テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
45
#茜
💎星乃葵@ペア画中.ᐟ💎
1,178
りおりんご🍎
2,407
今中希美
28
勇斗の朝は、とにかく騒がしい。
アラームが鳴る。止める。もう一度鳴る。止める。
三度目でようやく「あーーー、起きる、起きるって!」と誰にともなく宣言して、ベッドの上に身体を起こす。
その足元で、ジンはとっくに目を覚ましていた。
灰色がかった毛並みを丸めたまま、薄く片目だけを開けて、騒がしい人間を観察する。
「おはよ、ジンちゃん」
大きな手が伸びてきて、頭から背中までをひと息に撫でていく。
寝起きのくせに、やけに体温が高い。ジンは思わず目を細めかけて、慌てて顔をそむけた。
「今の、絶対気持ちよかったっしょ」
「……」
「無視かよ。まぁいいけど」
別に、気持ちよくなんかない。
ジンは前脚を舐めるふりをして、顔を伏せた。
キッチンでは、勇斗が計量スプーンで猫用のフードを量っている。
毎朝、毎晩、同じ手順で。雑に見えて、ジンに関することだけはやたらとマメな男なのだ。
皿を置いたあとも、勇斗はしゃがんだまま離れない。
「ちゃんと食うなぁ。えらいえらい」
食べているところをじっと見られるのは、落ち着かない。
けれど、その視線が嫌かと言われれば、そうでもない。それが、ジンには少し腹立たしい。
ネイビーのスーツに腕を通し、鏡の前でネクタイを結ぶ。
長身の身体に、仕立てのいい布がよく馴染んでいる。——まあ、悪くない。
口に出す必要はないし、そもそも出せないが。
玄関で革靴を履いた勇斗が、振り返る。
「いってくるわ。いい子で待っててな、ジンちゃん。今日はなるべく早く帰るから!」
「……」
「な?」
その「なるべく早く」が守られた日は、数えるほどしかない。
ドアが閉まり、鍵の回る音がして、足音が遠ざかっていく。
部屋がふっと広くなった。
ジンは音もなく立ち上がり、リビングの出窓へ上がる。
「ジンちゃん専用な」と、勇斗がクッションを置いてくれた場所だ。
ここからはマンションの前の道がよく見える。
しばらくすると、ネイビーのスーツが現れた。
駅へ向かう人の流れの中でも、背の高い姿はすぐに見つかる。
勇斗はふとこちらを振り仰ぎ、窓辺の灰色に気づいて、大きな口を開けて笑いながら手を振った。
ジンは、ぷいと顔をそむける。
見ていたわけじゃない。たまたま、ここが日当たりいいだけだ。
そう思いながら、角を曲がって見えなくなるまで、視線は外せなかった。
柔太朗の朝は、静かだ。
静かな分だけ、シュンが全力で埋める。
目覚ましが鳴る三分前、ベッドの脇にお座りして待機している。
柔太朗がうっすらまぶたを開けると、待ってました、とばかりに尻尾が床を叩いた。ばたばたばた。
「……おはよ、シュン。まだ眠いんだけど」
寝起きの低い声。それでも、布団から出てきた手はいつもやさしい。
朝の散歩は、川沿いの遊歩道。
シュンは二歩進んでは振り返り、柔太朗がちゃんとついてくるのを確かめる。
今日もええ天気やん、めっちゃ気持ちええやん、と、胸の中は喋りっぱなしだ。
向かいから、犬連れの老夫婦が歩いてきた。
「おはようございます。今朝は涼しいですね」
柔太朗が、ふわりと微笑む。丁寧で、感じのいい、完璧な笑顔。
シュンは足を止めて、見上げた。
あれは、よそ行きの顔や。シュンは知っている。
家の中の柔太朗は、もっと眉が下がって、もっと口の端がゆるくて、たまに、どうしようもなく疲れた目をする。その顔を独り占めしている自分が、シュンはちょっと誇らしい。
玄関で革靴を履いた柔太朗が、振り返った。
