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「遅くなって、すみません」
「いいのよ。どうせ淳がグズグズしていたんでしょ」
淳の実家の玄関を開けると、廊下の向こうから、淳のお母さんが朗らかな笑顔を見せ、出迎えてくれた。
「ちがうよ。日曜日だからデパートの駐車場が混んでいたんだ。母さん、コレ、お土産と誕生日プレゼント」
お土産やプレゼント。美味しい所は、自分のお手柄とでもいうように淳は、持っていたデパートの袋を母親へ手渡した。
「あら、ありがとう。愛理さんも気を使わせて悪かったわね。あがって、あがって」
デパートの袋を受け取り嬉しそうに笑う淳のお母さんの横から、長い手がスッと伸び、その袋を奪って行く。
ハタと気がついた淳のお母さんが声をあげた。
「やだ、翔ってば、子供みたいな事をして、お母さんがもらったのよ」
「荷物を部屋まで持って行ってあげようと思ったんだよ」
と翔は母親に言い訳をしてから、愛理に少し照れくさそうに顔を向けた。
「久しぶりだね、愛理さん」
大手建設会社に勤める淳の弟の翔とは、1年ぶりの再会だ。髪を切り揃えた翔は、以前の印象より落ち着いた大人になっていた。
「翔くん、久しぶり。帰って来ていたんだ。また、背が伸びたんじゃない?」
「この年で背が伸びるとか、無いから! これ以上伸びたらあっちこっちにぶつかって、歩き難いよ」
そう言って、笑う翔は180センチを超す高身長。淳よりも5センチは高そうだ。
「おい、久しぶりに会ったお兄様には挨拶ナシかよ」
「兄キは、元気なの見ればわかるからいいんだよ」
こうして3人で話していると、結婚前に淳の家へ遊びに来ていた楽しい頃に戻ったようで、懐かしいような切ないような気持にさせられる。
「愛理さんは、少し痩せた?」
翔から心配そうに顔を覗き込まれ、慌てて視線を逸らす。でも、最近、体の心配をしてもらう事もなかった愛理の心にさざ波を立てた。
「そんなことないよ。ちょっと疲れているのかも……。あ、お義母さん。私、台所手伝います」
「ありがとう、男の子はホント、気が利かなくてね。いい娘が出来て嬉しいわ」
クローズドタイプのダイニングキッチンに入る愛理と母親を横目で見送り、淳と翔はリビングルームのソファーに腰を下ろした。リビングにある大画面のテレビの中では、恋人同士が愛を語っていた。
「母さん、こういうの好きだよな」
そう言いながら淳は呆れ顔で、リモコンのスイッチを手に取り、ザッピングを始める。
「女性は恋愛脳なんだよ。優しい言葉を掛けてあげないと、萎れちゃうらしいよ」
「結婚したらそんな事、めんどくさくてやってられないなぁ」
「兄キ、嫁さんは自分の所有物じゃないんだから大切にしないと、愛理さんに捨てられるよ。イマドキ実家に来て、母親と台所に入ってくれるような人なんて貴重なんだから、それに優しくて、愛理さんは、お嫁さんとしては理想だよな」
翔の言葉に淳は鼻で笑う。
「結婚もしていないお前に言われても説得力がないな。嫁さんねー。愛理は、色々やってくれるし、妻としては理想的ではあるけど、長い事一緒に居ると女としてはなぁ」
「ふ~ん。兄キから見て、愛理さんってそんな評価なんだ。大事にしないで後で泣いても知らないぞ」
翔は揶揄うような瞳を淳へと向けた。それを面白く思わない淳がテレビに顔を向けたまま言葉を吐く。
「何で、俺が泣くんだよ。女なんていくらでもいるんだ。お前が、欲しけりゃくれてやるよ」
そう言った淳の後ろ、部屋の入口ドアのあたりで、カシャンと食器が当たる音を立てた。
その音で、慌てて振り返った淳の目に、鬼の形相の母親が映る。
「淳、お前はいくつになっても子供みたいな事を言って、愛理さんに聞かれたらどうするの」
怒りのせいか、母親の手にしたトレーの上の器がカチャカチャと音を鳴らしている。その音が酷く耳触りに響く。
「いや、ほら、本気じゃないし……」
降参をするみたいに手のひらを見せた淳が口ごもると、そんな反省の色が見えない態度に腹を立てた母親が声を上げた。
「嘘でも何でも、言っていい事と悪い事の区別もつかないなんて、いい大人がまったく情けない。しっかりしたお嫁さんが来てくれたんだから大事にして、早く孫の顔を見せてちょうだい」
「母さんの声の方が大きいから」
「まったくお前って子は、ああ言えばこう言うんだから、こんなんじゃ、お父さんの会社を任せるのはまだまだ先になりそうだわ」
母親の淳への小言が長くなりそうな気配に、翔はスッと立ち上がりリビングから抜け出した。
台所を覗いた翔の目に、愛理が今にも泣き出しそうな顔で洗い物をしているのが見えた。翔は自分が入って来たのを知らせるように壁をコンコンとノックする。
「ごめん……。聞こえちゃったよね。みんな無神経でごめん」
愛理は、首を横に振り泣き笑いのような顔を翔に向ける。そして、その場の雰囲気を取り繕うように話し出した。
「ううん。翔君のお母さん大好きだよ。実家の母は、いつも父の味方をして、私のためにああやって怒ってくれるなんてしなかったから……。お母さん、温かいよね」
