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『毘灼構成員全十名の個人情報』
『六平の居所を漏らした神奈備の内通者の個人情報』
『妖刀の在処』
あの日の罪に蓋をして、薄汚い妖刀契約者を英雄なんてものに仕立てた。作り上げた美しく見えるが骨が歪な世界を英雄を『正しい』ことと信じる、何も咎の無い若者が死ぬ。その許せない現実を消し去るには、悪である毘灼ですら利用する。10年以上燻っていた願望を現実にするために結んだ協定。その印が『指切り』なんて、児戯めいているようで、まあ元々は味方殺しの刑罰も遊女の重たい愛の誓約も指切りだったのだから、これからのことを思えばお似合いなのかもしれない。
8月の半ば、酷暑が厳しく出歩く人間も疎ら。だからといって近年では、日が落ちる頃まで日中の暑さが引かない。それでも、今日は不思議と暑さが引いていて夏虫の声も不快にはならなかった。
夕暮れの縁台では男が2人で佇んでいる。2人の間に置かれたグリーンティは氷が溶けてグラス上半分がグラデーションを刻み、つるりとした水饅頭はすっかり温くなってしまった。それでも、黒の銘々皿と半透明の夏の菓子は目に涼を与える。ただ、この家の主である座村は、その涼やかさを自らが閉じた目のせいで見ることはできない。
「これで、協定は結ばれた。特に問題はないな?」
「……ああ」
小指に刻まれた妖術で刻まれた、ギラギラときらめく。特に痛みなどは伴わないが、縛られていることを心地よく感じるのは特殊性癖者だけだ。残念ながら座村はそうではなかった。
「これで、あんたらは目的のために籠るわけか。どれくらい掛かりそうか?」
「通常であれば、10年掛かることを3年程度には」
「随分な自信だなァ……まあ、余り待たせるなよ」
さっさとお前らを殺してやりたいからな。
隣に座る、真夏であるのに隙なくスーツを着こなした男ーー毘灼の統領、幽の方に向けて温度のない声色で言い放った。それに対して、幽は特に表情も変えずに立ち上がった。いつの間にか、空は夜に向かう準備を始めている。
「定期的な連絡はしよう。協定を結んだ者同士」
「恐らく、神奈備経由で俺は隔離になる。どうするつもりだ?」
「それについては、うまくやる。追って連絡しよう……」
家を囲う竹垣の向こう、子供達の弾む声と祭囃子が聞こえてきた。その音達が思い起こさせる。とてもいい音のする、あの子供のことを。
「……おい」
座村の声に反応して、幽が振り返った。
「……もう一つ、協定に付け加えることはできるか?秘密裏に」
「ーー内容によるな」
「まあ、協定まではいかなくてが……」
座村の意外な提案に、幽はアルカイックスマイルを浮かべた。
座村の脳裏に浮かぶのは、六平の香りの向こうにあるあの子供の香り、ひとときしか時間を重ねなかったのに、忘れられなかった匂い。耳の中できれいな波線を描く名前の響きーー
『じゃあ、憧れはやめて尊敬にします』
目を閉じてしまったことを後悔してしまったほどに、会いたいと望んだ存在のこと。
遠くの方で、打ち上げ花火が上がる音が響いた。
真冬に花火なんて、季節外れでは?と千鉱は思っていた。
しかし、実際に眼前に広がる色彩豊かな炎の破片たちは、冬の澄んだ空気のお陰でより鮮やかで美しく映る。空には様々な花火、地上ではクリスマスマーケットが開かれている。歴史ある有名ホテルに隣接した公園内に作り出されたマーケットの中心では、大きなツリーと明るい星々のように輝く回転木馬達が、より世界をきらめかせている。
日々不安定で物騒で残酷な出来事が渦巻く時勢ではあるが、12月24日、クリスマスイブの今日はどこか浮かれ気味だ。
