Side翔太
夜が始まる匂いがする。
街のざわめきが、徐々に静かなざわめきへと変わっていくこの時間が、俺は好きだ。
俺が働いているのは、駅から少し離れたビルの最上階にあるラウンジバー。照明は落ち着いた琥珀色、カウンターの奥には磨かれたグラスが並び、控えめなジャズが空間を満たしている。目立つ場所じゃないけど、静かに飲みたい大人たちにはちょうどいい。
接客スタイルは、できるだけ丁寧に、でも距離を詰めすぎないように心がけてる。話し相手になってほしい客もいれば、一言も発さずグラスを傾けたいだけの客もいるから。
どんな空気にもなじむのが、この店で長く続けられてる理由だと思ってる。
“翔太”という名前も、今じゃここで呼ばれることはほとんどない。
店ではただのスタッフのひとり。お客さんからは「ショウくん」って呼ばれることが多い。源氏名みたいなものだ。そうやって“素”を切り離せば、何かと都合がいいし、余計な感情に揺さぶられずに済む。
それでも、たまに思う。
このまま、誰にも知られず、誰の記憶にも残らず、夜の片隅で生きていくのかなって。
名前も、過去も、思い出も──すべてをしまい込んだまま。
グラスを磨く手を止めて、カウンター越しに軽く会釈する。
さっき入ってきた常連のお客さんが、小さく微笑みながら席に着いたのが見えた。あの笑み一つで、今日もこの場所が“居心地のいい空間”になったことを確信する。
注文を受け、淡々とグラスに注いだ琥珀色の液体を滑らせるように差し出すと、店長が横から声をかけてきた。
「いいね。ショウくん」
ぽん、と肩を軽く叩かれる。
振り返ると、店長がいつもの気楽そうな顔で立っていた。
「落ち着いてるし、空気読むのうまいし。うちの常連が君のファンなの、よく分かるよ」
「……ありがとうございます」
そう答えながらも、照れ笑いを浮かべて目線を逸らす。
褒められるのは苦手だ。特に、この名前で褒められるのは。
本当の自分じゃない“ショウ”という仮面が評価されることに、どこか後ろめたさを感じてしまうから。
店内のBGMが切り替わり、少しテンポのあるピアノの音が流れ出すと、ドアが開いた。
空気が一瞬、変わる。
入ってきたのは、数人のスーツ姿の男性たち。
落ち着いた身なりに、程よく疲れの混じった笑顔──仕事帰りに立ち寄ったという雰囲気だ。
「いらっしゃいませ」
微笑みを湛えたまま、俺は軽く会釈しながら一歩前へ出る。
いつものように、静かに、流れるように。
目立たず、でも印象に残るように。
今夜もまた、いつもの夜が始まる。
ドアのベルが鳴った瞬間、空気の粒がわずかに揺れた。
反射的に顔を上げると、スーツ姿の集団が入ってくる。みんなよく仕立てられたスーツに身を包んでいて、背筋が自然と伸びている。年齢はまちまちだが、全員がそれぞれの立場で“仕事ができる”雰囲気をまとっていた。
こういうタイプは、酒を楽しみに来たわけじゃない。
“この店を選んだ理由”は、静かで、落ち着いてて、なにより邪魔が入らないこと。会議室じゃないけど会議ができる──そんな空間を探して辿り着いた、って感じだ。
「いらっしゃいませ」
俺は姿勢を正し、静かに一礼する。
目が合ったリーダー格らしき男が、会釈で返してきた。客側も“ここがどんな店か”をすぐに察したようだった。
「こちらです」
言葉少なに、広めのテーブル席へと誘導する。
人数的にはカウンターや二人がけのテーブルでも問題ない。でも、彼らの“目的”を考えれば、あえてスペースのある席が正解だ。
席に着くと同時に、案の定、鞄の中から資料を取り出しはじめた。パラパラと紙の音が響くたび、俺の読みが正しかったことに、心の中で小さく頷く。
注文を取るタイミングも、今じゃない。こういう時は、向こうから声をかけてくるまで待つのが基本だ。先回りしすぎると、逆にノイズになる。
テーブルの端にさりげなく水のグラスを並べながら、目配せだけして距離を取る。
──これが、俺のやり方。
名前も、素性も、過去も必要ない。ただ“ショウ”として、目の前の空気を読んで、静かに立ち回るだけ。
テーブルに水を置き終えたタイミングを見計らって、軽く一礼する。
「ご注文をお伺いします」
淡々とした声でそう告げた瞬間──ふと、目が合った。
……一瞬、時が止まった気がした。
その目の奥を、俺は知っている。
あの、真っ直ぐで、どこか優しげで、でも意志の強さを宿した瞳。忘れようとしても忘れられるわけがなかった。
(……う、そ。りょうた?)
