村の市場には故郷に比べると格段に品数が多く、見たことのない品物も沢山あった。艶の良い玉ねぎや丸々としたレタスが山と並び、変な形の芋や色とりどりの豆が所狭しと積まれている。蜂蜜にこんなにも種類があるとは思わなかった。食材に加えて林檎酒や乾燥果実を買う。ユカリは出来るだけ料理の種類を豊富にしたかったので多少の値引き交渉は必要になったが、何とか予算内に抑えた。
「どれもこれも美味しそう」とユカリは山に帰る道すがら、食材の詰まった麻袋を覗き込みつつ一人呟く。
「そうだね」とグリュエーが囁き、ユカリは度肝を抜かれる。
「いたならそう言ってよ」とユカリは辺りを見渡す。特に変な目で見られてはいない。「というか風って食べるの?」
「食べなくても大丈夫だけど食べることは出来る。長い時間をかけて少しずつ岩石や古代の遺構を貰っていく」
「申し訳ないけど、今日の夕食に古代遺跡は出さないよ」
「残念。ユカリが腕によりをかけた遺跡食べたかった」
遺跡は手に負えないが、茄子を薄切りし、人参を刻む。鯉を蒸し煮にし、羊を焙り焼きする。檸檬汁を絞り、大蒜をすりおろす。食べた事のない芋や見た事のない豆も買い物に来ていたおばさまたちに使い方を教えてもらった。
火加減はグリュエーに任せれば完ぺきだった。草原に散らばる羊を追い立てる猟犬のようにかまどの火をまとめ、必要であれば追い立てる。
火そのものに話しかけるのはあまり賢い選択ではなかった。どうにも火というのは話の通じない連中のようだ、とユカリは諦めるに至った。火によって多少性格は違うようではあるが、大抵は乱暴者で自分勝手だ。かまどの火はまだ大人しい方だが、焚火となるとまるで揺り籠谷の地下樹林に潜むという野生児のように聞きわけがない。
開け放していた扉の中で日も傾いてきた。遮るもののない山腹にも静寂と暗闇がとろとろと湧き始めた。食卓の準備もほとんど終えて、ユカリはフロウを呼びに家を出る。
まさにフロウも一日の仕事を終えて、ピックと共に羊たちを併設された小屋に片づけているところだった。小屋を出てきたフロウと目が合う。
「お疲れ様、フロウ」と言い、足元のピックにも目をやる。「それにピックも」
「おうよ、お疲れさんだ、嬢ちゃん。飯はもう出来たのか?」とピックは言ったがユカリは聞き流した。
フロウの方は何も言わず、ユカリの後ろを見ている。その視線を追うと、麓の方から誰かが歩いて来ていた。身なりの良い初老の男性だ。年の割に苦労なく坂を上って来る。
「どなた?」とユカリは首をかしげる。少なくとも羊飼いではなさそうだ。
「魚を釣る者さんですね。この村の村長です」
「ああ、親切だっていう」
今朝紹介されそうになったことをユカリは思い出す。
「ええ、何かと面倒を見てもらっています。何かあったのかもしれません」
フロウがフェンダーの方へと歩いて行ったので後を追う。
「こんにちは。フェンダーさん。お世話になっております」とフロウは挨拶をする。
全ての人間の例に漏れず、時は多くの活力をフェンダーから奪っている。白髪交じりの頭、頬もたるんでいる。ユカリよりも背は低いが近くで見ると体はがっしりとしている。
「やあ、フロウ。久しいな。ごきげんよう。そちらの方は?」
ユカリとフェンダーの目が合い、続いてフロウの目がちらと合う。特にフロウがフェンダーに隠すべきことはない。そういう物事について初めからユカリは話していないからだ。
「旅の方です。困っていらしたので。善き人がそうするように、僕もまた宿をお貸ししようと」
フェンダーは目を細め、フロウの言葉に合わせて何度も相槌を繰り返す。
「なるほどなるほど。しかしフロウよ。その親切を否定するものではないが、この村にも宿を営んでいる者がおるのだ。ほどほどにな」
それはその通りだ、とフロウは謝罪する。フェンダーも特に気にしている様子ではない。が、それが村長の勤めなのだろう、とユカリは思った。
「それでな、フロウよ」と村長フェンダーは本題に入る。「最近、森の方から邪な獣、家畜の敵たる狼の遠吠えが我らの村までよく聞こえてくる。ここまでは届いておるかな?」
