―ついに俺は決意した。この集団墓地から外に出て、新しく生まれようと決意した。せっかく目が前に付いているのだ。せっかく自由意志があるのだ。生きてやろう。生きてやろう。思うままに。気まぐれな空の下で生きてやろう。ついに俺は決意した。
―ハァ…ハァ……。僅かな吐息と歩く音が響く。背中の荷物からとろけそうな香りが漂って、『白いやつ』みたくしゃぶり尽くしたくなる。
「抑えなさい。」
重い声でどうにか冷静さを取り戻す。後ろから刺すような親父の言葉にドキリとしながら、餌場から3m以上も続く長い列の中、誰も喋りもしないこの集団を改めて蔑する。
各々が生きているのだから、好きに話して、笑って、たまには喧嘩したりすればいいのに、そんなところは一度だって見たことがない。それをしないのは、いや出来ないと言うべきか、彼等が鎖に繋がれているからだ。この集団を維持して、もっと大きくするための、そのためだけのルールに縛られて、そこには『自由』が無い。そして『疑問』も無い。あるのは漠然とした自我と、集団を生存させる意識、それに従順な身体だけだった。何かを叩いて延ばしたような、そんな生活を捨て、飽和した好奇心に身を任せて世界を旅したいと願った。だからかもしれない。俺は彼等に対する強烈な嫌悪感が視界を遮って、自分の欲しか見えなくなっていた。
―やっとのことで運び終わった餌は、位の高い者から順に配られる。俺のような一番下の雑兵には僅かな量しか残らない。明らかに労働と見合っていないのに、異論は誰からもあがらない。もう俺は諦めた。いくら叫ぼうと風に散るだけで制裁は無い。それどころか誰も一瞥もくれない。
前に一度、位の高い者の一匹を噛んでみたことがある。それが弱者にできる精一杯の抗議だったのだ。そうしてようやく悟った。彼等には自分が生きるよりも、争わずに集団で生きることが何よりも優先されている。今自分がなぜ攻撃されているのかも、どうして反撃しないのかも、そいつは分かっていない。ただ、争って場を乱すよりは、攻撃に倣って静かに死ぬことを願っていた。そういう目をしていた。
位すら、誰が決めたのかを知る者は居ない。あるいは生まれた時から決まっていたのではないかと思われるくらいに、無意識に染み付いている。それに少しでも抗った俺がどれだけ異質な存在なのか。『白いやつ』の巣からも近いこの辺りをなぜ住処としたのか。……etc。問いだけはいくらでも湧いてくるのに、無機質な生命たちには答えを見つける術がない。そんな気概すらそもそも持ち得なかった。
それから明るい丸いのが3回落ちて3回登った頃、俺は気付いた。彼等は例えば俺が目の前で列を外れても、注意の言葉だけで追っては来ないのではないか。もしそうなら、ここに留まる意味もないのかもしれない。
用意すべきは知恵と度胸だ。どちらも充分あるように思える。だって生まれてからこれまで、俺は一度たりとも死んでないのだ。そう考えると、どんな難関にぶつかろうとも超えられる気がする。
それから知識も必要だ。『白いやつ』が現れるのは明るい丸いのが俺の頭を見下す時が多い。その時、奴がどう動いているのかを調ベなくては。
このちっぽけな身体と頭で、この広そうな世界を生き抜く。考えるだけで震える。恐怖じゃない。それが何かをこの身ひとつで確かめるのだ。なんとなく温かくなる。
―『白いやつ』の行動パターンを学習するため、俺は以前よりもポジティブに狩りに向かう。もちろんいつか外に出る前提だが、乱れない隊列も、誰一匹として喋らない彼等も、次第に嫌悪の対象からは外れた。
そうなってから怖いと思った。このポジティブさは実はいつか出ることを前提としていなくて、彼等と同じように生きる心の準備が整ったことを表しているのだろうか。