幸せそうな家族連れ、初めてのデートに幸せを噛み締める恋人、仕事帰りの寄り道らしい人……そんな表の何も知らなくていい人々が、自然と引き寄せされるこの場所が、後ろ暗い悪人達の仕事現場とはとても思えない。ただ、このマーケット内では数店輸入雑貨を取り扱う業者が出展しており、その中に今回のターゲットらを仲介する者がいるとの情報を得て、該当の店を千鉱は探している。しかし、思っていた以上の人の入りで中々に捜索は難航していた。
今日はもしかしたら外れかもしれないと、諦めの溜息をついた瞬間、振動を感じコートのポケットポケットから千鉱は携帯電話を取り出し出す。
「ーー千鉱です」
「…………柴……ど……」
酷い雑音が混じるが、電話の主の柴は気がついていないようだ。たくさんの人が行き交う空間ゆえに、電波状況が芳しくないようだ。千鉱は、人混みを掻き分けながら、少し強めに携帯電話を耳にあてて状況を探る。
「柴さん、電波が悪くてよく聞こえません」
「……ターゲットは……1番奥の……みどりーー」
ブツっと不快な電子音を立て、通話が途切れてしまった。こちらから折り返し電話を掛けてみるが、全く繋がる様子はない。本来であれば、こういった状況になった場合は、合流場所に移動して待機するのが柴との決まり事である。ただ、何も成果が得られない日々が続いているせいもあり、千鉱は焦っていた。もしかしたら、今日の情報が毘灼に繋がる正解の可能性だってあるのだ。そこまで考えても、平時であれば冷静に踏みとどまることができるのが千鉱である。聖夜の今日、この華やかな空気に知らぬ間にあてられていたのか、後から考えれば些か浅慮な判断を千鉱は下してしまう。足は公園の出口に向かわず、再びクリスマスの匂いがする場所に歩みを進めるのであった。
シナモンとメイプルシロップの甘さをまとた纏ったグリューワインの湯気が、鼻腔を擽る。香ばしい香りが食欲を唆る大きなフランクフルトを手にした店主が、道行く人々に大きな声で叫ぶセールストーク。すれ違う小さな子供達が両手でしっかり包んだ、サンタクロースの顔をモチーフにした陶器のコップには生クリームとホットチョコレートがたっぷり。
このマーケットの外は確かに12月らしい寒さであるのに、この空間だけは嘘のように暖かい。その温度が、千鉱をより非現実に誘う。所狭しと店先に並んだ風景を閉じ込めたスノードームの中の雪は、柔らかな蝋燭の光に照らされてきらめくし、揺れるオーナメント達がさらに豊かな色彩を与えていく。
父親である国重が殺される前のクリスマスは、12月24日に国重と柴、薊とパーティーをする日程度の認識しかなかった。自宅に小さなクリスマスツリーを飾ったり、パーティーの翌朝には枕元に贈り物があったりする。楽しい時間ではあったが、大人達は浮かれ気味だが、いつもの大人達の宴会とは趣が違うなくらいの感想しか、その日に対しては抱いていなかった。一昨年も去年もクリスマスはただの平日として、鍛練と悪逆な者達を切り伏せる1日だったから--外の世界で触れた俗世のクリスマスは、不思議なくらい気持ちを昂揚させるなんて、千鉱は知らなかった。
一度でも、父さんとこういった場所に行きたかったかもしれないな。
ふと、センチメンタルな感情に襲われ、自嘲気味に少し笑った瞬間、千鉱は違和感を少し覚えた。この場に似つかわしくない、玄力の感覚。意識してしまえば、意識を持っていかれそうなほど性質の悪い強い力の出所を、千鉱は感覚を研ぎ澄まして探る。賑やかな空間の端の方誰も気に留めない影のような場所に、ぽっかりとした暗い深淵を感じ取り、その場所に走って向かう。
