今週中に何らかの決着がつけばいいと思っていたが、夏希から電話がかかってきたのは、その次の日だった。
朝礼前、管理棟裏の喫煙スペースで煙草を吸っていた際にかかってきた電話に、どこか不吉な気配を覚えつつ篠崎が出ると、夏希は少し掠れた声で言った。
「私、もう一度だけ…、東田のこと、信じてみようと思って…!」
その意外な結論に、篠崎は危うく煙草を落としそうになった。
「それはつまり……よりを戻されるということですか?」
「えっと」
夏希は少し照れくさそうに言葉に詰まった後、大きく息を吐いていった。
「はい。今すぐにというわけじゃないんですけど、少し冷却期間をおいて、お互い自分たちの大切さをわかり合ってから、っていうことになったんです。なので、当分は夫は実家に。
なんか調べたところによると、普通離婚してから女性は半年間再婚できないらしいんですけど、その離婚した相手とはすぐ再婚できるらしいので、二人でタイミングは決めて、また籍を入れ直そうと」
「……」
26歳と24歳の若い夫婦。
妻が子育てに夢中になるあまり、寂しくなった夫が他に癒しを求めて浮気をする。
世間一般的に言えばよくあることかもしれない。
そういう修羅場を乗り越えて、また夫婦として再構築していく例はいくらでもあるだろう。
マシな決断だ。
夏希と葵がこれから生きていく中で、一番楽な決断だ。
しかし――――。
浮気が許せなかったから離婚したのではなかったのか。
「よかったですね」
いろんな言葉を飲み込んでから言うと夏希は、
「はいっ!」
と大きな声で返事をした。
電話を切り、朝日が照らす葉の落ちた広葉樹を見上げる。
自分なら許せない。
愛している人に裏切られ、それでも笑って一緒に過ごしていくなど、想像できない。
もし万一、新谷が、自分の意思で誰かとそういうことになったとして、
誰かに抱かれた身体なんて、
触りたくもない。
二度と……。
「あら篠崎店長。おはようございます」
いつの間にか、喫煙所にはミシェルの牧村が立っていた。
「おお。おはよう」
「寒いすね」
言いながら湯気が出ている缶コーヒー片手に、肩を縮こませて煙草を取り出す。
カチッ…カチッ……
「あれ。ガス切れかな…」
困っている牧村にライターを投げると、彼は上手に受け取り、
「あざっす!」と愛嬌のある顔で笑った。
並んで煙を吐き出す。
「あれ……」
口を開いたのは牧村だった。
「今日もセゾン君の車がない」
「……ああ」
新谷のことを言っているのだということに数秒を要した。
「あいつは今週一杯、出張だよ」
「へえ?どこにすか?」
牧村がこちらを見上げる。
「天賀谷に」
「……あー」
言いながら煙草をくわえ、また煙を吐き出している。
「この間、天賀谷ナンバーのキャデラック停まってましたもんね。そっちに支部本体がある感じすか?」
「まあな」
紫雨の車だ。観察眼の鋭さに胸の内で舌を巻く。
やはり油断ならない男だ。
「セゾンちゃんじゃなくて、セゾン君になったのか?」
何でもないことのように笑いながら言うと、牧村は含みを持たせて目を細めた。
「ええ。この間、ちょっと可愛くなかったから。セゾン君に降格です」
「………」
その表情に確かに雄の匂いを感じ、篠崎は思わず口を閉じた。
牧村はその篠崎の表情に満足したようにニッと笑うと「ライターありがとうございました」とまだ長い煙草を灰皿に押し付け、ファミリーシェルターの展示場へと帰っていった。
その後ろ姿を見ながら仄暗い気分になる。
出来ることなら新谷に忠告したい。
近づくなと牽制したい。
しかしあの手の輩は……
『俺だったらさ、急にそっけなく避けてきたりあからさまに警戒してきたら、そりゃあもうグイグイ行きたくなるタイプなんですよね?』
紫雨の言葉を思い出す。
「絶対に同じタイプだよな……」
篠崎はあきらめにも似た気持ちでため息をつくと、灰皿に煙草を押し付けた。
「どうぞ」
「おお……」
オムレツ、ポテトサラダ、キュウリの浅漬け、白菜のクリーム煮、甘鮭、ご飯、味噌汁、納豆———。
新谷は目の前に並んだ、ホテルの朝食バイキングさながらの品数を目にして、思わず声を漏らした。
