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重たい気持ちを引きずって、電車に乗り込んだ。
車窓から見える街並みは、たくさんの家が立ち並んでいる。あの家や、あのマンション、それぞれの暮らしがある。外から見えるベランダ、そこに干された洗濯物は家族仲良く並んで幸せそうに見えた。けれどその中身は、きっと色々な問題を抱えているはず……。
浮気をされている人も、浮気をしている人もいるんだろう。
浮気と不倫の差ってなんだろう?
そんなことをフッと思い、スマホを検索し始めた。
『不倫の定義』という題名のコラムを見つける。
早速、そのコラム欄へ目を通す。
『浮気・感情の動きによって意中の相手以外に恋心や下心を持つ事が浮気。不倫・心も肉体伴うものが不倫 「不倫の定義は、不貞行為があること」』
民法上では『特定の相手と不貞行為を繰り返すこと』『しかし、1回の不貞行為でもしっかりとした証拠があれば不倫と認定される』とも書いてあった。
結論から言えば、『恋愛感情がなくても肉体関係さえあれば不倫』ということになる。
健治は、浮気ではなく不倫をしたことになる。
私が里美としたことも浮気ではなく不倫になるのだろう。《《しっかりとした証拠》》がなければ、不倫とは認定されないという事? 恋愛感情や下心がなく、肉体関係があるのは? 浮気じゃなくて不倫? 考えれば考えるほど分からなくなる。
健治とこの先どう向き合ったらいいのだろう……。
見なかった事にして、今まで通りに暮らす? ホテルから出てきたところを見たと健治に言う? 見たと言って追求して、その後は?
自分自身に問い掛けても答えが浮かばない。
家に帰って健治の顔を見た時に私は、どんな言葉を口にするのだろうか。
裏切られていたという事実。私は確かに、心に傷を負ったのだ。
玄関のドアを開き、いつもの習慣で「ただいま」と小さな声で呟くと、廊下の先のリビングから、テレビの音が聞こえてくる。
健治が居るんだなと思うと気持ちが暗く陰り、昨日渋谷で見た光景が心の中に重く圧し掛かる。
ドアの手前で、大きく息を吐き出し、取っ手を引く。
「ただいま」と、もう一度口にした。それに気づいた健治が、ソファーから気だるそうに起き上がり顔を向ける。
「お帰り、朝帰りをした不良の奥さんには、バツとして朝ごはんを作ってもらうかな」
悪びれる様子もなく、そんな事をいう健治をまともに見られずに視線を逸らし、俯き加減で言い訳を口にする。
「ごめんね。ライブの後、里美の所で宅飲みしたらそのまま寝ちゃって」
「ははっ、わかっているよ。美緒が、浮気なんて出来るタイプじゃないってこと」
健治から《《浮気》》という言葉を聞いて心臓が跳ねる。
しれっと、浮気と口にした健治。それこそ、浮気をしている様子など微塵も見せない。
だから、気付いてしまった。
私、ずっと健治に騙されていたんだ。
「……健治は、昨日遅かったの?」
#ざまあ
食いもんだと思ってくれ
「ああ、取引先の先生の付き合いで飲んでいた」
「そう……。お疲れ様」
これ以上、会話をする気持ちになれず、足早にキッチンに入り冷蔵庫のドアを開いた。
浮気をしている癖にあんな軽口を言えるのだから、きっと1度や2度の出来事ではなく、常習的に浮気を繰り返しているに違いない。
”取引先の先生の付き合いで飲んでいた”
健治から今まで何回も聞いたセリフ。この言葉の裏で何度も浮気を繰り返していたのだろう。
MR(医薬情報担当者)という仕事柄、病院の先生と付き合いで飲みに行く事は必要だと理解していたつもりだった。それを利用して浮気をしていたんだ。
健治の噓つき。
私の事をずっと裏切っていたなんて、許せない。
それも元カノとだなんて、最悪だ。
それなのに、この先どうしていいのか、わからなくて、頭の中が混乱している。
昨日、元カノとホテルから出て来たのを見たと言えばいいの?