フロウは首を振る。「いえ、聞いていません。僕は夜はぐっすり眠ってしまいますので、聞こえていないのか。あるいは、ここは森から離れているので、はなから聞こえないのかもしれませんが。それがどうかしたのですか? この頑丈な小屋を貸してくださっているので、少なくとも夜に羊が狼に襲われる心配はありませんよ。昼間は僕とピックが常に見張っていますし」
「うむ」とフェンダーは頷く。「しかし餓えた獣は何をするかわからんからな。人の子が攫われてもいかん。村の長として民の不安を解消しなくてはならんのだ。そこで今夜、若い者たちで狼狩りをしようと思う」
ユカリは首をかしげる。そんなことを故郷の村の狩人が言い出せば、ユカリの義父ルドガンにこっぴどく叱られたことだろう。
フロウもまた疑問を抱き、尋ねる。「なぜわざわざ夜に?」
「夜にする理由があるのではなく、昼にできない理由があるだけだよ」とフェンダーは言った。「昼は皆働いておるからな。心配せずとも深追いはせんよ。狼が集落に近づくことに魅力を感じさせないことが大事なのだ、と村の狩人も言っておってな。言うなれば脅しをかけるのだ。村に近づくなよ、と」
「何か持っていくものはありますか?」とフロウは言った。
フェンダーが目を丸くする。ユカリも似たような表情をする。
「フロウ。君を侮るわけではないが」とフェンダーは首を振る。「君の年ではまだ早い。まだ十二かそこらだろう? 私はただ今夜は外に出ないように言いに来たのだ。追われた狼が森を回り込んで山に登って来んとも限らんからな」
「そう、ですか」と言うフロウは少しばかり寂しげに見えた。「分かりました。ご忠告ありがとうございます。他の羊飼いには僕から伝えましょうか」
「いや、もう他の者が伝えておる。ではな」と一言を残して、フェンダーは月明りに下草の染め上げられた宵闇の山を下りて行った。
ユカリとフロウは村長を見送ると、家の中へ入っていく。そこには用意されていた食事が湯気を立て、肉汁滴る香ばしい匂いと果物や野菜の爽やかで甘酸っぱい匂いを伴って待っていた。
本当にフロウは料理と無縁な生活をしてきたらしい。肉を焼いて食べる。堅果や液果を拾って食べる。買ってきた麺麭をそのまま食べる。
そのためにその晩の食事は料理を口に運ぶ合間に質問に答える羽目になった。肉の酸味は酢のおかげ。スープのとろみは芋のおかげ。サラダにかかっているのは橄欖油。
心づくしのご馳走の香りにフロウはとても惹かれ、味に満たされていたようで、ユカリもまた嬉しい気持ちになった。
「フロウは魔導書って知ってる?」とユカリは乾燥無花果を摘まみながら言う。
「うーん」とフロウは首を傾げた。「何となく聞いたことがあります」
この年であまり人里に降りない生活をしているのだから知らないのも当然、なのだろうか。
とはいえ、魔導書を探しているなどと発言するのは不注意が過ぎるだろう。フロウが救済機構の信徒だとも思えないが、ユカリは言葉を選ぶ。
「じゃああの村に魔法使いはいない?」
「僕の知る限りはいなかったと思います。ただ、僕は魔法使いというものがどういうものなのかよく分からないんです。魔法なんて誰でも使うのでは? 僕も少しは知ってますよ。星に方角を教わったり、効能のある草を使ったり」
「魔法使いはね」とユカリは義母に教えてもらった記憶を引き出す。「魔法を探したり、作ったりする人のことだよ」
「魔法を使う人ではないんですか!? 僕はてっきり沢山の魔法を使う人という意味なのかと思ってました」
「もちろん沢山の魔法を使うよ。でもそれは探したり作ったりした結果、得た魔法を活用しているんだよ。はたから見たら魔法を使っている姿の方が目につきやすいから、そういう風に呼ばれるようになったんじゃないかな。星に方角を教わる方法や草の効能だってそう。フロウもその魔法を誰かに教わったんでしょう?」
「ええ、僕の恩人ともいえる方に教わりました」と言ったフロウの表情に大きな変化はなかったが、瞳にとても生き生きとした輝きが宿ったのをユカリは見逃さなかった。
