テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
1件
お疲れさまです、みぅです🥀 読み終わりました…。重くて、静かで、それでいてすごく深いお話でしたね。 亡くなった父の声が聞こえるところとか、電話をかけ直せなかった後悔とか、一つ一つの描写がリアルで胸がぎゅっとなりました。特にタクシーの中の「着く瞬間が怖い」って感覚、すごくわかる気がします。 SMMUさんの描く世界、静かなのにちゃんと心に残る言葉たちが並んでいて、じんわりきました。続きも大切に読ませていただきます。
人生で最も記憶に残るものこそが真実で、
記憶に残らないものは偽りだというのなら、
ある日の熱気も、他愛ないおしゃべりの声も、風が吹けば飛んでいくだけ。
どんな哲学を掲げて熱く論じ合ったところで、
死者は語らず、過ぎ去った歳月は戻らず、
誰もいない部屋に静かにしろと言っても、
彼の残した痕跡は、少しも静かにはならない。
◇
間宮 循に父の声が聞こえた。飯は食べたのかと尋ねていた。循はいつものようにぶっきらぼうに答え、飯の話はもういいから、さっき言いかけたことを話してくれと付け加えようとした。振り向くと、部屋のドアの向こうの居間には誰もいなかった。父はあちらにいるはずなのに。ヘッドセットから流れた音だったのかと思い、耳に手をやってみたが、何も手に触れなかった。
循は開いたドアを見ながら待った。どこで話しているのかはわからなくても、自分の返事は聞こえただろう。答えてほしくて尋ねたのだから、聞こえたに違いない。父がまた話し始めたら、そのときにどこにいるのかと尋ねればよかった。けれど、続いた言葉は居場所を尋ねる隙も与えず、ついさっきまで交わしていた話の続きのように聞こえた。
「何か一つ始めたら、最後までやり遂げなきゃならん。中途半端に投げ出したら、次の機会はないぞ」
またその話だった。週末、家族で過ごせるせっかくの時間なのだから、ほかの話をしたっていいのに。転勤や出張で家を空けていた父は、帰ってきても同じことを言った。循は、辞めたのには理由があると答えかけて、父はいったいどこから帰ってきたのかと思った。昨日は人が訪ねてきて頭を下げ、母は誰かが差し出した書類に印鑑を押した。まだ返せていない書類もあった。それなのに、父はどこから帰ってきたというのだろう。
「辞めたのには理由があるんです」
答えると、部屋が静かになった。いつもなら、口を開くや否や次の言葉が返ってきたはずだったが、今度は説明する時間ができた。それでも循はドアばかり見ていた。どうして顔を見て話さないのだろう。居間に座って、自分が出てくるのを待っているのだろうか。また仕事の話から切り出せば、それだけで会話が終わってしまいそうだった。循は、さっきしかけた説明の代わりに別のことを尋ねた。
「あの日、もう一度電話するつもりでしたか」
何の日かは付け加えなかった。朝、シャワーを浴びなければならないと言って電話を切った日。夕方には、電話の向こうから母の声を聞いた日だった。その間に、父ももう一度かけるつもりだったのか知りたかった。こちらから先に連絡しなくても、朝の話の続きをしようと電話を手に取ったことがあったのか。そうだったなら、何を話すつもりだったのかまで聞けるだろう。
居間で紙をめくる音がした。循は直接顔を見て答えを聞こうと立ち上がった。けれど、ベッドから下ろした足が床につかなかった。もう一度伸ばしてみても、そこは宙だった。自分の足先を見下ろそうとした瞬間、目が覚めた。
布団から出た足が、ベッドの端に引っかかっていた。循は横になったまま天井を見てから、枕の下から携帯電話を取り出した。画面に着信はなかった。葬儀は昨日終わり、今、横になっているのは母の家の小さな部屋だった。ドアも閉まっていた。循は足をベッドの上に引き上げ、電話を握った手を胸に載せた。
夢だとわかっていたら、ほかのことを先に聞いたはずだった。もう一度聞ける言葉はあんなにたくさんあるのに、飯と仕事の話だなんて。自分が辞めた理由を説明しようとしなければ、父も別のことを話しただろうか。最後の質問に答えようとして、紙をめくったのかもしれなかった。循は電話を握ったまま、また目を閉じた。どこまで見たかを覚えていれば、そこから続く気がした。けれど、目の前が暗くなるばかりで、居間の物音も父の声も戻らなかった。
◇
循はつい先日、小さな劇場の音響アシスタントを辞めた。三か月のあいだ、明け方に機材を積み込み、夜遅くに帰る日々が続いた。いつになったら自分で音響の仕事をさせてもらえるのかと尋ねると、まずは荷物くらいきちんと運べと返ってきた。荷物を運ぶ仕事も必要だということはわかっていた。ただ、それがうまくできるようになったら次は何を教わるのか、あとどのくらいやればいいのかは聞けなかった。父が生きていた最後の日にも、そのことで言い争った。
父は、それさえ我慢できなくて何ができるのかと言った。いつまで我慢すればいいのかと聞き返すと、何か一つでも最後までやり遂げたことがあるのかと尋ねた。循は、自分が先にした質問の答えをまだ聞いていないと思った。終わりがどこなのかわかって初めて、そこまで行ってみると言えるのではないか。けれど、それを口にする前に、まず辞めた理由をきちんと説明しなければならない気がして、別の返事をした。