「いってきます。いい子にしててね」
「待ってるで」の代わりに、シュンはドアの前で尻尾を大きく振った。
ドアが閉まる。部屋は急に静かになる。
シュンは窓辺に走って、前脚をかけ、外を見下ろした。
やがて、細身のスーツの背中が道に出てくる。
柔太朗は歩きながら振り向いて、窓の方を見上げ、小さく手を挙げた。
それだけで、尻尾が止まらなくなる。
昼間の部屋で、ジンのやることは決まっている。窓辺で日向ぼっこ。
ソファの背もたれで毛づくろい。それから時々、玄関の前に座って、ドアをしばらく眺める。
二年前の十一月、ジンは雨の中にいた。
会社が立ち並ぶ通りの裏手、自転車置き場の隅。
濡れた毛が肌に張りついて、鳴く力も残っていなかった。
そこへ、コンビニの袋を提げた背の高い男が通りかかり、足を止めた。
「……お前、ひとり?」
男はしゃがみ込み、差していた傘を傾ける。
抱き上げると、ジンは牙を剥き、爪を立てた。腕に赤い線が走る。
「いてっ」と男は言ったのに、腕を離さなかった。
「寒いだろ。あっためないと。うち来る?」
それだけだ。それだけのことで、ジンの世界は変わってしまった。
あの夜から、この人間の隣が、ジンの帰る場所になった。
無愛想で、懐いていないふりをして、それでも目で追ってしまう。
可愛げのない猫だと、自分でも思う。
それなのに勇斗は、毎日笑って、「ジンちゃんはクールだなぁ」と言う。
猫だから、許されているんだろう、とジンは思う。
勇斗が帰ってきたのは、日付が変わる二時間前だった。
「ただいまーっ! ジンちゃん、ごめん! まじで遅くなった!」
玄関からダッシュでリビングに入り、ネクタイを緩めながらソファへダイブする。
出窓の上から冷ややかな視線を送るジンに、勇斗は両手を合わせた。
「怒ってる? 怒ってるよな。でもさ、聞いてよ、今日さぁ」
そこから先は、一時間。
後輩が初めて大口を取ってきたこと、課長に褒められたこと、コンビニの新作プリンが意外とうまかったこと。ジンは出窓からソファの端へ移り、背中を向けて丸くなり、耳だけを勇斗のほうへ向けていた。
「お前ほんと、聞き上手だよなぁ」
勇斗は缶ビールを開けて、ひとくち飲む。
「お前が人間だったらさ、こうやって一緒に飲みに行けたのにな。……あ、でもお前、酒弱そうだな。すぐ顔赤くして、『別に?』とか言いそう」
ジンの尻尾の先が、ぴくりと動いた。
誰が言うか。そう言い返せたら、どんなにいいだろう。
そのうち、声が途切れた。勇斗はスーツのままソファにもたれ、缶ビールをほとんど減らさないまま、眠ってしまっていた。
ジンは音もなく近づいて、その胸の上に乗る。
規則正しい心臓の音が、毛並みを通して伝わってくる。
「……ジンちゃん……いてくれて、まじ助かる……」
寝言だった。
助かる。猫に向けられる、あたたかい感謝の言葉。
嬉しくないわけがない。それでも、足りない、とジンは思った。
人間だったら。この人はそう言った。
人間だったら、隣に座って、同じ缶を持って、同じ高さで話を聞ける。
肩にブランケットをかけて、「お疲れ」と言える。
「助かる」ではない言葉を、いつか、もらえるかもしれない。
猫だから許されている、素直じゃないところも、可愛げのなさも。
隠さないで、この人の隣にいられたら。
ジンは目を閉じて、胸の上で、小さく願った。
昼間の部屋で、シュンのやることも決まっている。
ロープのおもちゃを咥えて、窓辺と玄関を往復する。
眠くなったらクッションで丸くなって、物音がするたび耳を立てる。
待つことが、シュンの昼間のすべてだった。
四年前の春。シュンはペットショップのガラスの向こうにいた。