「うん。その人が作ったのか、もしくはその人もまた誰かに教わったのか、それは分からないけれど。その魔法もいつかのどこかで誰かが発見、もしくは発明したんだろうね」
「その人は魔法使いなわけですね」と合点がいった様子でフロウが言った。
「そういう仕事を生業にしているのであればね」と言ってユカリは頷く。「実際のところ、狩人じゃなくても狩りをするし、狩人が狩りしかしないわけでもないように。全ての魔法を魔法使いが見つけたり作ったりしたわけではないんだけど」
久々の誰かとの会話と食事はユカリの心を満たした。そうして一つの決意をする。
狼退治。フェンダーの言うように実際に狩る必要はないだろう。狼に村を恐れさせることができればいい。そしてできることなら山をも恐れさせられるなら、なおいいはずだ。山の側でグリュエーと共に待ち伏せして、もしもこちらに来るようであれば徹底的に脅しをかける。それはフロウやフロウの飼う羊にとって喜ばしいことだろう。
恩返しをしたなら改めて魔導書を探さなくてはならない。魔導書の気配は毛先で手の甲を撫でられる程度の感覚だが、今も確かに存在する。
食事を終え、貸してもらった寝台の中でフロウが眠りにつくのを待つ。出来れば魔導書を使うところは見せたくない。
しかしフロウはいつまで経っても開かれた窓辺で夜風に当たっていて、眠る気配を見せない。それどころか嘘寝をするユカリをちらと見ると声をかけてくるのだった。
「ユカリさん。もう寝られましたか?」
「まだ起きてる」と言ったのはグリュエーで、フロウには小さな風の音しか聞こえないはずだ。ユカリは寝息に似た息遣いで応えた。フロウは静かに窓蓋を閉めると、音もたてずに扉から外へ出て行った。
こんな時間に一体何の用だろう。
ユカリも獲物を見つけた蛇のようにするりと寝台を降りると、静かに後を追う。音もなく扉を開け、隙間から辺りを見渡す。小屋の角を回り込むフロウの姿をとらえる。気づかれないように忍び出て、小さな人影を追う。
晴れた夜空は煌めき立つ星々に覆われている。フロウの歩みは夜の神々を詣でる神官のように厳かな様子だった。フロウが立ち止まり、名高き王が治める国の行く末を案じて天に神託を賜る時のように星空に向けて両腕を広げる。
ユカリは空気がひりつくような感覚を覚えた。神秘の者たちの集まりを覗き見て、人間が抱えきれないほどの秘密を負わされてしまったような気分になる。居てはいけない場所に立ち入ってしまったかのように意識が窮屈になる。
そしてフロウは夜気に満ちた魔法を取り込むが如く大きく息を吸い、そうして【鳴き真似】をした。山の清らかな空気を重く低く揺らすその声は、羊でも犬でもなく梟の鳴き声だった。
あまりに真に迫っており、ユカリは初め、実際に梟が近くにいるのかと思って辺りを見回した。しかしどこにも梟の影は見当たらず、再びフロウに目をやると、その羊飼いの姿が変容し始めていることに気づく。
まるで、翡翠、琥珀、珊瑚、真珠、藍玉、紅石。夜空の星々も恥じ入るだろう色彩豊かな麗しい羽毛がフロウの全身を覆う。少年の小さな体は膨張し、ついには熊も一口に呑まんばかりの巨躯となる。左右に広げた腕は羊小屋を覆うほどに幅広く伸長し、狩人の崇める不老の鷹にも劣らぬ偉大な翼に変化した。それは梟だった。白磁めいた平面の顔に黒曜石のごとき漆黒の瞳が煌めき、鉤のような嘴もそれに劣らず、暗く妖しく光っている。
ユカリは口から漏れそうな悲鳴を両手で押しとどめ、その威容から逃れるように身を低くした。
この異様な事態にもかかわらず牧羊犬のピックは羊小屋から飛び出てこない。
巨大な魔性の梟は二度三度と羽ばたくと、強風を巻き起こしつつ体を浮かせ、多彩な煌めきをたなびきながら夜の闇の奥へ飛び去る。しかしその目も眩むような輝きを闇の中に隠せるはずもなく、姿はいつまで経っても見えていた。
「グリュエー。いる?」
「いる。とても綺麗だね。あの羽根一つもらえないかな」
「頼んでみようか。追いかけるよ」
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