあった水位を確認した係員が現場へ避難を指示。その後別の3人の係員は竪坑を降り、まだ残って作業継続中であった3人の作業員へ避難の旨を伝えるため現場へ向かった。更に仮締切から戻ってきた係員も竪坑を降りて現場へ向かう。この時竪坑直下では工事主任が待機していた。
17時18分頃、係員4人がトンネルの奥へ向かう最中に仮締切が決壊。鉄砲水が押し寄せトンネルは水没。工事主任は竪坑の階段にしがみついて避難したが、係員4人と作業員3人、計7人が水に飲み込まれ水死した。当日21時より排水作業が開始されたが、水位が下がらない上にトンネル内は酸欠状態のため救出作業は難航した。遺体が発見されたのは事件発生3日後であった。そのような中事件発生日の翌日にあたる9月20日に、酸欠による耐圧強度低下によりトンネル上部のとちのき通りが一部陥没し、周辺住民が避難するという事態も発生した。
工事責任者(国分川建設課の課長)の判断ミスもさることながら、情報伝達の遅れや仮締切について(設計者の意図とは異なる設計になっていた)も一因として問題視された。飛島建設とその現場代理人は書類送検の上で罰金刑20万円となり、そして当時の国分川建設課の課長は1998年(平成10年)4月、東京高裁で執行猶予3年禁錮2年の判決が下された(最高裁への上告棄却により確定)。千葉県側は仮締切の設置管理を担っていたこともあり、作業継続指示ではなく緊急時の退避指示義務を怠ったことに過失があるとした。
この事件以来中断されていた分水路工事は、翌年1992年(平成4年)8月21日になって再開された[7][8]。