心の中で名前が漏れそうになるのを、ぐっと飲み込む。
表情は崩さない。声も揺らさない。
あくまでも、接客中の店員として、目の前の客と向き合う。
「ご注文は、お決まりでしょうか?」
俺が視線を全体に向けてそう問いかけると、隣の年配の男が口を開いた。
「さて、宮舘くんは何を頼むかな?」
“宮舘”。
聞き慣れた、でも久しく耳にしていなかった名前が、すぐ近くで呼ばれた。
やっぱり──本人だった。
静かに椅子に座ったまま、涼太──いや、宮舘くんは、微笑みながら答える。
「僕はウーロン茶を頂けますか?」
「おやおや、せっかくの場所なのに飲まないのかい?」
冗談めいた声にも、涼太はすこしも動じず、真っ直ぐに答える。
「はい。この資料にはそれだけ想いを込めましたので。ぜひ、素面で説明させていただきたいのです」
「ほう……さすがだな」
周囲の笑みと軽い頷き。
俺は、そのやり取りを黙って聞いていた。
目の前にいるのは、たしかに“あの”涼太だった。仕事をしている大人の彼。
そして俺も、ただの店員として、目の前に立っている。
──ここで取り乱すわけにはいかない。
今の俺は、ただのスタッフだ。
過去も名前も、全部置いてきたこの場所で、動揺を見せるわけにはいかない。
「かしこまりました。ウーロン茶ですね。他の皆さまはいかがなさいますか?」
そう言って、いつもの接客のトーンを崩さず、俺は視線を他の客に流した。
それでも、心臓の鼓動だけは、少しずつ早くなっていた。
オーダーを控えたメモを手に、俺はカウンター奥へと引っ込んだ。
グラスを棚から取り出し、氷を滑らせるように入れていく。いつも通りの動作。なのに、指先がわずかに震えている気がした。
──“この資料にはそれだけ想いを込めましたので”
さっきのやり取りが、まるで映像のように頭の中で何度も再生される。
声も、表情も、仕草も。全部、昔と同じ。
けれど──あの頃と違うのは、今の彼が、ひとりの社会人として、堂々とそこに立っていたことだった。
(変わってない……いや)
そっとグラスにウーロン茶を注ぎながら、俺は思う。
(真摯に仕事をする姿は、ある意味であの頃よりも変わったのかもしれない)
小学生の頃、どこか浮世離れしていた彼は、クラスでも不思議な存在だった。大人びていて、でもどこか掴みどころがなくて。
それでも俺は、ずっと涼太のことを目で追っていた。
何が好きだったのか、いつから好きだったのか、正直もう分からない。
でも、きっと“羨ましかった”のだ。自分の道を迷わず歩いていく強さに。
(……俺だけが止まってるみたいだ)
グラスの縁を指先で拭き取りながら、そっと息をつく。
気づかれないように、乱れた鼓動を静かに押し殺しながら。
──まだ、バレてない。俺が“あの時の翔太”だってこと。
そう自分に言い聞かせながら、できたドリンクをトレーに乗せた。
いつものように。何もなかったように。
ただの店員として、彼の元へ運ぶだけだ。
――――――――トレーに並べたグラスをそっと持ち上げる。
ウーロン茶、ロックのハイボール、ノンアルのジントニック。どれも手慣れたものばかり。
けれど、歩く足取りがわずかに重いのは、気のせいじゃない。
さっきの声が、目が、仕草が、まだ胸の奥に刺さったままだった。
「失礼いたします」
いつものトーンでテーブルに近づき、一人ずつ順にグラスを置いていく。
何も見えてないような顔をして、でも本当は、彼の視線だけを探していた。
そして──最後に、彼の前にウーロン茶を置く。
その一瞬、目が合った。
あの、まっすぐな瞳。優しくて、だけどどこか透き通ったような視線。
昔から変わらないその目と、たしかに交差したはずだった。
でも──彼の表情には、何の変化もなかった。
驚きも、戸惑いも、懐かしさも、何一つ浮かばない。
ただ、礼儀正しく「ありがとうございます」と口にして、視線を戻しただけ。
……終わった。
それだけのことなのに、胸の奥に冷たいものが流れ込んでいくのを感じた。
気づかれなかった。
ずっと忘れられていたんだ。俺のことなんて。