今、俺よりも若いやつはまだ教育中だ。現場では俺がいちばん若い。もしかすると、俺の親父を始めとした上のやつらが持つ、土の味よりも薄い自我は、若い時に俺と同じことを考えてその機会に恵まれなかっただけの、俺と同じような反逆と嫌悪の残滓、諦めが故の報酬なのか。
だとするならば、俺はここで嫌悪感を抱かなくなったことを恐れなければならない。何よりも、いずれどこかで膿のように吐き出されてもう二度とは戻らぬ自我を、そこで産み落とされる新たな屍を恐れなければならない。そうなった時、俺は俺とは呼べなくなるのだ。
俺は今再び強く、顎を噛み締めることにした。
―そこからまた数回明るい丸いのが登った時、いつも通りの隊列の斜め前方に見慣れない姿を見つけた。この辺りでは見かけないそいつは、明らかに俺や彼等とは違っていた。
「やあ、おチビ。何を見てるんだ?そんなに私が珍しいか?」
気軽に絡んできたそいつは、自らを『キリギリス』と名乗った。
「ああ、珍しいね。あんたみたいに暇そうな奴は。」
軽薄な態度になんでかムカついて、精一杯の嫌味で返す。
「おや手厳しい。私はこれでも暇じゃないのに。」
「暇じゃないって?餌を食わなきゃ死ぬってのに、働かないでいる奴がよく言えたもんだな。」
少しだけ熱くなった自分を反省して、次の言葉は静かに聞いやろうと思う。
「言えるさ。私は暇じゃないんだ。空がこんなに青い。どうせ死ぬならこんな空の下が良いだろ?この空の下、身体の端から重りが外れていくような解放をこそ望みたいじゃないか。大体おチビこそ、今放棄してる仕事はどうしたんだ?君も暇なんだろ。」
「そんなこと知るかよ。俺がいてもいなくても騒がれやしない。要はあんたと同じで暇なんだ。」
「おい待て、だから私は暇じゃない。馬鹿にするなよ馬鹿が。」
イラついたのか段々と口が悪くなってきたキリギリスに、思わず笑みが零れる。
「崩れ始めたな。カッコつけんのやめろよ。メッキの煌めきなんざそう長く続かねえだろ。」
「む……。そうだな、取り繕うのはやめにしよう。暇なんだ。何か話してみろ。」
気取った態度から一転、偉そうなキリギリスにもう一度ムカつきを甦らせる。
「…………俺は家族が嫌いだった。同じ生き物だと思いたくない。気持ち悪い。アレが動いていわゆる『生きる』ことをしているだけで吐き気がする。アレは『生きる』の真似事だ、模倣品だって何回自分に言い聞かせても、どうしても自分と違うって思えなくって、それにも胸が焼ける思いさ。」
一つ音を出せば連鎖した。それに感情を伴ってしまえば、もう止められない。キリギリスは真面目な顔で次の言葉を待っていた。
「―それでも最近は違うんだ。彼等に対する…嫌悪感って言うのかな…それが薄れてきてる。少しずつだけどそういう生き方もありか、なんて思い始めてる。怖いんだよ。そのうちこの少しが半分になって、俺の中で多くを占めるようになったらどうする。それに俺が気付けなかったら?そんなことばかり考えてしまう。たまらなく怖い。」
初めて自分をここまで露出した。終わるまでは心臓がうるさくて、終わってみれば石のように心地良い。昂らせた鼓動がゆったりと見失ったペースを掴む。
「……それはな、おチビ、成長というやつよ。誰だってそうやって成体になっていくんだ。」
キリギリスの言葉は期待から何mも遠い地点に着地した。
「あんた、マトモな事も言えるんだ。ならやっぱり話してても無駄そうだね。」
「結論を急ぐなよ。ここから私の話が始まるぞ。」
いかにもな導入だ。気取りすぎてイライラする。
「昔々のことだ。私は狭い部屋の中で目覚めた。そこは妙に生暖かくて、暗くて、とにかく狭かった。それでもその時は世界の全部で、しばらくは満足してたんだ。ある時、私は何の気なしに壁を掘ってみようと思った。そうしたら思いの外早く壁が崩れてな。今ここに至るってわけさ。」
省いた言葉の空隙にキリギリスの浸った表情で戸を立てたような話の薄さに、つい笑みがこぼれる。すっかり毒気を抜かれてしまってこれ以上は聞けなかった。