辿り着いたのはマーケットの端の端、通りすがりの人間はそれなりに存在するにも関わらず、一切誰の視界にも入らない小さなテント小屋だった。年季の入っていそうな孔雀緑の色をしたビロードの布でできた「それ」は何を提供する店かは一見するとわからない。微かに異国風な香の香りが内側から漂ってくる、不可解な玄力と共に。
「--お客様ですね、どうぞお入り下さい」
テントの内側から、急に呼びかけられた。男の声である。千鉱は意を決して、テントの布を捲り中に入り込んだ。
テントの内側は、外見よりも意外に広く感じられた。天井から吊るされた結晶のような数多の室内装飾には、複雑な玄力が込められ、不規則に揺れている。真っ赤な別珍が布張りされた椅子に、天板に何らかの術式にも見える彫りが施されたアンティーク調の丸テーブル、テーブルの向こうは天井から垂らされた薄いカーテンのせいで不明瞭だ。机の上には丸水晶やタロットカードが置かれているので、占いを生業にしているのであろう。
「どうぞ、お掛け下さい」
カーテン越しに声を掛けられる。明らかに怪しいと頭の中ではわかっているのに、逆らうことを許さない。異界の王を思わせる声色。千鉱の身体は自然に動き、椅子に腰掛けた。
カーテンの向こうから手が現れる。黒革手袋に包まれた両の手は、テーブルのタロットカードを繰り出した。そして、耳に残って離れない声で千鉱に話し始める。
「獅子生まれは、STRENGTH……力の守護を受けている。不屈の精神で難関な試練を乗り越える力を秘めている」
差し出されたカードは、白い服の女性が勇ましいライオンを手懐けている。描かれたライオンの鬣は美しい金糸のよう。偉大なる獣の横顔を見ると、自分を見守り支えてくれる彼のことを千鉱は思い出す。
「ただし、これが逆位置を示すと意味合いが変わり、幼い精神や現実逃避を意味することになる」
黒手袋で包まれた指先が、机上のカードを反転させ、絵の中の女性をすぅとなぞる。
「あと……断念するという意味合いもある」
言われた言葉に反応して、千鉱ははっと顔を上げる。相変わらずカーテンの向こうにいる人物の表情はわからないが、何故か笑っているように感じられた。そして、千鉱はふと気づく。どうしてこの男は、自分が獅子座ということを知っているのか?千鉱は尋ねようとしたが、新たなカードが差し出され、それを遮った。
「THE HANGED MAN 今のお前のようだ。自分の身の犠牲に対しては特に厭うことはない。あらゆる試練を乗り越えられると信じ切っている傲慢。父親という存在への殉教。何とも健気なことで……」
逆さ吊にされた男の無情な姿を晒すように、千鉱にカードを見せつけてきた。その様に苛立ちを千鉱は覚えた。
「……何が言いたい?」
「--雛鳥はまだまだ飼育係の側を離れてはいけなかったな」
「……っ?!」
背筋が凍るほどの恐ろしい玄力の圧。それに対応できるように、千鉱は立ち上がり淵天の鯉口を切る。だが、それよりも早く、テント内に漂っていた香の匂いが咽せ返るほどに強くなった。異国を思わせるスパイスとバニラ、重たい薔薇のような強い芳香。恐らく妖術の類であるこれは吸ってはいけないと頭では判断ができるが、それよりも早く身体の末端まで刺激が伝わる。千鉱の身体はその刺激の影響か弛緩し、立位を保てなくなっていく。それでも、意識を手放さないと淵天を支えに、倒れないよう耐えながら、カーテンの向こう側を睨みつけた。
「孵り立ての雛ではあるが一丁前に抵抗するのか……『こと』が動き出したら、楽しめそうだな」
「--お前は一体誰だ?」