でも、その先は?
謝られたなら、許すの?
それとも、許さないの?
健治と別れるの?
そんな直ぐになんて答えが出ない。
だから、気持ちの整理が付くまで、このまま黙っている方がいい。
意気地のない自分にため息をつきながら、健治の分の朝食をテーブルに並べ「ごはん出来たよ」と声を掛けた。
テーブルについた健治は、並べられた朝食を見て不思議そうな顔をしている。
「あれ? 一人分? 美緒は、食べないの?」
「うん、後で食べる。お風呂入るね」
とてもじゃないけど、顔をつき合わせ、素知らぬふりで、朝食を食べる気になんてなれない。
逃げるようにリビングを出て、バスルームに向かった。
湯舟に入浴剤を投げ入れる。それは波紋を広げ、小さな気泡を出しながら沈んでゆく。それをぼんやりと見ながら、バスタブに溜まったお湯の中にゆっくり足先から浸かる。お湯の温かさがじんわりと染み込み、ふぅっと息を吐く。さっきまで透明だったお湯が、入浴剤の桃の香りの薄紅色に染まっていく。やがて、シュワシュワと泡を立てながら小さくなり、溶けて消えた。
昨日の事を思い起こすと視界が歪み、涙がお風呂のお湯にポタポタと落ちて、新たな波紋を作り始める。
大学時代の健治は、リーダー格で人気者、いつも周りに人がいた。それに比べて、地味で引っ込み思案の私は、健治を羨望の眼差しで見ていた。
久しぶりに再会したのは、友人の結婚式。憧れの人だった健治に誘われて、夢見心地で一夜を共にした。きっと、27歳になってまでバージンとは思わず、つまみ食いのつもりだったのだろう。
一度だけの関係で良いと思った。初めての人が健治だったという思い出だけで十分だった。
でもなぜか、健治から交際を申し込まれ、お付き合いが始まり、やがてプロポーズ。
舞い上がる気持ちのまま結婚。そして、2年が経っていた。
いまどき、バージンを奪った責任なんて事は無いだろうけど、もしかしたら、最初から健治に愛されていなかったのかもしれない。恋愛事に疎い女は、元カノとの情事の隠れ蓑にちょうど良かったのだろう。
私、健治に裏切られたんだ。
もしかしたら最初から愛されていなかったのかも……。
お風呂から上がって洗面所で髪を乾かしながら、この後、どうしようかと考える。出来る事なら、今は健治の側に居たくない。問題から目を背けているのは、わかっている。でも、直ぐに結論を出せるほど強くない自分がいる。
誰かに相談したいけど、日曜の昼に急に会える友達を思い浮かべることが出来なかった。
アラサーの年代、結婚していれば家族と過ごす、フリーの友達は仕事やデートで忙しい。
でも、自分の気持ちを整理するのに誰かに聞いてもらいたかった。
鏡を見ながらヘアートリートメントを付け前髪を整え、大人になったはずの自分と向かい合うと思わず言葉がでた。
「優柔不断で、情けないなぁ」
もうすぐ、30歳にもなるのに10代の頃と比べて精神的な進歩が無い。
10代の頃は、30代ってちゃんとした大人のイメージで、自分も30代になったら自然とちゃんとした大人になるのかと思っていたのに……。
「ぜんぜん、ダメ」
周りの人たちは、ちゃんと大人だと思う。それともみんな大人になったフリをしているだけなのだろうか?
「そうだといいなぁ」
鏡の中の自分は、大人のフリも上手く出来ない不器用なまま。
「やっぱり、情けない」
はぁー、っと大きなため息を吐くと、幸せが逃げていくような気がした。
バスルームから寝室に移り、クローゼットを開けてラフな服装に着替え、リビングにいる健治へ声を掛ける。
「私、実家に行ってくるね」
ソファーに寝そべりTV画面を見ている健治は、興味なさそうな声で「んー。いってらっしゃい」と、手をひらひらさせた。
一緒に居なくていい事にホッとする。