必死にさっきの騒動を良いように言い換える愛理の姿が、翔の目には酷く痛々しく映る。
「いや、兄キも無神経だし」
「それは……」
と、口を開きかけたところで、心の中に溜まった物が溢れ出すように愛理の瞳がゆらゆらと揺れる。愛理は、今にもこぼれそうな涙を隠すように翔から背を向けた。
「愛理さん……」
翔は小さく呟き、細い背中へ、そっと、手をの伸ばした。
愛理の背中へと伸ばしかけた翔の手のひらが、ためらうようにギュッと握られた。
そして、ゆっくりと手が開かれ、愛理の髪に優しく触れる。
その手の感触に愛理はピクッと肩を小さく震わせた。翔は、髪を梳き、一房だけ手のひらに留める。
「オレで良ければ、相談に乗るから、いつでも電話して」
愛おしげに、愛理の髪を自分の指先に巻きつけ話しを続ける。
「仕事の関係で、出張に出ている事が多いけど、兄キの愚痴でも何でも話しを聞くぐらいできるから……」
名残惜しむかのように、ゆっくりと絡みつけた指先から髪を放した。
「翔くん……」
と言って、振り返った愛理の瞳を、翔は切なげに見つめ、そっと手を伸ばした。
けれどそれは、慰めるようにポンポンと肩を撫でた後、スッと離れていく。
ダイニングキッチンのドアの横で僅かに振り返り、リビングへと戻っていく翔の広い背中にかける言葉を、愛理は見つける事が出来なかった。
ひとり台所に残った愛理の瞳が涙で潤みだす。
淳にとって、自分の存在があまりにも軽い事を改めて突き付けられた。
その出来事に同情してくれた、翔の優しさに縋りたくなる。それほどまでに、愛情に飢えている自分が哀れだと思えた。
「母さんと兄キの話し、愛理さんに聞こえていたみたいだよ。落ち込んでいる」
リビングに戻った翔は、ソファーに腰を下ろした。それと入れ違うように母親がソワソワと立ち上がる。
「そろそろ、お父さんも帰ってくるから、ご飯の支度に戻ろうかしら」
「母さんも愛理さんに余計な事言うなよ。孫が欲しいとか。まったく、たまに実家に帰ってきたらモラハラ、マタハラの自覚無しの家族とか、カンベンしてくれよ」
そう言って、翔はソファーに深く寄りかかり、天井を仰いだ。バツが悪くなった母親はそそくさとリビングから立ち去って行く。
翔がチラリと淳の様子を窺った。その視線に気づいた淳は、躱すようにテーブルの上に視線を落とす。そして、膝の上に両肘をつき、隠すように組んだ両手を口元にあてポソリと呟く。
「俺は、別にモラハラなんかしてないよ」
「自覚無しとか、一番タチ悪い。さっきのはモラハラだよ。可愛い弟が兄キにピッタリの格言を授けてあげよう ”いつまでもあると思うな愛と嫁”」
「ばーか」
と言って、苦笑いを浮かべているを淳を翔は真っすぐに見据えた。
「兄キ、さっきなんて言ったか、覚えてるだろ⁉」
「何言ったっけ?」
淳はとぼけるように視線を漂わせた。
「兄キの嫁さん……。愛理さん、俺が欲しければくれるんだよな。せっかくくれるって言われたから、遠慮はしないよ」
「えっ⁉」
淳の耳にドクドクと早く脈動する自分の心臓の鼓動が聞こえた。
ふたりの間に沈黙の時間が流れる。
その沈黙を破ったのは、翔のクスリと笑う声だった。
「な~んてな。兄キも少しは危機感持って嫁さん大切にしなよ。俺じゃなくても他の男が、愛理さんの魅力に気付いて、攫って行くかもしれないよ」
そう言った翔の瞳が笑っていないことに、淳の鼓動はいっそう早い脈動を続けていた。
*
「今日は、疲れたよな」
自宅の玄関で靴を脱ぎながら、淳は愛理へ話し掛けた。だが、愛理は視線を逸らし「うん」と短く返しただけで、靴を脱ぐと目も合わせずにサッと洗面室へと入って行く。
愛理の普段とは違う様子に、淳は軽い気持ちで言った言葉を聞かれたのは拙かったと、息を吐き落とした。そして、リビングのソファーにドカッと腰をおろし、背もたれに寄りかかる。
「あー、だるい」
実家での出来事を思い出した淳は、普段の倍、疲れた気がした。
弟の翔に向けられた真っすぐな瞳。
投げかけられた言葉が脳裏によみがえる。
「遠慮はしないとか、他の男に攫われるとか、生意気に俺に忠告でもしているつもりかよ」
ひとり呟き、胸の中のモヤモヤを吐き出すように、「はーっ」と深くため息を吐いたところで、洗面室から出て来た愛理がカウンターの先のキッチンへ入ったのがわかった。
「俺、お風呂洗ってこようか?」
ご機嫌取りに言ってみたが、愛理からは抑揚のない声が帰ってきた。
「もう、洗ってきたから、沸いたら入って」
そう言って、愛理は両手に持っていたコーヒーカップを1つだけ、淳の前のリビングテーブルに置き離れていく。そして、ダイニングの椅子を引き、自分の分のコーヒーを飲み始めた。
普段なら、”どうぞ”とか”はい”とか言って、渡してくれるのに黙ってテーブルの上にカップを置かれた。その事を寂しく思った淳は、愛理に向かって話かけようとした。けれど、不意にポケットの中のスマホが振動を始める。
さりげなさを装いスマホを取り出しタップした。画面に表示された文字を見て、眉根を寄せる。それは、交際相手からのメッセージだった。
愛理の様子をチラリと窺い、淳はスマホに返事を打ち込んだ。
『また、連絡する』