「すげえ……。林さん、嫁に来てください…」
「おいこら、林は俺の嫁なんだけどぉ?」
ダイニングテーブルの向かい側には、寝癖をつけたままの紫雨が、膝を立てて座っている。
「紫雨さん、足」
立てた膝を叩きながら林が紫雨のコップに牛乳を注いでいる。
(嫁というより、お母さんかな…)
新谷は苦笑しながら手を合わせた。
「いただきます!それにしてもすごいですね!毎日こんな豪華な朝食作ってるんですか?」
「まさか」
林の代わりに紫雨が答える。
「今日は特別ご機嫌なんじゃないの?」
「ご機嫌?」
新谷がキョトンと見上げると、林は外したエプロンを紫雨の顔に掛けた。
「ああ。なるほどね」
新谷は微笑みながら厚焼き玉子に箸を伸ばした。
「え」
林の顔が青ざめる。
「そんな青い顔しなくても。ここは林さんの家なんだから、誰も文句なんて言いませんて」
「……あ」
林は口を開けた。
細い汗が一筋、うなじを伝う。
「まさか……新谷君……」
「林さんって―――」
大きな瞳に焦っている林が映る。
「声、可愛いんですね」
「ああああああ!!」
「いてっ!!」
林は意味もなく新谷を叩いた。
エプロンをとった紫雨が呆れる。
「馬鹿。違うよ、林。さっき、お前が朝食作ってるときに、大音量でなんか歌ってただろ?それで起きた新谷が、『楽しそうですね~』って笑ってたんだよ」
「………」
林ははたかれた額を抑えながらも、キュウリに箸を伸ばした新谷を見下ろした。
「ん!この浅漬けもうまーい!」
言いながら食べ続ける新谷に、林は安堵のため息をついた。
◇◇◇◇◇
「ではでは!お世話になりました!」
新谷は鞄とお泊りセットが入っているバッグを持ち上げお辞儀をした。
「え?今日からはどこに泊まるんですか?」
てっきり滞在中はずっといるものだと思っていた林は、思わず玄関まで彼を追いかけた。
「今日からは実家に泊まりますよ」
新谷はニコニコと笑った。
「そうか。実家、時庭でしたね」
言うと新谷は頷いた。
「昨日は楽しかったです。ありがとうございました」
「いえ、紫雨さんに付き合っていただき、ありがとうございました」
「では!」
ドアを開けた新谷は「あ。そういえば……」と言って振り返った。
「アパートって、マンションと違って壁が薄いから、気を付けた方がいいですよ」
「?」
「男の声って低くて、意外と響くみたいですから」
「…………」
目の前でドアが閉まる。
「っ!」
林は頭を抱えて、その場で座り込んだ。
「少し意地悪だったかなー」
由樹は笑いながら自分の車に乗り込みエンジンを掛けた。
「あ……」
何気なく携帯電話を見ると、篠崎から着信が入っていた。
慌ててかけ直す。
篠崎はまだ携帯電話を手に持っていたらしく、すぐに応じた。
『おう。おはよ』
その声はやはりどこか疲れているような吐息に混じっていた。
「おはようございます」
『……今、何してた?』
「林さんのアパートから出たところです」
『そうか』
電話の向こうの彼は煙草を吸っているらしい。
聞きなれた唇の音で由樹は頬を緩めた。
『なあ』
「はい?」
『お前、セゾン君になったのか?』
唐突に振られた話題に、思わず閉口する。
でも考えてみれば、“セゾンちゃん”も、”セゾン君”も、面と向かって言ってくる人物など一人しかいない。
喫煙スペースで一緒になり、二人で由樹の話を笑いながらしたのかもしれない。
由樹は目を細めた。
「ええ。残念ながら降格しました……」
『やっぱり昇格じゃなくて、降格なんだな』
言いながら篠崎は弱く笑った。
声に元気がない。
「篠崎さん?どうかしましたか?」
『あ?いや?』
「疲れてます?それとも何かありましたか?」
『……んー……』
こんなに歯切れの悪い篠崎は初めてだ。
本当に何かがあったのだろうか。
『ねえよ。何も。抱き心地の良い枕がなかったから、なんとなく眠れなかっただけだよ』
「えっ」
途端に頬が熱くなる。
『早く終わらせてとっとと帰って来いよ。新谷……』
声に甘えが混じる。
(………っ!こんなの、初めてだ…っ!)
