そのころ、七海は社長室で仕事に勤しんでいた。
できるだけ早くに終わらせよう。
そうしたら、今日も貞弘を誘えるかもしれないから、と思いながら。
すると、誰かが扉をノックした。
「入れ」
と言うと、恋の仮想敵国、後藤が現れた。
仕事の話をしたあとで、すぐに去らずに、自分の前に立っている。
なんだっ!?
宣戦布告かっ?
社長にユウユウは渡しませんとか言うつもりかっ?
後藤は厳しい顔つきでこちらを見つめている。
「社長はパセリの件……、
ご存じですか?」
「パセリ?」
「貞弘のパセリですよ」
ご存じではない。
だが、ここで知らないと言ってしまったら、こいつに負けた気がする。
七海は何故か、そう思ってしまった。
「……ああ」
と頷くと、後藤は目を見開き、訊いてくる。
「貞弘の実家のパセリになにがあったんですかっ?」
実家のパセリになにがあったって、なんだっ!?
っていうか、それ、目を見開いて訊くことかっ!?
と七海は思っていたが。
一度、知っていると言ってしまった手前、知らないとは言えない。
「……俺の口からは言えない」
重々しく七海は言った。
「貞弘本人に訊け」
「もう帰りました」
「なんだってっ!?」
七海は作っていた表情を崩し、叫んだ。
とりあえず、謎のパセリより、そっちの方が一大事だった。
「今日はこのあと、派遣会社の方に行くらしく、早めに帰りました」
「今すぐ止めろっ。
俺がなんのために、急いで仕事してると思ってるんだっ」
と七海は立ち上がる。
その日の夜。
後藤はスーパーで買い物をしていた。
この時間はすいているので、ゆったりと買い物ができる。
パンなどは欲しいものが売り切れていたりもするのだが。
生鮮食品のコーナーでパセリが目に入った。
……パセリ。
家で使うことはあまりないから、普段は目につかないのにな、と思いながら、じっと眺める。
ふと思った。
俺はパセリが気になっているのか。
……それとも、貞弘が気になっているのか。
いやいや、それはない。
貞弘で気になることと言えば、どうしてあんなに素早く猫と仲良くなれるのかとか。
どうして、あんなにハッキリ出ている霊が見えないのかとか。
何年もラジオのアシスタントをやっていたらしいのに。
ファンに一番印象に残っていることが、笑い声だけとかどうなんだとか。
まあ、そんな程度だ。
愛などないな、と後藤はおのれの中に微妙に引っかかっているものを切り捨てる。
そのとき、向こうから全体的に色素の薄い感じの繊細な美貌の男が現れた。
北原だ。
カップ麺のお湯を沸かすのもめんどくさいという北原のカゴの中が見えたが。
猫の餌とチンするだけのドリアなどが入っていた。
「後藤さん、こんばんは」
相変わらず、こう、生きてる感の薄い人だな、と思いながら、後藤は挨拶を返すついでに訊いてみた。
「北原さん。
貞弘の実家のパセリの話、知ってますか?」
「ああ、あのパセリね」
と北原はすぐに笑う。
誰も知らなかったのにっ。
何故、大家さんだけが知っているっ。
やはり、この人が一番、貞弘に近い人っ!?
「いや、パセリで?」
と北原に笑われそうなことを思う後藤は、いつの間にか、悠里のことで必死になっている自分には気づいてもいなかった。
迫り来る犯人。
何処かっ。
何処か逃げるところはっ。
息を潜め、路地裏を窺っていた悠里は気がついた。
誰かが自分を見ていることに。
振り向くと、ガラスの向こう。
テーブルの真横辺りの位置に彫像のように整った男の顔があった。
ひーっ、と悠里は読んでいた文庫本をテーブルに置く。
道から少し高い位置にあるファストフードで本を読みながら、夕食をとっていたのだが。
つい、本の世界に入り込んでしまっていたようだった。
そんな自分を現実に引き戻したのは、道からこちらを覗いていた七海だった。
店に入ってきた七海がテーブルに手を置き、訊いてくる。
「なにやってんだ」
だが、悠里はそれには答えず、七海に問うた。
「社長、なんで私がここにいるとわかったんです?」
「お前、スマホ切ってたろ。
派遣会社にも、家にもいないし。
龍之介さんもいないし。
連絡つかないから、いろんな奴に訊いて歩いたんだ」
いろんな奴とは……?