息も絶え絶えに、だが渾身の力で千鉱は問いかける。しかし、そんな千鉱を嘲笑うように、背後から伸ばされた得体の知れない両手が千鉱の細首を緩やかに絞めた。明確な殺意には至らない程度の力であるが、今の千鉱にとっては効果的に働く。懸命に耐えていた姿勢は崩れ、身体は地に臥す。千鉱の意識が遠退く瞬間、テントの外ではキャロルが響き始めた。
協定を結んでから不定期に場所を変え、時間を変え進捗状況を確認する機会を座村は毘灼との間に設けていた。自身が隔離されている仙沓寺付近では、毘灼側のリスクが余りに高いため、街が眠りにつきそうな時間帯に、密談に向いている高級茶屋や今日のような歴史あるホテルの一室にて短時間の会合を行うのが常になっている。堅牢な仙沓寺からの移動は、まだ明かされていない内通者の手引きによって、スムーズに行われている事実は、座村にとっては腹立たしいことではあるが。
今自分がいるホテルの一室は比較的上層階で、真下で行われている、クリスマスマーケットの華やかさを一望することができる。
「この国は神も仏も都合良く利用して、楽しむことにおいては一流だな」
見えない目であるが、煌びやかな光景を眺めて、鼻で笑いながら座村は1人毒を吐いた。ふと、口元が寂しくなりいつもの如く煙草を咥えるだけ咥えようとしたとき、背後に人の気配を感じた。
「随分遅いお着きだな」
そう言って振り返る座村は、いつもにない異変を感じ取る。定期会合は、通常であれば窓口になっている毘灼の統領である幽が1人でやってくるはずだが、今気配が2人分ある。幽は人を1人横抱きにしているようであるが、この匂いには覚えがある。とても美しい音をした名前を持つ人間と同じ--
「……どうしてチヒロがここにいる?」
「毘灼と関わりがある関係組織の周辺を嗅ぎ回っていたようだったから、したいこともあって連れてきた」
「したいことってのはァ、何だ?はっきり言え」
不快感を込めた低い声で幽に対して投げかけたが、それに対して意にも介さず、幽はキングサイズのベッドに千鉱を横たえた。
「協定には含めていない、密約があっただろう?」
座村はその言葉で、あの夏の日の景色を思い出した。夏虫の声も、引いた暑さも、小指に刻まれた指切りが痛んだ瞬間も。
「六平の息子は殺さない。あんたが協定にまでしなくていいがと付け加えた約束だろ?」
「……『指切り』には含めていないのに、覚えているなんてなァ、律儀なことで」
「形は多少違うかもしれないが、俺達はビジネス上の関係だ。態々毎回仙沓寺から足を伸ばしてもらっている、取引相手には多少特別サービスを加えて、今後も円滑にやり取りをしていこうという心積もりだ」
「随分と殊勝な心掛けだな、ただ今チヒロを拐かしてきた理由の説明にはなってないなァ……」
座村は所持している無銘の刀に触れ、臨戦態勢を取る。様子を見つめている幽は徐に、何かを取り出した。その取り出したものを座村に触らせる。意外な反応に若干座村は戸惑うが感触を確かめる。陶器のような冷ややかな質感のそれ程大きくはない人形のようだった。内側から風変わりな玄力が漏れ出ている。まるで生き物のような--
「……妖術の類か?」
「随分と六平の息子は無茶をしているようだ。必死に父親の仇を取るために動くが、若さからか、無謀な動きをすることもある。現に今回も柴登吾との示し合わせ以外の行動を取っている」
幽の言葉を受けて、座村は呆れたような溜息を吐く。引き続き、幽は言葉を紡いだ。
「このままだったら、全てが始まる前に死んでしまうかもしれない。そのようなことになればあの約束も叶わないことになるからな。今、握らせたそれは身代わり人形だ。一度だけ死んだことを無効にすることができる……」
座村は自分の掌中にあるものを少しだけ強く握った。
