自分の命を懸けて、善人の夢の中にいる悪の根源を鞭打つ。それは、想像以上に大仕事だった。
現実世界で高橋がおこなっていたのは、ベッドの上にいる動かない相手に鞭を打っていた。しかし夢の中にいる目標物は、大抵動き回った。なんとか狙いを定めても、そこに上手く鞭を打つことができなかったのである。
困ったのはそれだけじゃない。高橋が致命傷を与えるまで、悪の根源は無限に動き続けることができるシロモノだった。ただ救いなのは、夢を見ている本人はもちろんのこと、倒す相手も高橋の姿が見えないため、攻撃を難なくかわせた。
「くそっ! 俺は鞭を使うよりも、縛るほうが得意なんだよ!!」
大声で文句を叫んでも、当然まったく反応されない。
悪夢の中を透明人間の姿で活躍する、夢の番人。無事に仕事を終えても感謝されることなく、気がつけばひょいと夢から放り出される。命を危険に晒しているというのにだ。
ひと仕事をなんとか終えて、悪夢を見ていた女の部屋の隅にしゃがみ込み、休憩させてもらった。
(数をこなしていくうちに、疲労感が増してるし、躰がだんだん重たくなってきた。活動限界が、そろそろ近いのかもしれない)
自分のように従事している、ほかの夢の番人に鉢合わせすることなく、なおかつ夢喰いバクにも遭遇せずに、仕事をはじめた丸一日半の半分くらいは、わりとスムーズに仕事をこなすことができた。
目を閉じて、悪夢の位置を確認する。ここから2軒隣辺りから、若い女の怒鳴り声が聞こえてきた。体力的にも近場で済ませられる上に、悪夢の根源が女なら簡単に倒せるだろうと考え、重い躰を引きずるように浮遊して移動する。
(なんだ、一軒家かと思ったらマンションかよ――)
さっきから聞こえてくる女の怒鳴り声の他にも、あちこちから悪夢による声が、それなりに聞こえた。
「数をこなしていくのが、手っ取り早く元に戻る方法だったか……」
善人の多さと悪夢の多さにげんなりしつつ、目標にした場所に飛んでいった。マンション5階のベランダから失礼する。
「ううっ……」
呻くような男の声が、ベランダから窓をすり抜けた瞬間に聞こえた。それに反応して視線を落とすと、向かって右の壁際に置かれたベッドの上に、若い男が横たわっているのが目に留まる。
(ぱっと見、6畳のワンルームってところか。さっきお邪魔した、女の家よりも綺麗だ――)
男の傍に近づきながら、部屋の様子を改めて見渡した。床に衣類など細々した物が一切置かれていないことで、暗がりでも室内の綺麗な感じがわかった。黒を基調とした家具で統一感を出しているところも、高橋なりに好感が持てた。
「ご、めんなさ……も、しませんっ」
しげしげと辺りを観察している間も、苦しげな男のうわ言が続く。あまりにつらそうな感じを確かめるべく、腰を屈めて若い男の顔をじっと見つめた。
それなりに整った顔立ち――少しだけ癖の入った前髪が額に滲む汗に張りつき、長い睫毛が痙攣するように、時折揺らめいた。薄い唇が吐き出す呼吸は乱れっぱなしで、色っぽく見える。
「かわいそうにな、今すぐに助けてやる」
額に張りついた前髪を梳いてやろうと手を差し出したが、夢の番人としての自分では、すり抜けてしまうことに気がつき、落胆しながら引っ込めた。
触れられないことがわかっていたが、何もせずにはいられなくて、若い男の唇にキスをした。長い髪が高橋のキスを隠すように、さらさらと顔の傍を覆っていく。
「さてと、そろそろ仕事にとりかからせてもらうぞ」
屈めていた腰を上げて姿勢を正し、悪夢の中に入るために両手を合わせて、そっと目をつぶる。
それは初めて、夢の番人の仕事をしたときだった。小さな女のコの夢の中にどうやって入ろうか困った瞬間に、手を合わせて目をつぶるポーズを強制的にとらされたのがきっかけで、毎回これをおこなった。
数秒後に目を開けた高橋の前に、真っ白い部屋の中にいる男女の姿が現れた。水商売風の派手な身なりをした女が若い男に向かって、暴言を喚き散らしているだけじゃなく、殴る蹴るの暴力を振るう行為を目の当たりにした。高橋の眉間に、自然と皺が寄った。
「情けない、哀れな姿だな……」
男女の姿を同時に罵った高橋の言葉を聞くなり、若い男がぎょっとした顔で振り返った。
「ぁ、貴方はいったい?」
「なんだおまえ、俺の姿が見えるのか?」
言いながら男の前に歩み出て、殴ろうとした女の腕を掴みあげた。女は高橋の姿が見えないのか、醜く顔を歪ませて抵抗するように躰を揺らす。
夢の中では物に触れることができるので、対処ができる大きさのときは、自らこうして触れて仕事をしていた。
(初めてだな、夢の中で認識されるのは。どうして俺の姿が見えるんだろう?)
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