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路線バスに乗って30分、郊外の新興住宅地の一角にある実家の玄関ドアを開けた。
「ただいま」と声を掛けると、キッチンの方からパタパタとスリッパの音がして「あら、珍しい」と母の早苗が顔を覗かせる。
「たまには、顔見せないとね。お母さん、おばあちゃんの調子はどう?」
廊下を進みながら祖母の容態を聞くと体調を崩しお医者さんの往診を頼んだそうだ。肺炎になりかけだったらしく、注射で症状が落ち着いてきたという。年配者の肺炎は命取りになることも多い。熱も下がり症状が改善したと聞いて胸をなでおろす。
祖母の部屋のドアをそっと開け、様子を窺う。
「おばあちゃん、具合はどう?」
「美緒ちゃん、来てくれたの?」
布団の中から顔を出した祖母の嬉しそうな声がした。
「熱が出たって、聞いてビックリしちゃった。少し良くなったみたいで良かった」
「美緒ちゃんの赤ちゃんを見るまでは、まだまだ死ねないわ」
祖母の口から出た”赤ちゃん”と言う単語にゾワリとする。
夫婦の状態でさえ危ういのに赤ちゃんなんて望めない。健治との生活をちゃんと考えないといけない。赤ちゃんは、その後の話だ。
祖母になんと返事をしていいのか分からず、ぎこちない笑顔を浮かべ口を開いた。
「赤ちゃんは、まだまだ先だからおばあちゃんは、長生きしてね」
「美緒ちゃんは、昔からのんびりしているからねぇ。でも、結婚して2年でしょう。年も30になるんだから急がないとねぇ」
昔の人は、結婚、出産が当たり前の図式。こういう何気ない一言が出てしまうのは仕方ないと分かっているけど、心が軋む。
「こればかりは、授かりものだからね」
ぎこちない笑顔のまま返事をして、立ち上がり祖母の部屋を出た。
台所を覗くと母がお湯を沸かしていた。
「おばあちゃん、思ったより元気そうで良かった」
「やっと、元気になったのよ」
ダイニングテーブルの椅子を引き、腰を下ろすと目の前にお茶が出てくる。
「はぁ~。人に入れてもらったお茶は美味しい」
たいして高くもない番茶の美味しさを味わう。
「女は結婚すると損な事が多いわよね」
母が目尻にしわを寄せ、しみじみ言う。
「ホントに損ばかりだよね……。ねえ、お父さんって、浮気とかした?」
突然の直球に母は、お茶でむせ返りゲホゲホと苦しそうに咳き込む。そして、落ち着き、ひと呼吸すると口に手を添えナイショ話のように声をひそめる。
「実はね。何回かしてるのよ」
母の意外な言葉に、今度は私がお茶にむせ返り、ゲホゲホと咳き込んだ。
「お父さんが? モテそうもないのに意外」
「そうなのよ。美緒が小学校の時にね。そのときは離婚しようかと思ったわ」
「で、なんで離婚を留まったの?」
「そりゃ、美緒が片親になるのも可愛そうだし、母さん手に職もないからね、経済的にも無理だったのよ……」
思いもよらぬ母の話。てっきり、仲の良い夫婦なのかと思っていた。
「お母さん、苦労したんだ」
「そうね。あの時別れていたらどんな人生だったかと思う事はあるわよ」
そう言って、遠くを見た母の顔は、いつもの母ではなく、女の顔だった。
「あんた、そんなことを聞くなんて浮気でもされたの?」
なんとなくバツが悪く誤魔化すためにお茶を啜っていた。突然の指摘にゲホゲホッと咳き込んでしまう。そんな私に母は訳知り顔を向け口を開いた。
「子供がいないうちは、やり直ししやすいかもよ。良く考えなさい」
今、私は結婚生活の分岐点に立っている。健治の浮気を見なかった事にして、このまま夫婦として暮らしていくのか、別れて一人になるのか。
母は子供が居ないうちにやり直しをしなさいと言った。どの方向にやり直すかは、自分次第なんだろう。
このまま浮気に目を瞑り夫婦生活を続けていくならば、子供もできるだろう。
子供……。
私は、健治との子供を産み、育てて行くのだろうか?
健治と野々宮果歩の関係を知らない時なら、子供が欲しかった。
でも……今は、怖い。
信頼関係、愛、未来、今まで当たり前のように在ったものが、棒倒しの砂山のようにどんどん無くなって、今にも棒が倒れそうなぐらい不安定な状態になってしまった。
夫婦ならば、ちゃんと話し合って乗り越えて行かないといけないのに、自分の殻に直ぐ閉じこもってしまうダメな自分。
上手く自分の気持ちをぶつける事も出来ない。
夜遅く、家に帰ると健治はすでに眠っていた。
その寝顔に問い掛けたくなる。
「私のことをどう思っているの?」
でも、その言葉を言う勇気が無いのは、その先の答えを見たくないから。今まで積み上げてきた時間が崩れるのが怖いから……。
ふたつ並んだシングルベッドの空いた隙間が二人の距離に思えた。
#ざまあ
食いもんだと思ってくれ