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私の引っ越しは、ほとんどの荷物はまとめてあったから、あっさり終わった。
|千歳《ちとせ》と暮らすために借りたアパートは、四月に引っ越したばかりで、身の回りのものは、まだそんなに増えていなかった。
ドキドキしていたけど、父や継母は会社のことで手いっぱいなのか、私のアパートに現れず、顔を合わずに済んだ。
「ここが新居がある町……?」
「ん? そうだ」
新しく住む場所は、都会でも緑が多く、閑静な住宅地で有名な場所である。
住宅地の周辺に、歓楽街のようなものは一切見当たらない。
――ここ、高級住宅地なんですけど。
|理世《りせ》は|麻王《あさお》グループの専務で御曹司だとわかったけど、いざ、その財力を目にすると、戸惑ってしまう。
勢いで婚姻届にサインしてしまったけど、私でよかったのかな?
理世が良いっていうのなら……って、何度目ですか?
この自問自答。
「あ、あのー……、つかぬことをお聞きするのですが」
「うん?」
「ご家族の方は私と理世が結婚したことを知ってるの?」
「もちろん、報告したが、快く結婚を認めてくれたよ」
すごく素敵な笑顔に、一瞬騙されかけたものの、私の目は誤魔化せない。
「理世。本当に?」
「心配しなくていい。|悠世《ゆうせい》が継ぐよりはマシだって思っているだろうな。祖父と父は引退状態で、ほとんどの仕事を俺に渡している。人脈があるから、まだ社には必要だが」
「理世が麻王グループのトップ?」
「そうなる」
理世の運転する姿をちらりと見る。
運転をする理世も素敵だった――って違うでしょ!
「ほら、琉永。新しい住まいに着いた。琉永が好きそうだと思ったけど、どう?」
さすが高級住宅地にある家は違う。
家の周りを高い塀で囲み、塀の向こうには青々しい葉を茂らせている木々が見える。
車から降りて、私は庭に入った。
庭だけでも、家がもう一つ建てられそうな広さだ。
「素敵な家。海外にある家みたいだけど、理世の家?」
「祖父が持っていた家のひとつを俺に譲ってくれた。悠世にはビルをやったから、俺にはこの家を渡したんだろう」
「家のひとつ? ビル!?」
――おじいちゃんからのお小遣いにしては、スケールが大きすぎる。
それとも、生前贈与だったのか。
悠世さんも理世も、とても大切にされて育ったのだとわかる。
レンガ造りの家の中に入ると、廊下の白い壁には額縁に入った絵画がずらりと並び、部屋には高そうな置物や壺が飾られている。
その上、天井にはアンティークものと思われるシャンデリアと曲線が美しい螺旋階段、窓枠の一つ一つにも模様が彫られていて、住んでいた人間のこだわりと趣味の良さを感じた。
「琉永、こっちに」
理世に呼ばれた先にあったのは、アールデコ模様のガラスのドア。
開いたその先は、広いアトリエになっており、真新しいトルソーが並び、大きな作業台とミシンも用意されている。
「もしかして、アトリエ?」
「そうだ。琉永の仕事場だ。俺の書斎は向こう」
「こんな広い部屋を私が使ってもいいの? 家もだけど、美術館みたいで……」
なにもかも、私が思っていた以上のことばかりで、戸惑ってしまう。
「琉永はデザイナーだ。日常的にいいものを見た方がいい。祖父の道楽で集めた美術品が置いてあるだけの家だが、役に立ちそうでよかった」
――道楽のレベルが、一般の感覚とかけ離れすぎているんですよ?
廊下には絵画が飾られ、玄関ロビーには彫刻が置かれているのを横目に、ひきつった笑いを浮かべた。
「そ、そうね。勉強になるわ」
「荷物の片付けを手伝おうか?」
「そんなにないから大丈夫。理世は忙しいでしょ?」
「まあ、そうだな。明日から、家事代行サービスを頼んである。キッチンに食料は、それなりに揃えてもらってあるから、好きなものを食べてくれ」
「家事代行サービス……」
私は作り笑いを浮かべた。
「どうかしたか?」
「ううん。気遣ってもらって申し訳ないくらい……」
もちろん、私は家事代行サービスを使ったことがない。
書斎に入っていく理世は、やっぱり忙しそうで、邪魔しないでおこうと思った。
「……昨日までアパート暮らしだったのに、まるで魔法みたい」
荷物を片付けながら、そんなことを思った。
私のアトリエだという部屋は、大きな窓が曲線を描き、庭の風景を楽しめるようになっている。
高い天井には、ステンドグラスの小さな小窓があり、そこから日差しが入ると、床が飴色に染まる。
アトリエから庭へ出ることも可能だ。
「見惚れてないで、荷物を片付けないと」
段ボールの中から、デザインの本を本棚に並べていく。
――私、本当にここに住むんだ。理世の妻として。
部屋に自分の荷物が増えるほど、胸がドキドキしてくる。
「あ、これ……」
段ボールの中にあったのは、理世からもらったブーケだった。
それをドライフラワーにし、飾ろうと思っていたものだ。
アパートを出る時、ちょうどいい具合に乾燥されていたから、それを一本ずつ手に取り、まとめて束にした。
――あの男の人は理世だよね。
でも、それより前に会ってたって言うけど、私が理世と初めて会ったのは、いつだろう。
やっぱり思い出せなかった。
「琉永。昼食の寿司が届いた。片付けは終わったか?」
「まだだけど、もうすぐ終わるわ。昼食をありがとう。あの、理世……」
理世の視線がブーケへ向いている。
「大事にとってあったのか」
「うん。思い出の品。これをもらう前は、自分がすごく不幸に思えて、悲しくてしかたがなかったの」
「泣きそうな顔をしていたからな」
「ハンカチもありがとう」
「琉永が俺を覚えていたことが一番嬉しい」
私が理世との出会いを覚えていたことが嬉しかったのか、目を細めて微笑んだ。
「理世。私と一番初めに会ったのはいつ?」
「それは秘密だ。琉永が気づいたら、教えてあげよう」
「教えてくれないの?」
「簡単には教えられないな。俺に気づいていなかった琉永に、罰を与えないと」
知りたかったのに、理世は頑として教えてくれなかった。
でも、私は覚えていなかったのだから、文句を言える立場じゃない。
――最初の出会いを忘れるなんて、私の馬鹿!
ヒントさえ、理世はくれなかったのだった。