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高人は壊れていた。それは音を立てて崩れるようなものではなく、じわじわと内側から腐っていくような壊れ方だった。
日向がいない部屋は、やけに広く、冷たい。
書類に目を落としても文字は頭に入らず、食事の味もしない。
気づけば何度も、無意識に名前を呼んでいた。
「……日向……」
返事はない。
分かっているのに、口が勝手に動く。
夜になると、胸の奥が締めつけられる。
息をするたびに、何かを失った実感だけが深く沈んでいった。
そんな高人の前に、両親は何の前触れもなく現れた。
父は冷え切った目で息子を見下ろし、短く言い放つ。
「愚かな子だ」
母はその隣で、どこか哀れむように微笑んだ。
「本当に……哀れな子」
そして、静かに続ける。
「あの子は、お前を置いて行ってしまったのね」
その言葉に、高人の胸がひくりと痛んだ。
「日向……どうして……」
絞り出すような声だった。
父は溜め息混じりに言う。
「だから言っただろう。
手綱を引いておかないといけない」
冷酷なほど淡々と。
「目を離したら、すぐに死ぬような存在なんだ」
母も頷き、当たり前のことのように告げる。
「だから次は、もう逃げないようにしなさい。
外に出てはいけないよ」
その瞬間、高人の背中を冷たい汗が伝った。
「……そ、それは……ダメだ」
震える声で否定する。
「それは……俺が考えていたことと、同じだ……」
母は不思議そうに首を傾げる。
「そんなにダメなことなの?
私たち貴族は、ずっとそうしてきたでしょう」
正しい。
合理的で、安全で、間違いのない選択。
それでも、高人の胸は強く拒絶した。
「……わからない」
言葉を探しながら、ゆっくりと続ける。
「でも……日向が、もう一度……
俺の名前を呼んでくれるためには……」
視線を伏せ、拳を強く握りしめる。
「俺は、俺のやり方を……見直さないといけない」
しばらくの沈黙。
やがて、母が小さく息を吐いた。
「……そう」
父は一歩前に出て、低く言った。
「高人がそう思うなら、俺たちも手を貸そう」
高人はゆっくりと頭を下げた。
「……ありがとうございます」
その声は、かすれていた。
守りたいのか。
縛りたいのか。
愛しているのか、失うのが怖いだけなのか。
その答えを、高人自身がまだ知らないまま――
静かな狂気だけが、胸の奥で息を潜めていた。
日向はミアの家の前に立った瞬間、日向の足は震えて止まりそうになった。
ここへ来るまでに、何度も引き返そうと思った。
それでも、逃げたままではいられなかった。
扉が開く。
「……日向?」
その声を聞いた途端、胸が詰まり、日向は深く頭を下げた。
「突然来てしまって、ごめんなさい……」
顔を上げられないまま、ぎゅっと指先を握りしめる。
「私の……旦那の、高人が……」
喉が震え、言葉が途切れる。
「佐久間さんに、嫌がらせをしてしまったと聞きました」
しん、と空気が静まる。
「本当に、申し訳ありません」
日向は再び頭を下げた。
「私のせいで……こんなことに……」
謝らずにはいられなかった。
自分がここにいなければ、あんなことは起きなかったのではないかと、何度も考えてしまう。
「迷惑だと、分かっています」
それでも、声を絞り出す。
「それでも……少しの間だけ、ここに居させてもらえませんか……」
拒まれる覚悟をした、その瞬間。
「……違うよ」
ミアは静かに首を横に振り、日向の前に一歩近づいた。
そっと手を取られ、その温もりに思わず息を呑む。
「日向が謝ることじゃない」
真っ直ぐで、揺れない声だった。
「日向は、何も悪くないよ」
目から、ぽろりと涙が落ちる。
「ちゃんと向き合おうとしてるじゃない」
ミアはやさしく笑う。
「それだけで、十分だよ」
そして、迷いのない声で告げた。
「好きなだけいな」
「ここでは、安心していいんだから」
張り詰めていたものが、一気にほどけた。
「……ありがとうございます……」
何度も頷きながら、日向はそう答えた。
ミアの家の中は、静かで、あたたかい。
責められることも、怯える必要もない場所。
日向はその空気に包まれながら、ほんの少しだけ――
心を休めてもいいのかもしれない、そう思った。
屋敷は、こんなにも静かだっただろうか。
朝になっても、日向の足音がしない。
控えめに扉を叩く音も、遠慮がちな「おはようございます」も、どこにもない。
――分かっていたはずだ。