「夜、この辺、ウロウロしてたら、大抵、誰かが呑んでる。
お前を知ってそうな、うちの社員をつかまえては、貞弘を見なかったかと訊いて回ったんだ」
「……それ、私がとんでもないミスをやらかして。
社長自ら探し回ってるとか思われてませんか?」
かもな、と言いながら、七海は前に腰掛ける。
「ある意味、とんでもないミスだ。
俺はお前と夜を過ごしたくて、一生懸命仕事を頑張ってたのに、スマホ切ってるなんて」
いや、そんな理由がなくても、一生懸命頑張ってくださいよ、と思ったが。
まあ、なんだかんだで、切れ者だからな、この人、と思う。
「そういえば、あっちで、大林たちがコンパをやっていたぞ」
そうなんですか。
そんなの見つけないであげてください、と思ったとき、七海が立ち上がったので。
帰るのかと思ったら、普通にハンバーガーのセットを買ってきた。
前に座り、食べ始める。
なんか学生時代、友だちといたとき、みたいだな。
こういう店だからかな、
と思いながら、悠里は言った。
「すみません。
派遣会社に寄ったあと、歯医者に行ったので、スマホ切ってました。
切れって壁の注意書きに書いてあったんで」
と言いながら、スマホの電源を入れる。
七海は食べていたので、なんとなく、スマホを見ていると、
「なに見てるんだ?」
と訊いてきた。
「えーと。
なんとなく、トレンドをチェックしてます。
見たい映画がはじまってたの、それで気づいたりするんで」
「……トレンド入りするまで気づかない映画は、ほんとうに見たい映画なのか」
と言ったあとで、
「お前はあれじゃないのか?
結婚式で誓いの言葉を言いながら、あ、この人、私がほんとうに好きな人だった、とか気づくタイプなんじゃないのか?」
と言う。
……そんなタイプの人、いますかね?
と言いながら、画面をスクロールさせていると、
「で、今、なにがトレンド入りしてるんだ?」
と訊いてくる。
「唐揚げがインスタ開設してますね」
「なんなんだ、それは……」
「いや、トレンド並んでるの見てると、そんな感じに見えてくるんですよ」
昨日は、焼きマシュマロが重大発表をしてました、と言うと、七海は俯き、ちょっと笑う。
……なんで微笑ましげなんですか、と思いながら、悠里は訊いた。
「阿呆なこと言ってんな、とか言わないんですか?」
「そこは通り過ぎた」
通り過ぎたんですか……。
「阿呆な奴だを飛び越えて可愛くなってきた」
と笑う顔こそ、ちょっと可愛くて、戸惑ってしまい、犯人から逃げていた路地裏に戻りたくなる。
「しかし、スマホを切ったまま忘れてるなんて。
お前には、連絡をとりそこねたくないっ、と一日千秋の思いで待つ男もいないんだな」
まあ、俺もその特に連絡とりたくない連中の中に入っているようなんだが……、
と七海が呟いたとき、彼のスマホから着信音が聞こえた。
メッセージが入ったようだ。
「……後藤じゃないか。
なになに?
『北原さんがパセリの秘密を知っていました』」
「パセリの秘密?」
と悠里は訊き返して、
「お前のパセリの秘密だよっ」
と怒られる。
「なんですか? パセリの秘密って」
「……お前、後藤に意味深に、実家のパセリがどうとか言ったんだろ?
俺は後藤に訊かれて、お前の秘密を知らないというのも、なんだか悔しくて。
知ったかぶりをしてみたんだが。
結局、追求されて、知らないとバレたんだ。
お前のパセリのおかげで、部下との信頼関係が揺らいだじゃないか、どうしてくれるっ」
……いや、そんなことで揺らぐくらいなら、そもそも、そこに信頼関係はないと思いますね。
「いえいえ。
単に、実家の花壇にパセリが植えてあって。
ふわっふわにパセリが大きくなってるなーと思いながら、朝、見たんですよね。
なんか緑のでっかい虫みたいなのがついてるって思ったんですけど。
そのまま出かけて帰ってきたら、あの巨大なふわっふわが丸坊主になってたんですよっ。
蝶になりそうな虫でしたけど。
すごいと思いません?
どんだけ食欲があるんだと思ってっ」
「……そんなしょうもない話か」
といきなり罵られる。
「何故、そんな話を重々しく言うんだっ」
「重々しくなんて言ってませんがっ?」
「唐揚げがインスタ開設するより馬鹿馬鹿しいぞっ」
だから、重々しくなんて言ってませんって、と言ったが、
「実家を思い浮かべてまず、そのパセリっておかしいだろうっ」
人の思い出はないのかっ、と言われる。
いや、そこは人、それぞれではないですかね、と思った。
「しかも、なんなんだっ。
俺はこんな阿呆な女を好きでいいのかと揺らぐどころかっ。
お前らしいなと思って、なんか、ホッとするというかっ。
またお前を好きになってしまったじゃないかっ。
いい加減にしろっ」
と怒られる。
……さっぱりわからない。
今、このテーブルに伏せているミステリーの謎より、社長の言動がわからない、と思いながら、悠里は聞いていた。
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