「―じゃあ、そろそろ行くよ。無駄って言ったのは訂正する。非礼を詫びるよ。なかなか楽しかった。」
「ああ、行くがいいさ。私も久しぶりに楽しかったよ。また来い。私は暇だからな。」
これが俺の分岐点だった。至極真っ当な隷属と狂い盛りの自由が手招きするのはどちらも暗闇、絶望なんて名前も良いかもしれない。一方には死があって、もう一方にもきっと死がある。だが両者は確実に異なる。このまま甘い言葉に誘われて孤独を啄むのも良い。空の明るい丸いのみたく行動に理由を求めずに、高尚を装って生きる、そんな妄想に鼓動を高鳴らせた。刻々と過ぎる時間は頭をひたすらに働かせる。細切れにされた思考で答えは出るのか、多分出ない。それでも良かった。ただ考えるのが楽しかった。呼応するように湧く新境地に心など無いが、さればこそ、この身体に根付く心がその代替品となる―。と、狂い盛りを現してみたが、それを狂っていると評するにはまだ時間が足りない気がした。
俺はどうしようもなく惹かれているのだ。それが自分で選び生きる自由なのか、それとも大いなる流れから抜け出すことの高揚なのかも知らぬまま。或いは両方か。同時に、今を保ちたいとも思っていた。集団の力と少ない餌を頼りに生きる。たまに嫌って、また今みたく考える。結論はさして重要でなかった。
―その時はやけに眩しかった。目を細めて前を向いたら、列も地面も歪んで見えたから、葉の影に入る。触角がいつもよりも重い。熱い身体を震わせるのが精一杯で、カチカチとなる顎が死を思わせる。きっと、死が眼前で俺を値踏みしているのだ。口吸いくらいはされているに違いない。となると身体のうち幾らかは既に死んでいるだろう。この眩しさと脱力感、それと妙な心地良さこそがキリギリスの言う自由なのか。そんな思考が実際にあるのかも分からない脳を巡る。
虚しい、とそう感じた。未知への高揚は、知ってしまった瞬間に収まるものだった。そしてそれすら持たない、持っていたのかもしれないが、とうに捨ててしまった同胞は、この虚しさに従いながら生き続けている。自由の先には隷属があった。俺ごときの矮小で浅はかな思考は、本能には見透かされていた。何が怖いものか。流れはいつだって見えていたのに。逆らえないことも。
そうしてとにかく考えた。せめてこの意識だけは最期まで失わぬように。この感情をどうにか形にできるように。考え続けて、ついに俺は決意した。この集団墓地から外に出て、新しく生まれようと決意した。せっかく目が前に付いているのだ。せっかく自由意志があるのだ。生きてやろう。生きてやろう。思うままに。気まぐれな空の下で生きてやろう。ついに俺は決意した。
そうと決まれば早かった。まずは死から身体を取り戻すことにした。ゆっくりと一脚ずつ無理矢理動かす。弱々しくも、生きる気力だけはみなぎらせて。
―バシャッ。何かが落ちてきた。上を見ると八本も脚がある化け物がいた。そいつは何か餌を持っていて、餌は傷口をこちらに向けている。ありがたい。偶然の水分は身体を蘇らせてくれた。この生きろという声が幻聴だろうと構わない。それが始まりだった。
終わりが近いことは分かっている。そしてその事実がなんのストッパーにもならないことも、よく分かっている。どうせ長く生きられないのに、本能に従う理由は無い。
本能が提示した自由が紛い物に見えるくらいの理想を追うこと、それを俺の自由としてただ比べてみる。別にそれが生でも死でも、もっと別のなにかでも、どうでもよかった。俺は今生きているのだと、心の底から実感できた。
―ある時、キリギリスにまた出会った。
「やあ、おチビ。元気じゃなさそうだが、良い目はしているな。何よりだ。」
相変わらず気取った口調に苛立ちを覚える。
「ああ、あんたはやっぱり暇そうだな。解放とやらは順調か?」