「それを六平の息子に『埋め込む』ために拐かした。来年辺りから本格的に動けるようになる……今日を最後に暫く対面でのやり取りはできなくなりそうだから、今から処置をする」
幽の説明に対して罠かもしれないと座村は考えたが、協定を阻害するようなことを態々仕掛けるメリットが毘灼側にはない。また掌に感じる玄力の質からして、異質ではあるが生命を奪うような性質には感じられない。恐らく、協定にはない約束ではあるがこの『約束』を守ることの利があるからこその提案なのだろう。そうであるならば、乗っておいて損はないと考えた座村は口を開いた。
「……じゃあ、さっさとやってくれ。時間は有限だ」
気を失った千鉱の両腕を妖術で拘束しようとした幽を制止し、座村が代わりに拘束することにした。千鉱のコートを脱がして、後から抱き抱えるように身体を移動させる。後ろ手に腕を拘束する前に、気紛れに触れた頬には、初めて会ったときにはなかった大きな傷跡が刻まれている。数年前のときですら品のある凛とした容貌をしていたから、成長した今がより磨きが掛かった端麗な顔になっていると思っていたので、純粋にこの傷跡が勿体無いと座村は感じた。
「……折角の別嬪が勿体無いなァ」
あくまで、小さな独り言であったが幽には届いていたようで、笑い声を漏らしながら反応した。
「この一見、難点に見える傷跡も一点物の美術品の意匠にも俺には映るが……ああ、あんたは見ることができないからな」
座村は幽の発言に心底腹が立ったが、敢えて声に出さず千鉱の両腕をしっかりと後で拘束した。幽は千鉱の身に纏ったトップスのジッパーを下げ、インナーをたくし上げた。日に晒されていない、艶やかな肌が現れる。千鉱の下腹部辺りで幽は印を組み、身代わり人形を下腹部に触れさせた。粘着性の強い沼のようにズブズブと少しずつ人形が入っていく。その得も言われぬ感触に、千鉱が反応を示していく。閉じた瞼が開き、真紅の瞳には混乱の色が浮かぶ。
「--ああっ!何が……これ?!わからない……どうして?」
突如感じる感覚に、理解が追いついていないようだ。戸惑いで混乱が生じているせいか、平時よりも表情が幼くなる。幽はその表情に至極満足そうな微笑みを浮かべ、自由な片手で柘榴の双眼を隠した。
「……?!どうして、何も見えない?いやだ……止めろ……やだっ」
暗くなったことで、千鉱はさらに混乱し、首を振って目隠しを外そうとするが、下腹部の違和感と拘束された両腕で、それは叶わないことになった。ただただ、聞きようによっては性交渉に伴う嬌声のような悲鳴を千鉱は上げるしかできない。
座村はその声を聞きながら、自分の中に押し込めていた欲に火がつきそうになるのを感じた。思えば最初に存在を知り、名前を知り、清廉さを知ったときから内側に芽吹いていた欲だったのかもしれない。そういった意図を含んだ行為では決してないにも関わらず、感じてしまう自分自身に座村は苦笑した。
そのとき、ふと微かに血の匂いを座村は感じた。その元を辿るように千鉱の首筋辺りに座村は鼻を当て、探っていく。どうやら、唇を噛み締めたせいでその薄い皮膚が裂けてしまったようだ。か細い赤い一線が伝っている。千鉱を傷つけるのは本意ではない。座村は千鉱の両腕の拘束を片手に切り替え、空いた方の手の人差し指と中指を千鉱の口腔に捩じ込んだ。
「……あぁっ……うぅ」
急に入ってきた異物に歯を立てて、千鉱は必死に抵抗をした。指先に痛みを感じるが口淫にも似たその様すら、自らの瞳には映ることはないが、座村にとっては愛おしさを感じさせる。そして、叶うなら今からでも鮮血の道を歩まないで欲しいとすら願ってもやまない。
「……ひっ……あぁ……」
