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クオルがボーニスと落ち合う日がいつかは分からなかった。落ち合う時間も分からなかった。ただしどこかの森だということだけは分かっていた。
そのため、鼠たちに常に工房馬車の周囲を見張ってもらうことになった。森を見かければ報告してもらい、準備した作戦を展開する。
今や冬は大陸全土を支配して、お膝元たる北部の土地を雪と氷で覆い尽くし、世界の始まる前を懐かしむように真っ白に染め上げている。
実験の日々に、クオルが鍵を手放す瞬間は一度としてなかった。
そして、とうとうその夜がやってくる。銀世界に目を凝らしていた鼠の誰かが工房馬車の行く先に黒々とした赤松の森を発見し、それをレモニカの元に報告に来たのは第一の家臣ブーカだった。
工房馬車はがたごとと揺れながらも雪道を真っ直ぐに突き進み、速度を落とすことなく赤松の森へと突っ込み、しかし密なはずの木々の隙間を避けつつ蛇行し、まるで工房馬車用の秘密の抜け道があるかのように少しもつかえることなく通り抜ける。そうして二階の書類や書物はさらに破滅的に舞い散らかり、揺れる鳥籠の中でレモニカは必死に酔いを堪えた。
クオルが一階へと降りたのを見計らって、鼠たちがレモニカにも見えるようにいくつかの窓蓋を開いてくれた。雪の中に立ち並ぶ赤松が飛ぶように過ぎ去っていく。
工房馬車が停まったのはやはり森のただなかだった。何か目印があるわけでも、その場所だけ開けているわけでもなく、ただ森の中途でしかない場所に工房馬車は停まった。ユーグ・ラスの荒野においても、これといって目立つものは工房馬車の他にはなかったので、意図してのことだろう。
その赤松の森に名はなく、ユーグ・ラスの荒野同様に人の近づかない森だった。いずれ現れる開拓者によって切り拓かれる時まで、人食いの狼の遠吠えとその犠牲者のすすり泣くような恨めしい声だけが響く不気味な森だった。
クオルが工房馬車から出て行くのを、レモニカは足音と報告で確認する。ボーニスは既に森で待っていたらしい。窓からその姿を確認する。かなり離れた場所だが、レモニカの鼠の目にも立派な赤松の間にボーニスが一人立っているのが見えた。
前と同様に馬車に招くものと思っていたが当てが外れた。とはいえ、作戦に支障はない。
「あとはお願いしますね。ブーカ」とレモニカは、窓枠に立って外を眺めるブーカに言う。
「お任せくださいませ、レモニカさま。陛下の率いる犇めき騎士団が見事レモニカさまを救ってみせましょう」
ボーニスの元にクオルが歩いていく。雪に足を取られているのか、不格好に手足をばたつかせている。ボーニスも近づいて来ようとするが、クオルが手で制止した。
二人が会話を始めると、それを合図に工房馬車のあちこちから鼠たちが飛び出した。優に千を越える大群だ。巨大な工房馬車とはいえ、一体どこにこれ程の数が潜んでいたのかレモニカにも想像がつかない。もはや鼠嫌いがどうのこうのという次元ではない恐怖と嫌悪の塊だ。まるで粘性のある黒い怒涛のように、意志持つ影のように、鼠の群れが雪も仲間も踏み越えて、きいきいと鬨の声を上げ、クオルの背中へ迫る。
鼠たちに最初に気づいたのはボーニスで、少しも声を出すことなく、すぐさま魔法の剣を抜き放った。刀身に込められた魔がわななき、雪に覆われた森がざわめく。遠巻きに見ていた人食い狼や亡霊までもが恐れ戦いて逃げ出した。空気が震え、赤松に積もっていた雪が一斉に落ちている。鼠たちもまた混乱に飲まれたが、それがむしろ功を奏する。
