雪が降っていた気がする。白い、細やかな雪だった。
あの霧がかかったような寒さと共に微かに香った煙草の匂いを、オレは忘れないだろう。
「三ツ谷ってさァ、手芸部部長なんだろ?女子力高っけぇよな~。料理とかもできんの?」
「……まぁ」オレは、何故ここにいる?
家に帰ろうとしたら、途中で灰谷蘭に会って…で、ここにいる。この、高級レストランに。
メニューには見たこともないような料理が並んでいて、0が四つ以上のものばかりだった。
「ご注文はどうしましょう?」
声をかけてきたウェイターにオレがまごついていると、蘭が見かねたように口を開いた。
「この黒毛和牛サーロインステーキ2つ頂戴。ミディアムとミディアムレアで」
「承知致しました」
ウェイターが一礼して去っていくのを見て、オレは小さくため息をついた。
「俺ね、ステーキってやっぱミディアムレアがいいんだよね~。竜胆はミディアム派らしいけど」
竜胆…?ああ、弟の方か。
「…目的は何だよ」
「ん?」
オレは、相手を刺激しないように言葉を慎重に選んで問うた。
灰谷蘭だ。迂闊に逆鱗に触れるようなこと言ったら、また頭割られる。
「ん~…、気まぐれかな!」
「は?」
「だから、気まぐれだって。今日は竜胆が出かけて帰ってこないから、夕飯は一人で食べる予定だったんだけどー。たまたま三ツ谷見かけてさー。やっぱ、メシって一人で食うより二人で食った方が旨いじゃん?」
…なんか、拍子抜けだ。オレが唖然としていると、蘭はまた笑った。
その笑顔は、とっても綺麗で思わず見とれるほどだった。
一回殴られてるから、油断は禁物だ。でも、今目の前にいる蘭は、何処にでもいる男子だった。
「あ、安心しろって。今日は奢ってやるからさ」
「………あ、ありがとう…」「どーいたしましてー」
料理が運ばれてきた。
「っていうか三ツ谷さー、妹ちゃん達はいいの?」
「…今日は遅くなるって伝えてる」
「へー」
その瞬間、微かな違和感がオレの心を走り抜けた。
それが何なのか、オレには分からなかった。
でも、言いようのない違和感が心にまだ残っていた。
「でもさァ、料理できる男っていいよなー。俺と竜胆はマジでできねぇから、いつも出前か外食なんだよ」
「それって栄養悪くないか?」
「そーなんだよな。竜胆は筋トレとかしてるけど、俺はそんなのしたくねーからさ」
だらだらと会話をしていると、いつの間にかお互い料理を食べ切っていて、オレと蘭は席を立った。
「…なぁ、…。本当に、奢って貰って…いいのか?」
「うん。今そーゆー気分だからさ」
変な野郎だ。こうしていると、裏があるんじゃないかと疑ってしまう。
オレが礼を言って帰ろうとすると、蘭はあろうことか俺の家の前までついてきた。
「三ツ谷が変な輩に連れ去られたら駄目だろー?」
蘭はそう言ったが、オレはその意味がよく分からなかった。
オレだってヤンキーだし、喧嘩だってできる。蘭に送られなくても大丈夫だ。
「……じゃあ」
オレは再度頭を下げて、家の扉を開けようとした。
その瞬間。
ガンッ、と音がしたかと思うと、オレの視界がスパークしたように白くなった。
「⁉」
意識が飛ぶ直前。
オレの視界の端に蘭の姿が映った。
蘭が持っているのは────警棒。
ああ、あれで殴られたのか。くそ。油断禁物だって言ってんのによ。
完全に終わった気でいた。あいつはこの瞬間を待ってたのか。
オレが家に帰ろうとして、警戒心が緩む一瞬。
これか、オレの今までの違和感は。
赤の他人のあいつが、オレの部活や妹のことなんて知っているわけねぇじゃねえか。
ぐわんぐわんと頭が揺さぶられているような気分だ。
オレの身体が持ち上げられた。蘭だ。蘭がオレを抱えたのだ。
「三ツ谷ァ、お前ってホント甘いよなー。一回頭割られた奴に、また背中見せるとか甘すぎんだろー」
「……まあ。これからは他の奴に背中を見せるどころか、姿すら見せてやらねぇけどな」
それが、監禁の意味を表していることをオレは薄れゆく意識の中で理解した。
それを理解したとて、今のオレにはどうにもできないのに。
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