彼女は、もうここにはいない。
それでも身体は勝手に動いてしまう。
書斎を出るとき、寝室の前で足が止まった。
中を覗こうとして、拳を強く握りしめ、やめる。
「……馬鹿だな、俺は」
低く落とした声は、誰にも返されず、静寂に溶けていった。
机の上には、日向に渡すつもりだった書類と、
彼女のために用意した菓子が、そのまま残っている。
必要以上に甘いものを選んだのは、彼女が少しでも怖い思いをしないように――
そう思っていた、はずだった。
――本当に、そうだったのか。
引き出しを開ける。
そこにあったのは、例のブレスレットの仕様書。
「……守る、か」
口にした瞬間、胸が痛んだ。
守ると言いながら、
俺は日向の世界を狭めてはいなかっただろうか。
心配だ、不安だ、危ない――
そう言い続けて、彼女から「選ぶ権利」を奪っていたのではないか。
思い出すのは、あの夜の顔。
『今は、一緒にいたくないです』
震えながら、それでもはっきりと告げた声。
俺を拒んだ、初めての言葉。
……当然だ。
あれだけ縛っておいて、嫌われない方がおかしい。
父の声が、脳裏によみがえる。
『手綱を引いておかないと、目を離したらすぐに死ぬ』
母は当然のように言った。
『貴族はそういうものよ』
――そうだ。
俺も、ずっとそう信じてきた。
守るためには管理するしかない。
愛するなら、囲うしかない。
だが、日向は。
彼女は、鳥籠の中で震えていた。
安心していたのではなく、
ただ、逃げる方法を知らなかっただけだった。
「……俺は、何をしていた」
椅子に深く腰を下ろし、顔を覆う。
情けなさと後悔で、息が詰まりそうになる。
会いに行こうと思えば、行ける。
命じれば、彼女を連れ戻すことだってできる。
でも――
それをした瞬間、すべてが終わる気がした。
日向が、もう一度俺の名前を呼んでくれるためには。
恐怖でも、依存でもなく。
自分で選んで、ここに戻ってくるためには。
俺が、変わらなければならない。
「……待つよ」
誰にともなく、そう呟いた。
戻ってきてほしい。
けれど、戻ってこなくてもいい。
ただ、幸せでいてくれればいい。
それが愛だと、
今さら気づくなんて、遅すぎるのかもしれない。
それでも――
日向に、もう一度向き合う資格を得るために。
俺は今日も、
彼女のいない屋敷で、
自分の在り方を問い続けていた。
ミアの家は、あたたかかった。
火の音がして、湯気の立つ匂いがして、
誰かが当たり前のように隣にいる気配がある。
それなのに、胸の奥はずっと落ち着かなかった。
(……高人さん)
名前を思い浮かべただけで、胸がきゅっと縮む。
会いたくないわけじゃない。
嫌いになったわけでも、怖くなったわけでもない。
ただ――
このまま戻ってしまったら、
また同じことを繰り返してしまう気がした。
ミアが湯のみを差し出してくれる。
「無理して飲まなくていいよ。冷めたら、また淹れ直すから」
その言葉に、日向は小さく首を振った。
「……ありがとうございます」
声は、前よりも詰まらずに出た。
それに気づいて、少しだけ驚く。
ここに来てから、
誰かに見張られている感覚がない。
「外に出るな」と言われることもない。
何をするにも、許可はいらなかった。
……なのに。
(どうして、こんなに不安なんだろう)
高人の屋敷では、
何も考えなくてよかった。
次に何をするかも、どこへ行くかも、
全部、高人が決めてくれた。
怖かったはずなのに。
苦しかったはずなのに。
「……楽、だった」
ぽつりと、誰にも聞かれないように呟く。
守られるって、こういうことなんだと思っていた。
自分で選ばなくていいこと。
間違えても、責任を取らなくていいこと。
でも――
それは、「考えなくていい」代わりに、
「自分で生きなくていい」ということだったのかもしれない。
ミアが、ふとこちらを見る。
「日向、大丈夫? 顔、ちょっと暗いよ」
慌てて首を振る。
「だ、大丈夫です……その……」
言葉を探す。
前なら、ここで黙り込んでいた。
けれど、今は。
「……高人さんのこと、考えてました」
ミアは何も言わず、ただ頷いた。
「そっか」
それだけで、胸が少し軽くなる。
(高人さんは……今、どうしてるんだろう)
怒っているかもしれない。
傷ついているかもしれない。
でも――
あの人は、優しかった。
不器用で、少し怖くて、
それでも、誰よりも一生懸命だった。
日向は湯のみを、ぎゅっと両手で包む。
「……私」
小さく息を吸って、続ける。
「守られるだけじゃ……だめ、ですよね」