トレーを抱えたまま、カウンターへ戻る道すがら、無理やり笑みを貼りつけた顔のまま、心の中でひとりごちる。
(気づかれたくないのに。気づいてほしかったなんて……)
(矛盾してるなぁ……自分が馬鹿みたいだ)
名前も偽って、正体を隠して、他人のふりをして。
それなのに、胸のどこかで“翔太”として見てほしいなんて、都合が良すぎる。
心の奥で軋む音がした。
──けど、もう戻れない。
あの瞬間に、自分で選んだ“嘘”なんだから。
あれから何も起こらなかった。
会議は淡々と進み、グラスの中身が減るたびに俺は新しいドリンクを運び、空いた皿を下げた。
いつも通りの接客。
表情も、声のトーンも、手の動きも。全部、ルーティンの中に収めた。
涼太──いや、宮舘くんは終始落ち着いた様子で、穏やかに会話を回しながら資料を広げていた。
あの日のあの子が、今や立派に人を導く立場になっているんだと、胸の奥で静かに実感した。
それが誇らしい気持ちになると同時に、自分が過去のまま立ち止まっているようで、妙に苦しかった。
そして──時間が来て、全員が立ち上がる。
「お世話になりました」
「また機会があれば」
そんな言葉を残しながら、スーツの集団は店をあとにする。
俺はいつも通り、ドアまで出て深く一礼した。
涼太もまた、他のメンバーと並んで出口へ向かっていた。
最後に一度だけ、彼の背中を目で追う。
穏やかで、まっすぐで、どこか凛とした後ろ姿。
きっともう──二度と来ない。
そう思った。
それが当たり前だ。俺たちは、あの頃に置き去りにしたままの存在だったのだから。
(さようなら、涼太)
胸の中だけで、そっとそう呟いて、俺はまた一歩、店の空気に溶け込んでいった。
ドアが閉まり、外の足音が遠ざかっていく。
いつものように余韻だけを残して、あの夜のひと組は去っていった。
気づけば、グラスを拭く手が止まっていた。
店内にはBGMだけがゆったりと流れていて、フロアにはもう客もいない。
ほんのわずかな静寂の中、胸の奥からじわじわとあの頃の記憶が顔を出す。
──小さな頃から、俺は涼太の隣にいた。
きらきらした目で夢を語る彼を、黙って見つめていた。
手を伸ばせば届きそうで、でも同じ場所にはいられないような気がしてた。
あの子は“選ばれた人”で、俺はいつも“普通の子”だった。
一緒にいた時間は嘘じゃないのに、彼の世界は、いつもどこか遠くにあった。
高校生になって、それがよりはっきりした。
進路も、夢も、家庭の事情も。
住んでる世界が、自然と少しずつ、でも確実にズレていった。
そして俺は──高校卒業のタイミングで、そっと連絡を絶った。
彼から届いた最後のメッセージにも、返信はしなかった。
「ありがとう」も「さよなら」も言えなかった。
でも、あれが俺なりの“別れ”だった。
あの頃の気持ちを、きちんと終わらせるための──俺なりのけじめ。
(それなのに……)
今日、こうして目の前に現れた彼は、あの頃よりずっと眩しくて、
なのに俺のことなんて、微塵も覚えていないようで。
(……バカだな、俺)
自分から離れたくせに、勝手に期待して、勝手に落ち込んでる。
それでもきっと、今日でちゃんと終わりにできる。
そう思いたかった。
――――――――――
週の半ば。まだ時間が早いせいか、店内は落ち着いていた。
磨き終えたグラスを並べ直していると、ドアベルがひとつ音を鳴らす。
「いらっしゃ──」
顔を上げた瞬間、喉がかすかに詰まった。
嘘だろ、と思った。
──そこに立っていたのは、宮〇〇太だった。
あの日、もう二度と来ないだろうと背中に別れを告げたはずの人。
けれど今、その本人が、ひとりで、穏やかな顔で、俺を見ている。
「いらっしゃいませ」
どうにかいつもの声を作り、軽く会釈する。
表情は崩さない。心臓の音だけが、やたらと大きく響いていた。
「お一人様ですね。よろしければ、こちらのカウンターへどうぞ」
席を案内しながら、頭の中はずっと“なぜ”でいっぱいだった。
団体の一員として来ていたのに、どうして今日はひとりで?
