テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
25
131
145
レフ
368
春とは名ばかりの冷たい夜であった。
花街の大通りには行燈の灯が揺れ、人々の笑い声と三味線の音が絶え間なく流れている。
だが、その賑わいから離れた裏庭には、ただ風の音だけがあった。
白藤は藤棚の下に立ち、夜空を見上げていた。
まだ花の季節には早い。
固く閉じた蕾が、闇の中にぼんやりと浮かんでいる。
「またそのようなところにおったか」
背後から声がした。
振り返ると、禿の小春が不満げに頬を膨らませている。
「若旦那がお呼びだよ」
「すぐ参る」
「すぐ参る、じゃないよ。あんた、また叱られるよ」
小春はそう言い残して駆けていった
白藤は小さく息を吐く。
叱責など慣れたものだった。
十年前、この花街へ売られた日から。
泣いても。
喚いても。
逃げようとしても。
何ひとつ変わらなかった。
ならば従うしかない。
そうしているうちに、いつしか何も感じなくなっていた。
白藤は袖を払うと歩き出した。
そのときだった。
ふと、人の気配を感じた。
見れば庭の端に、一人の男が立っている。
見覚えのない顔だった。
黒羽織を纏い、背筋を真っ直ぐに伸ばしている。
若い。
だが、ただ者ではない気配があった。
男は白藤を見ていた。
じっと。
まるで何かを確かめるように。
白藤は軽く会釈する。
「お客様でしたか」
男は答えない。
しばらくしてから、
「何を見ていた」
と問うた。
低く静かな声だった。
「藤にございます」
「花は咲いておらぬぞ」
「ええ」
白藤は微かに笑った。
「ですが、もうすぐ咲きます」
男は藤棚を見上げる。
月明かりが横顔を照らしていた。
「好きなのか」
「藤が、ですか」
「うむ」
白藤は少し考えた。
好き。
その言葉は自分には縁遠いものだった。
好きなものを選べる人生ではなかったからだ。
「……分かりませぬ」
男が眉を動かす。
「分からぬ?」
「見ていると心が静かになります」
そう答えると、男は黙った。
風が吹く。
固い蕾が微かに揺れた。
やがて男は言う。
「名は」
白藤は一瞬だけ目を伏せる。
「白藤にございます」
「白藤か」
男はその名を口の中で転がすように繰り返した。
「良い名だ」
白藤は思わず苦笑した。
「その名を付けたのは私ではございません」
花街に来た日に与えられた名だ。
本当の名など、もう誰も呼ばない。
だが男は静かに答えた。
「それでも今は、お前の名であろう」
不思議な言葉だった。
誰かにそう言われたのは初めてだった。
白藤が返す言葉を探していると、遠くから呼ぶ声が聞こえた。
「白藤!」
主人の声だ。
行かねばならない。
「失礼いたします」
頭を下げて立ち去ろうとした時、
「待て」
男が呼び止めた。
白藤は振り返る。
男はしばし黙ったのち、
「俺は近衛雅継だ」
と言った。
近衛。
その姓を聞いた瞬間、白藤の顔色が変わる。
名家。
いや、この地を治める藩の重臣の一族。
自分などとは住む世界が違う。
「では、雅継様」
白藤は深く頭を下げた。
「ご機嫌よう」
そう言って去る。
背中に視線を感じながら。
その夜。
白藤は知らなかった。
この出会いが、自らの運命を大きく変えることになるとは。
そして雅継もまた知らなかった。
藤棚の下で出会った一人の男を、これほどまでに忘れられなくなることを。
コメント
1件
うわ、めっちゃ良い雰囲気の時代ものじゃん…!「藤棚の下」ってタイトルからして情緒あるし、白藤が「分かりませぬ」って答えるところでグッときたわ。自分に「好き」って感覚すら許されてこなかったんだなって伝わってくる。で、雅継の「それでも今は、お前の名であろう」にはやられた。この一言だけで距離がぐっと縮まった感じがして、続きが気になりすぎる🔥