ミアは少し驚いた顔をしてから、柔らかく笑った。
「だめじゃないよ。
でも、“それだけ”だと、苦しくなることもある」
その言葉が、胸にすとんと落ちる。
(……そうだ)
高人が悪かっただけじゃない。
自分が、何も言わなかったのも事実だ。
怖かった。
嫌われるのが、捨てられるのが。
でも――
言葉にしなければ、伝わらない。
あの人が、自分の名前を呼んでくれたように。
自分も、ちゃんと呼ばなきゃいけない。
日向は、窓の外を見る。
空は高く、広くて、少しだけ眩しい。
(私……戻るなら)
ただ守られるためじゃなく。
怖いから隠れるためでもなく。
並んで歩くために、戻りたい。
「……高人さん」
声に出してみる。
震えたけれど、消えなかった。
その事実が、
少しだけ日向を強くした。
高人は、何もない部屋で一人、椅子に座っていた。
机の上には書類も、本もない。
ただ、小さな端末だけが置かれている。
日向の手首に巻いたブレスレットと繋がる管理端末。
位置も、音も、体調も――
すべてを“守るため”に知ることができる道具。
守るため。
そう、信じていた。
高人は端末に手を伸ばしかけて、止めた。
画面を見なくても、分かってしまったからだ。
怯えた瞳。
謝る声。
「ひとりで行きたい」と言ったときの、震え。
――あれは、安心している顔じゃなかった。
「……俺は」
低く呟いた声は、誰にも届かない。
知っていたかったんじゃない。
失うのが、怖かっただけだ。
高人は端末を手に取り、ためらいなく操作した。
解除。
接続遮断。
復元不可。
小さな音を立てて、画面が暗転する。
「……これでいい」
胸が痛んだ。
それでも、逃げなかった。
数日後、両親と向き合った席で、父はいつものように言った。
「愚かな子だ。手綱を引かなければ、守れぬものもある」
母も微笑みながら続ける。
「貴族とはそういうものよ」
高人は首を振った。
「俺は……同じにはならない」
否定でも、反論でもない。
ただの宣言だった。
「日向を壊すやり方で、守るつもりはない」
両親は、それ以上何も言わなかった。
その夜、高人は便箋を広げた。
何度も書いて、何度も破り、
最後に残ったのは、短い言葉だった。
――戻ってきてほしい、とは書かなかった。
――会いたい、とも書かなかった。
『日向が今、安心して笑えているなら、それでいい
俺は待つ
日向が自分で選んだ答えを』
封を閉じた指先が、わずかに震える。
それは、初めての――
手放す覚悟だった。
一方その頃、日向はミアの隣を歩いていた。
石畳の道。
行き交う人々の声。
遠くから聞こえる馬車の音。
少し前の自分なら、きっと立ち止まっていた場所だ。
「大丈夫?」
ミアの問いかけに、日向はゆっくりと息を吸い、頷いた。
「……はい。ちょっと、緊張するけど……」
言葉が、止まらない。
喉も詰まらない。
それだけで、胸の奥に小さな誇らしさが灯った。
お茶屋に入る。
注文をするときも、日向は自分で言った。
飲みたいもの。
砂糖の量。
席の場所。
どれも些細なことばかりだ。
それでも確かに――“自分で選んでいる”。
夜、部屋に戻り、ひとりになると、自然と高人のことを思い出していた。
怖かった。
苦しかった。
それでも――嫌いにはなれなかった。
「……好き、なんだ」
声に出しても、喉は詰まらない。
高人がいなくても、生きられる。
それは、はっきりと分かった。
けれど同時に、
「それでも一緒にいたい」と思う気持ちも、嘘ではなかった。
依存じゃない。
逃げ場でもない。
ただ、もう一度――選び直したいだけ。
日向は机の上に置かれた手紙を見つめる。
まだ、開いていない。
それでも指先は、自然と封に触れていた。
――会えない時間は、
――離れるためじゃなく、変わるための時間。
その意味を、二人は別々の場所で、同じように理解し始めていた。
再会の連絡を入れたのは、日向のほうだった。
短い文。
けれど、高人には十分すぎるほどだった。
人目の少ない場所で、二人は向かい合う。
少しだけ空いた距離。
そのわずかな隙間が、これまで二人の間に横たわってきた時間そのもののように感じられた。
高人は一歩も近づかず、深く息を吸ってから口を開く。
「日向、話がしたい」
日向は視線を逸らしたまま、小さく頷いた。
「……聞きますよ」
拒絶ではない。
それだけで胸が締めつけられ、高人は覚悟を決めた。
「形がどうであれ……日向が嫌なことをしたのは、間違いじゃない。ごめん」
飾らない言葉。