他の子犬たちが眠ったり、じゃれ合ったりしている中で、シュンだけがガラスに前脚をかけて、通り過ぎる人間を片っ端から見上げていた。
その夕方、ひとりの青年が店に入ってきた。
着慣れないスーツ。やわらかそうなのに、どこか張りつめた肩。
ふらりと立ち寄っただけ、という顔で、ガラスの前に立ち止まった。
その目の奥にある寂しさに、シュンは全身で気づいた。
ここや、と思った。理由なんてない。
前脚でガラスを何度も叩く。尻尾がちぎれそうなくらい振る。
青年は驚いて、それから、ほんの少し笑った。
「……お前、こっち見てる?」
その声を、シュンは今でも一言一句覚えている。
柔太朗は二十三時ごろ、静かに帰ってきた。
鍵が回る音で、シュンは玄関へ突進した。
けれど、ドアが開いた瞬間に分かった。肩の落ち方が違う。息の吐き方が違う。
「……ただいま」
柔太朗は靴を脱ぐと、そのまま玄関の床に座り込んだ。
「疲れた……」
内定辞退の電話。現場からの無茶な要望。
誰にも見せない顔で、何時間も笑った日。
人の気持ちがよく見える人は、人の気持ちに疲れてしまうのだ、とシュンは思う。
いつもなら飛びつくところを、今日は我慢した。
代わりに、柔太朗の膝にそっと顎を乗せる。ゆっくりと頭を撫でる手が、いつもより少し重い。
「シュンは偉いよな。いつも元気で、いつも笑ってて」
胸の奥が、ちくりとした。
本当は、いつも元気なわけじゃない。
柔太朗が出かけたあとの部屋は広くて、窓の前で何時間も待つ時間は、ほんまはけっこう寂しい。
でも、それを見せたら、この人はもっと疲れてしまう。
だから笑う。笑って、尻尾を振る。それがいちばんええんやと、シュンは思っていた。
「お前がいてくれるだけでいいんだよ。何も言わなくていいし、何も気にしなくていいし」
柔太朗はそのまま壁にもたれ、目を閉じた。
寝息が聞こえるまで、時間はかからなかった。
シュンは、柔太朗の膝に顎を乗せたまま、じっとしていた。
俺もやで、と言いたかった。
いてくれるだけでいいのは、俺のほうやと。
言葉があれば。腕があれば。
この人の肩を抱いて、「おつかれさま」と言えるのに。
毛布を、かけてあげられるのに。
けれど、自分にあるのは、四つの脚と、尻尾だけ。
シュンは小さく鼻を鳴らして、柔太朗の隣に寄り添った。
せめて眠っている間だけは、ひとりにしないように。
その夜、街の別々の窓辺に、同じ月がかかっていた。
灰色の猫と、金色の犬。
けれど、同じ夜、同じ願いを抱いて眠りについた。
人間になりたい、というよりも——あの人の、隣にいたい。
眠りの底で、にっこり笑顔の誰かが明るく手を振っている気配がした。
コメント
5件

私動物系だぁぁい好きなんですよ!! なんで好み知ってるんですか(ちがう) 💛→猫、❤️→犬、ほんとまさにって感じですよね、!! 果たして人間になれるんでしょうか!!ワクワク 続きが楽しみです…✨️
今回のお話も素敵過ぎます…!✨️ 犬猫になってても2人の解像度が高すぎてなんか胸がギューっとなりました😭 2人とも人間になれますように…!! 更新楽しみにしています!!🥰
うわ、めっちゃ良かった……。 ジンとシュン、どっちの視点も沁みました。特にジンが「人間だったら」って願うところ、胸がぎゅっとなった。飼い主の寝言に「いてくれて助かる」って言われるの、嬉しいのに足りないって思う気持ち、すごく分かる。 シュンは「俺もやで」って思いながら膝に顎を乗せる健気さがもう……。猫だから、犬だからじゃなくて、ただ隣にいたいっていう二匹の想いが同じ夜に重なるラスト、本当に素敵でした。るりさん、続きが気になります!