それも、わざわざこの時間に。
「ありがとうございます」
涼太は素直に頷いてカウンターの席に腰を下ろした。
姿勢も所作も昔と変わらない。でも今は大人の落ち着きがある。
「……今日は、お仕事帰りですか?」
自然な声色を装ってそう尋ねると、彼はふっと笑った。
「はい。この間、接待で来た時に思ったんです」
「……はい」
「いい店だな、って。それに──あなたの接客、すごくよかったです」
その言葉に、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
覚えていたのか。名前じゃなくても、“俺”を。
けれど、喜ぶにはまだ早い。これはあくまで、客としての言葉。
「……恐縮です」
そう答えるのがやっとだった。
顔は笑っていても、心の奥はまだ、信じることも、踏み込むこともできなかった。
カウンター越しに並ぶ二人の距離は、ほんの数十センチ。
でも、心の中の距離は、何年分もある気がした。
「……ここで働かれて長いのですか?」
涼太が、穏やかな声でふいに問いかけてきた。
その言い方もトーンも、どこか“昔の彼”を思わせる。
ふと、胸がちくりと痛む。
「え、ぇ……まあ。気づけば、って感じです」
なるべく自然に返したつもりだったけど、声が少し上ずったのが自分でも分かった。
涼太は何も言わず、ただ「そうなんですか」と静かに頷いた。
追及するでもなく、ただ会話を続けようとするように。
「……あの、そちらは?」
話題を振り返すと、彼は少しだけ眉をゆるめて、照れたように肩をすくめた。
「あぁ……大学出た後、普通の企業に就職して。しがないサラリーマンですよ」
「しがない、には見えませんけど」
思わず、ほんの少しだけ笑ってしまった。
彼の真面目さも、少しだけ砕けた言葉遣いも、懐かしくて胸がざわつく。
「そう見えるように頑張ってるんです。営業なんで」
「営業……なるほど、だから接客にも目が肥えてるわけですね」
「え、そういうつもりじゃ──でも、うん。そうかも」
涼太は、どこまでも自然体だった。
こちらが構えていたのがばからしくなるほど、あの頃と変わらない空気を纏っている。
──でも。
やっぱり、どこか変わった。
昔よりも、ちゃんと大人になってて、自分の言葉で世界を回してる感じ。
そんな彼と、今こうしてカウンターを挟んで他人として会話してるこの状況が、なんだか妙に現実味を欠いていた。
会話の合間。
ふと、涼太がカウンターのグラスに目を落としたまま、自然な声で尋ねてきた。
「ところで……お名前をお伺いしてもよろしいですか?」
グラスを磨く手が、ぴたりと止まる。
質問としては自然な流れ。常連になるつもりの客としての礼儀でもある。
でも──この問いだけは、今でも苦手だった。
(まずい……どうしよう)
心の中で小さく息を呑んで、けれど迷っている時間もない。
いつものように、いつもの“自分”を名乗るしかなかった。
「……ショウ、です」
涼太が、かすかに目を細めて、笑った。
あの、子供の頃から変わらない、柔らかくて人を和ませる笑い方だった。
「ショウさん……」
言葉を転がすように一度呼んで、少しだけ間を置いたあと、
「俺は宮〇〇太です。よければ、“涼太”と呼んでください。ショウさん」
また、あの笑顔。
あっけらかんとした雰囲気だけど、どこか真っ直ぐで、まるで“試す”ようでもあって。
でも、そんな距離を、俺は受け取ることができなかった。
「いえいえ、そんな……たいそうなことは……」
思わず視線を外して、慌てて言葉を継ぐ。
「宮舘さん、とお呼びしますね」
──この距離を、越えてはいけない。
そう言い聞かせるように、丁寧に微笑んで返す。
本当は呼びたかった。“涼太”って、あの頃みたいに。
でも俺は、翔太じゃなく、“ショウ”でここにいる。
そう決めたのは、俺だ。
「そっか……じゃあ、仕方ないですね」
涼太はどこか残念そうに、でもそれ以上は何も言わなかった。
氷の音だけが、静かにグラスの中で揺れていた。
涼太は、それ以上自分の名前を呼ばせようとはしなかった。
気まずさも、怒りも見せず、ただ一度小さく笑って、流すように会話を続けてくれた。
話題は仕事のことや天気のこと、最近読んだ本の話にまで及び、気がつけば随分と自然に話していた。
緊張はしていた。でも、楽しかった。
──心のどこかで、昔みたいな感覚を思い出していたのかもしれない。
気づけば、グラスの氷もすっかり溶けていた。
涼太が時計をちらりと見て、ゆっくりと席を立つ。
支払いを済ませたあと、またあの穏やかな目で俺を見た。
「……じゃあ、また来ますね」
その言葉に、思わず息が止まりそうになった。
「……ありがとうございます」
表情を崩さずに返したけれど、喉の奥が詰まるようだった。
──また、来る。
(また……来る?)
たったそれだけの言葉なのに、胸の奥に火が灯ったようだった。
それが“お世辞”だとしても、“社交辞令”だとしても。
自分が勝手に一度終わらせた関係に、また少し、光が射したような気がして。
──また来る。
心の中で何度もその言葉を繰り返す。
顔では“ショウ”の仮面をかぶったまま、
でも、ほんの少しだけ、翔太としての自分がその言葉に縋っていた。
今夜は、いつもより帰り際の背中が、遠く感じなかった。
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