振り返ったクオルが見た鼠の群れは二人を避けるように左右に大きく広がっており、クオルの逃げる場所は一方向しかなかったのだ。
いかに鼠への恐怖に立ち向かっていると言っていたクオルでも、その毛むくじゃらの大波からは逃げ出した。しかし半狂乱になるでもなく、ただ冷静に危機から遠ざかろうとしている。
レモニカに最も近い距離にいるのがボーニスになった途端、その小さな鼠の体が大きく膨れ上がる。鳥籠は容易く弾け飛ぶ。手足も大きく成長し、天鵞絨のごとき艶やかな体毛に覆われる。瞬く間に部屋いっぱいになっても、さらに巨大化する。両手の水かきが指の間に張られ、巨大な皮膜へと変わる。とうとう蝙蝠の王の巨体は屋根を突き破り、レモニカは冬の冷たい空気を全身に浴びた。
ボーニスがこちらを見上げているのをレモニカは反響音で感じる。暗闇の中でクオルの逃げている方向も距離も正確に聞こえる。レモニカはボーニスを回り込むように弧を描きつつ、クオルを追うように走る。
細い赤松を艶めく両の翼で乱暴に掻き分け、押し倒し、雪を踏み越え跳ね上げ、暗い森をどたどたと走る。再びボーニスの魔の剣の鐘の如き響きが聞こえる。音響の視界が揺らぐ。やはり空を飛ぶ選択肢はない。
次の瞬間、近くの赤松の幹が中ほどで内側から破裂し、レモニカの方へと倒れてくる。狙われていることに気づいて慌てて逃げるレモニカを追うように鐘の音が響き、赤松が弾け飛ぶ。一本二本であれば、その巨体を煩わせるほどのものではないが、太い幹の赤松が次々と軽々と弾け飛び、レモニカにのしかかろうと倒れてきた。
邪魔な赤松を押しやりながら苦心して進む。立ちはだかる赤松、追ってくる赤松を太い腕で押し倒す。しかし、それらに気を取られ、足元が疎かになり、すでに倒れている赤松に足を取られて、巨大蝙蝠のレモニカは倒れ込んでしまった。そこへ次々と赤松がのしかかり、まるで罠にかかった鼠のように身動きが取れなくなる。
魔法のように深く重い響きの鐘の音が尻尾を振る猟犬のように近づいてくる。レモニカを励ます鼠たちのきいきい声が聞こえる。何とかのしかかる赤松から這い出そうとするが、押し付けられる雪の冷たさが身に沁みるばかりだ。
赤松の森の闇の奥で炎が閃く。レモニカは一瞬、ベルニージュを連想したが、その炎の主はクオルだった。クオルとて鼠をただ恐れるばかりではない、ということだ。
諦めかけたその時、まるで赤松に押し潰されるように体が縮んでいく。そうして赤松同士が支え合い、丸天井のようになった無数の赤松の下でレモニカは鼠の姿へと変わっていた。
再びクオルがレモニカの最も近くにいる人間となったのだ。鼠たちがクオルを追い込んでくれたらしい。しかしこのまま待てばまたボーニスがやってくる。レモニカは小さな鼠の体で赤松の丸太の隙間に潜り込み、そそくさと絶体絶命から逃れる。
そこにブーカが待っていた。レモニカはその表情を推し量ることはできないが、その鼻のひくつきは喜んでいるように見えた。
「ありがとう、ブーカ。恩に着ます」とレモニカは言う。「陛下はどうされました? 陛下にもそのように伝えてくださる?」
「我らの方こそ恩返し。勿体ないお言葉です、レモニカさま。陛下はまさに騎士団を陣頭指揮しておられます」
それを聞いて、無数のきいきい声が勇猛果敢な兵たちの鬨の声に聞こえ始めた。
「なんと勇ましいことでしょう。どうかご武運を」
「どうかお達者で」とブーカは誇らしげに言った。
全ては鼠たちとの打ち合わせ通りだ。クオルが逃げ出し、レモニカが蝙蝠の王の姿になって鳥籠から脱出できたなら、今度はクオルをレモニカの元へと誘導する。