「まだ足りないらしい。あといくつ積み上げたら届くことやら。それに君の方が近そうだ。」
この軽薄な口調も一度慣れたら心地良い。声も気持ちも上振れる。
「やめてくれそんな、俺は死にたくないんだ。あんたやセミと一緒にするなよ。」
「もしくはカゲロウか?私と彼らの死にたい理由は違うんだがな。」
「そりゃあ初耳だ。じゃあ一体あいつらは何だってあんなに死にたがる?」
気付けばのせられて、キリギリスの言葉にしがみついてしまう。
「彼らはこの世界に絶望するのさ。生きていたくないんだ。何遍も何遍も同じ生き方を選んでいることにある時気が付いて、完全な終わりを引けるまで死に続ける。その点、私達は幸運さ。そんな記憶が還ることは無いとされている。これで少なくとも絶望の原因が一つ無くなった。」
誇らしげに締められた話は、小さい世界よりもずっと小さいこの身体には大きすぎて、どうもピンと来ない。きっと、この先死ぬまで考え続けても分からない。
「―そうか。よくわかった。それで?あんたの解放は絶望じゃないのか?」
「ああ、そうだとも。私が望むのは、もう死ぬだろうというその瞬間の、生涯全てを呑み込んでも余る広さ、この世界全ての広さと言ってもいい、それを理解した末、この『生』からの解放なんだ。むしろ希望だ。餌がどうだとか繁殖がどうだとか、そんなことが一切合切どうでも良くなるような希望。自分でなにか出来ると思うことすら烏滸がましいほど大きな希望。それらを内包している。」
やはり意味は分からない。それでもキリギリスの中では何かしら正当性があるのだということはかろうじてわかる。だから何も言えなかった。
―最近、白くて眩しい水の塊がよく落ちている。口に入れると水になるが、その前は固まっているそれは土に似た味をしていて、これがもっと大きくなると『白いやつ』になるのかと考えると身震いがする。その恐怖からか、俺の身体も動きづらい。風も強い。地面に着く脚が無ければ容易に飛べるだろう。あとは餌が無いこと、これが一番大きな問題だ。今の俺は群れでないから狩りは出来ない。葉も枯れてしまって、死んでるやつもいなければ、何も食べない時間が続く。前よりもそんな時間が多くなってから考えた。このまま死んだとして、それは大いなる流れの埒外なのか。俺はそれから抜け出すために単身で群れを飛び出してここまで生きたが、そんなやつが孤独に息絶えるところまでが流れなのではないか。生きている以上死ぬことは決まっている。なら初めからこの生き方は無駄死にと等しいのかもしれない。ここでも結論は出なかった。
「やあおチビ。死にそうじゃないか。」
随分と久しぶりなその軽薄な声は、俺の意識を何とか繋ぎとめた。
「久しぶりだなキリギリス。どうやら俺たちは最期まで気が合うみたいだぞ。」
キリギリスは白い塊に覆われて動かなくなった顔を無理矢理動かして笑って見せた。お互いに言葉はそれ以上出てこない。静寂が甲高い声で嘲笑う。
「―餌が無いんだ。」
どれくらい経った頃だったか、キリギリスが口を開く。それでも俺は返事が出来なくて、次の言葉を待つ。
「どこを探しても、花のひとつもない。おチビの群れにも頼みに行ったが、全員寝てた。だから、これが私の最期さ。」
白い塊に目を塞がれて見えないが、声は笑っていた。
「虚しいなあ、虚しいよ。」
いつもの軽薄な口調も声も失って、キリギリスは続ける。
「身体に枷なんて付いていなかったのに、最後は訳も分からないまま白いのに潰されるんだ。解放なんて馬鹿げたことを信じて、だいぶ遠くまで来たな。」
かつての俺と同じ感情を持って、キリギリスは死んだ。そして俺も、それを見えない目で見届けて、最期に空を一度睨みつけてから死ぬことにした。
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