逃げ道のない謝罪。
日向はしばらく黙っていたが、やがて静かに問いかけた。
「もう二度と、しないと……約束してくれますか?」
試すための声ではなかった。
確かめるための、必死な声だった。
高人は即座に答える。
「約束するよ。絶対に」
そして、声を少し落とす。
「今まで……日向を縛ってた。本当に、ごめん」
その言葉を聞いて、日向は胸の奥で絡まっていた感情をほどくように、ひとつずつ条件を口にした。
「嫌だって言ったら、必ず止めてください」
「外出も、交友関係も……制限しないで」
「私の意思を、最優先にしてください」
高人は一つひとつ、噛みしめるように頷く。
「全部守る。俺が変わる」
沈黙が落ちる。
風の音だけが、二人の間を通り抜けた。
やがて日向が、震える息を吐いて言う。
「……好きです。でも……怖かった」
逃げも、誤魔化しもない言葉。
高人は目を逸らさなかった。
その視線で、逃げなかった。
「守りたかった。でも……結果的に、奪ってた」
それは、自分自身を切り裂くような告白だった。
日向はゆっくりと頷き、決意を込めて言葉を選ぶ。
「……それでも」
「もう一度、一緒にいたいです」
それは、守られるから戻るという選択ではない。
恐怖を知ったうえで、なお選び直した答えだった。
高人は、初めて心の奥から息を吐いた。
「ありがとう」
そして、静かに、けれど確かに言う。
「今度は……隣に立つ」
二人の距離は、まだ一歩分残っている。
それでもそこには、以前とは違う未来への余白があった。
結婚式は、小さく、ひっそりと行われた。
豪奢な装飾も、賑やかな音楽もない。
けれど、日向が深く息を吸っても胸が苦しくならない、静かな場所だった。
佐久間とミアが用意してくれたドレスは、柔らかな色合いで、日向の雰囲気によく似合っている。
「今日はね、ただ幸せでいればいいの」
その微笑みに、日向は小さく頷いた。
式場そのものは、高人の両親からの贈り物だった。
貴族らしい格式はあったが、二人の式に口出しはしない。
「選んだ道なら、歩きなさい」
それだけを残し、静かに席につく。
日向の手の中には、指輪があった。
自分で用意したもの。
お互いに何かあれば、すぐに分かるよう、特別な細工が施されている。
一方、高人は何も用意できなかった。
何を渡せばいいのか、分からなかったからだ。
だからこそ今日は、言葉だけを差し出す覚悟で、彼はそこに立っていた。
誓いの言葉のあと、日向が一歩前に出る。
少し緊張しながらも、高人の手を取る。
迷いのない動きで、高人の指に指輪をはめる。
その仕草は静かで、けれど確かな決意を宿していた。
高人は指輪を見つめ、言葉を失う。
何も用意できなかった自分を思い出し、胸が詰まる。
日向はそっと微笑んだ。
「私にも、つけてください。
持ち主に何かあったら、お互いに分かるように、ノアさんに作ってもらいました」
高人は息を呑む。
「……え? いいの?
それは、日向を縛ることに……」
日向は静かに首を横に振る。
「いいんです。
高人さんの全部を、否定したいわけじゃないんです」
少し照れたように、続けた。
「不安なことは……二人で解決しましょ」
高人は震える手で指輪を取り、日向の指に、ゆっくりとはめる。
「……ありがとう」
その指輪は、縛るためのものではない。
何度でも選び続ける、その意思の証として、そこに残った。
日向は一度息を整え、皆の前で言葉を紡ぐ。
「まだ最近の話ですけど、この世界に転生されて、色々なことが変わりました。
たくさんの人と出会って、色んな人に助けられて……私が思っているより、ずっと世界は広かったです」
少しだけ、高人を見つめる。
「今なら考えられるんです。
あの時、死ななかったから、今ここにいられるんだって。
そう思うためには……あなただけじゃダメでした。
でも、あなたがいないとダメだったんです」
高人が静かに問いかける。
「……俺でいいの?」
日向は、はっきりと頷いた。
「ミアが言ってたんです。
言葉は、理解し合うためじゃなくて、話し合うためにあるって。
次からは、ぶつかったら……二人でちゃんとお話しましょう」
高人は小さく笑う。
「うん。ちゃんと話そう。
これからは……日向の隣を、一緒に歩いてもいいですか?」
日向は少し照れながら、でも迷いなく答えた。
「はい! 私は高人さんのお嫁さんなんですから」
静かな式場に、優しい拍手が広がる。
それは、二人が
**“依存”ではなく、“選び合う”**と決めた瞬間だった。