由樹は普段、上司としても恋人としても頼れる男の、初めて見せる不安そうな様子に、興奮して息を吸い込んだ。
「………は、はい…!マッハで終わらせて帰ります!」
『ああ。でもちゃんと夜は紫雨たちと飲んだくれてないで、ゆっくり寝ろよ?』
「あ、はい」
『こっちに帰ってきたら……寝かさねぇからな』
「…………っ」
その言葉に、顔中というより、体中が燃え上がった。
『じゃあな。客前でおっ勃ててんなよ』
笑いながら電話は切れた。
「じゃあ、言わないでよ……」
嫌でも耳に入ってきた昨晩の2人の情事の影響もあり、由樹は痛いほど反応している下半身を物憂げに眺めた。
「いや、まずはお客様だ……」
今日は3件もアポを入れていた。
話はじっくり聞きたい。でも早く実家の母の顔も見たい。
「よし。行こう!」
由樹は気持ちを奮い立たせると、勃ち上がる下半身から目をそらし、ハンドルを握った。
「あれ?」
ホワイトボードに予定を書き込んだ牧村の後ろから、板倉がそれを見上げた。
「お前、今日、出張?」
牧村はペンのキャップを締めながら振り返った。
「別に今日じゃなくてもいいんですけど。俺、今週、宿泊展示場クリーニングの当番なんですよね」
「ああ、そうか。営業で順番に回してるんだっけ?」
板倉は自分の席に戻り、方眼紙を開いた。
「おお~!方眼紙だ。懐かし。設計長ってCAD使わないんすか?」
牧村が覗き込む。
「CADも使うよ、もちろん。でもたまに煮詰まったら方眼紙も使う。お前、大学は設計だったもんな」
「ええ。もうあんときは一日何枚書かされたことか」
牧村が当時を思い出して苦笑する。
「設計士になればよかったのに」
板倉が言うと、彼は口を窄ませた。
「設計ももちろん好きなんですけど……」
「なんですけど?」
「俺、人間が好きなんですよね」
「へえ」
板倉がコーヒーを一口すすりながら笑う。
「お前からそんな人間らしい言葉が出るとはな」
牧村が含み笑いをする。
「人間が、というより、人間を落とす瞬間が好きなのかも」
言いながらスラックスのポケットに手を突っ込む。
「あ、悪い顔」
板倉が笑う。
「ん?」
何も入れていないはずのポケットから、ライターが出てきた。
「あ、しまった。お礼だけ言って返し忘れた」
その高そうなジッポライターを見ながら牧村は口を開けた。
「ま、いっか。あいつに返しておいてもらおう」
呟きながら鞄を手にする。
「じゃ、いってきます!」
「おお、いってらっしゃい。山道気をつけろよ。店長には伝えとくから」
「よろしくでーす」
牧村は事務所のドアを開け放ち、朝日が差し込む駐車場に溶けていった。
板倉はホワイトボードを再度見つめた。
「あいつ、結構達筆だよな」
そこには、
【牧村】→天賀谷宿泊展示場
と書かれていた。
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