そうして鼠の姿に戻ったレモニカはクオルの姿を見つけると、ボーニスとの間にクオルを挟みこむように立ち回る。クオルが度々熾す炎で位置を把握するのはそれほど難しくなかった。
あとはレモニカ一人逃げ出す手はずだったが、冷たい雪の上で足が止まってしまった。レモニカの目の前にいくつかの茸を、それも菌輪を見つけてしまったのだった。雪の少ない木のそばで小さな白い茸が輪になって生えている。
妖精の輪とも呼ばれるそれをレモニカたちは長らく探していたのだ。
【魅了】、踊る妖精、若き舞踏、視線の先、視えぬもの、不思議。大陸各地で様々に呼ばれる文字、その元型を完成させるのに必要としていた。魔導書の衣にもまた”妖精の輪に囲まれる”と書いてあった。妖精の輪さえ見つけてしまえば、その中心に文字を書くだけの簡単な方法だとレモニカたちは予測していた。しかしユカリたちが魔導書の衣を手に入れた時点で季節は冬に移っており、茸自体が簡単には見つからなくなってしまった。ここを逃せば次はいつになるか分からない。
あまり遠くに逃げず、クオルたちが諦めて立ち去って十分な時間が経ったら元型文字を完成させよう、というレモニカの判断をレモニカ自身の頭の中の閃きが否定する。
今すぐここで文字を完成させれば、ほぼ同じ場所で衣と元型文字の二つの発光が起こせる。それはレモニカ自身にとっては好機をふいにする行いだ。しかしユカリたちの居場所をクオルに知らせることなく、クオルの居場所をユカリたちに教えられるという好機だ。それはクオル自身にどちらへ逃げるか迷わせることにもなる。それに、クオルたちが立ち去ってから衣と文字を二か所で光らせれば、ユカリたちに余計な混乱をさせる。
ほとんど迷いのない自分に驚きつつも、レモニカは己の不安を自覚する。いずれにせよ、このままこの場から逃げても魔導書の衣を取り戻すためにクオルと対決する日は来るのだ、とレモニカは自分に言い聞かせる。
「どうなさったのですか? レモニカさま」とブーカに問われ、レモニカはできるだけ申し訳なさそうに答える。
「ごめんなさい、ブーカ。せっかく助けていただいたのに」
迷っている暇はなかった。レモニカは小さい体で妖精の輪の中心に【魅了】を書き記す。すぐさま、地上に墜ちてきた星にも劣らない白く強い光が赤松の森に溢れる。すぐ近くで生まれた二つの光は瞬く間にグリシアン大陸中に届く。
これをユカリたちが見逃さないでいてくれることをレモニカは目を強く瞑って神に祈った。そもそも鼠の祈りを神は見逃さないでくれるのだろうか、と不安になった。
光が収まり、祈りを終えると目の前にクオルが立っていた。振り返るが、近からず遠からずボーニスもこちらをじっと見下ろしていた。
「どうやら私は貴女を見くびっていたようです、レモニカさん」そう言って伸ばしてきたクオルの手に、レモニカは抵抗することなく捕まり、足元の鼠たちに謝罪する。
「ごめんなさい、みなさん。そしてありがとう。あなた方の勇敢な戦いを誇りに思います。私の身勝手で作戦を台無しにしてしまいましたが、それ以上の収穫を得ました。何も後悔はありません。みなさんはどうかクオルたちから逃れてくださいませ。よろしくお願いします、ブーカ」
鼠たちは再び一塊になって所々で炎の燃える赤松の森を走り出す。その行く先が工房馬車であることに気づき、まだ助けてくれるのだと喜べばいいのか、他に行くところのない者たちに迷惑をかけたのだと悲しめばいいのか、レモニカには分からなかった。