千鉱の身体が打ち上げられた魚のように、大きく跳ねた。身代わり人形を全て身体に挿入した幽の腕が、ゆっくり抜けていく。抜けていく度に千鉱の身体が小刻みに揺れ、切なげな小さな声を上げる。その身体から毘灼の紋様である黒い炎が描かれた手の甲が現れたとき、身体は一気に虚脱した。その様を確認した幽は目隠しをしていた手を外すと、瞳は閉じられていた。
座村も拘束していた両腕を外し、口腔に含ませた指を抜いた。力をなくした千鉱は座村の胸に倒れ込んだ。強く噛まれたせいか、指先からぽたぽたと血が溢れている。その指先を座村は舐め取った。甘いはずなんて一切ない鉄と生ぬるい唾液の味しかしないが、千鉱の物だと思えば甘露に思える。
その様子をアルカイックスマイルを浮かべた幽は一瞬見つめ、次の瞬間には帰り支度を始めた。
「妖術は上手く馴染んだようだ。これで1度目の死からは免れる。そろそろ退散の時間のようだ。柴登吾が勘づく前に去ろう」
「……あぁ」
千鉱の身体を一旦ベッドに横たえて、身支度を整える。妖術を発動させた部屋に置いておくよりは、木を隠すなら森よろしく、クリスマス仕様に装飾されたホテルのロビーに、数多く並んだソファにそっと座らせておくことに決めた。人目をできるだけ避けた方がよい「英雄」よりは、幽の方が都合が良いため任せることについて座村は異存はなかった。幽は座村の帰還の手配を行うため、どこかに電話を掛けている。
空いた僅かな時間、禁じている煙草を吸いたい気持ちになった座村は、ジャケットから箱を取り出し愛用のライターで火を着ける。有害でしかない紫煙が空を舞う。煙草を持たぬ手で、眠る千鉱の傷ついた唇にふれた。
通話を終えた幽が、座村に向けて仄かに嫉妬心をのせた色の声を掛けた。
「俺たちの『指切り』なんてものより、随分と情熱的な印だな」
幽の視線の先を辿ると、2本の指。そこには千鉱に付けられた真っ赤な歯形。先程までの情事にも似た、行為。あの贈り物が無意味になればそれは行幸であるが、そうはならないのだろうとも座村は感じていた。もう一度、深く紫煙を吐く。室内の広い窓の向こうは煌びやかな聖夜がまだ続いているのだろう。あの世界は、千鉱が戻るべき場所。そして、自分が一生戻れない場所。
聖夜の奇跡なんてものは、所詮絵空事にしかならないが、それでも奇跡が起きて、千鉱が復讐をやめるように--そう願ってしまう自分の甘さを座村は笑った。
「……チヒロくん?!何寝てるの?」
柴の大きな声が、千鉱の耳を右から左に真っ直ぐに貫いた。その声で意識を完全に覚醒させた千鉱は辺りを見回す。自分はクリスマスマーケットでターゲットを探して、目ぼしい店を見つけて入った所までは何となく覚えているが、その先は……ああ、そうだ結局空振りで捜索を一旦打ち切り。最近の活動と今日の人酔いもあって、疲れが溜まっていたから、ホテルのロビーにあるひと目につきにくいソファで休憩している内に、眠ってしまっていた。そう、柴に告げると呆れたような声で、でも心配そうに「よかったぁ」と微笑んだ。
柴にこんなに不安そうな顔をさせて、千鉱は心底申し訳なさを感じる。柴を上目遣いで見つめながら告げた。
「本当にごめんなさい、柴さん」
「ごめんと思っているなら、ほんまに言うこともうちょっと聞いて!」
柴のうるさい声に、日常が帰ってくるようだ。千鉱はゆっくりソファから立ち上がるが、ふらついて柴の方に倒れ込んだ。その身体をしっかりと柴が支える。柴はその瞬間、微かに他人の玄力を感じたが、今この場で探るのは得策ではない。しっかり休ませて、軽く説教をしてからだと考え、妖術で拠点まで飛ぶことにした。
戻ることができない、平和な聖夜の光達に背を向けて。