「父さんだって、そう言ったじゃないですか。自分に合うかどうかは、自分でやってみなきゃわからないって」
父は初めの質問に戻った。だから、最後までやってみたのかということだった。循が返事を選んでいるあいだも、なぜそんなに長く考えるのかと続けた。考えずに答えれば、口が先に出ると言うだろうに。循はそれまで口にすると電話がさらに長引きそうで、もうシャワーを浴びなければならないと言った。父が次の言葉を話し始める前に、電話を切った。
シャワーを浴びて出てくるまで、時間はかからなかった。かけ直すことはできた。ただ、今かけても同じ話になる気がした。少し後で、別の話から始めたほうがいいだろう。夕方には映画を見に行った。父にかけ直す前に、二時間くらい別のことをしてもいいと思った。
画面の中で男女が何か約束をしているのに、せりふのたびに左のスピーカーから雨音のような雑音が混じった。よりによって、人が話すときだけだった。循は最初に聞き逃した言葉を次のせりふから理解しようとしたが、また声に雑音が重なった。前の列では誰も振り向かなかった。あの席では大丈夫なのだろうか。移ろうとして空いた席を探しているあいだにも、一言聞き逃した。何を約束したのかわからないまま二人が別れる場面まで見ると、それ以上座っている理由はなかった。
廊下に出て、携帯電話の画面をつけた。母からの不在着信が十二件あった。最初の電話は何時だったのか確かめようとした瞬間、画面が切り替わった。出ると、母が病院の名前を言った。循は今から行けばいいのかと尋ね、母は来るようにと言った。何があったのかとは聞かなかった。行けばわかるだろう。説明を聞きながら立っていたら、そのぶん遅くなると思った。タクシーがつかまってからも、病院の名前をもう一度確かめるだけで、電話を切った。
タクシーに座ると、父に電話してみようと思った。着く前に声が聞けるかもしれなかった。朝の話の続きをするように、いったい何があったのかと尋ねればよかった。けれど、連絡先を開いても、かけられなかった。出なかったらどうしよう。かけてもいないのに、出ないことを心配した。そのうちに、母からまた連絡が来ても出られないかもしれないと思った。循は父の名前が見える画面を、そのままつけておいた。
タクシーは止まることなく病院へ向かった。循が連絡先を閉じてはまた開くあいだも、橋を渡り、街灯を通り過ぎた。少しでも早く着かなければと思っていたのに、近づくほど、降りる瞬間が怖くなった。もう病院の名前は告げてあるのだから、自分は何もしなくてもそこへ着くことになっていた。父に電話することだけは、先延ばしにし続けられた。循は画面が暗くなるたびにつけ直した。母が話さなかったことを着く前に知ってしまいそうで、とうとう通話ボタンを押せなかった。
病院で母は、突然の心臓の病気だったと言った。循は朝聞いた声を思い出した。何事もなく怒っていた人だった。夕方に死ぬからといって、朝あんなことを言ったわけではないだろう。父は、次にまた話せると思っていたはずだった。循もそうだった。シャワーを浴びてからかけることもできたし、映画が終わったらかけるつもりだった。そのあいだに父がもう電話に出られなくなることは、どちらの会話にも含まれていなかった。
◇
葬儀場には、生前の父とさまざまな付き合いがあったという人たちが来た。約束した物をまだ受け取っていないという人もいた。循の知らなかった父の約束が、一つずつ明らかになった。もう何の約束も果たせない人に、こんなにもすることがあったなんて。話を聞くたびに、どこに書き留めればいいのかをまず考えた。取りやめていいことと、ほかの人が引き継ぐべきことを分けるには、父に尋ねなければならない気がした。
誰かが、これからは家のことを頼むと言って、循の肩をつかんだ。頭を下げると、その手は離れた。別の人が来ても同じことを言われ、頭を下げた。母は広げた書類に名前を書いていた。循が手伝うと言うと、まず印鑑を探してほしいと言った。少なくとも、どこを探せばいいのかはわかる頼みだった。循は印鑑を渡し、また人の入ってくるほうに立った。
午後三時を過ぎて、榛名 槙が来た。黒いコートの下から、作業着の袖が少しのぞいていた。焼香を済ませて出てくると、両手を前にそろえて立っていた。作業台の前ではいつもケーブルや工具を持っている人なので、何も持たずに立つ姿は見慣れなかった。循は彼女が何を言うのか待った。槙も、すぐには話し出さなかった。少し立っていてから、少しは眠れたのかと尋ねた。
「そっちこそ。少しは寝た?」
循が聞き返すと、槙はうなずくだけだった。どんな気持ちかわかる気がする、とは言わなかった。そんな言葉を聞けば、どうしてわかるのかと問い返したかもしれなかった。けれど、何も言わないので、かえって自分が何を話せばいいのかわからなかった。槙の袖口には黒い染みが残っていた。仕事から直接来たようだった。ここへ来る前に何を直していたのかと聞けば、いつもどおり話せそうだった。
槙はアンプやスピーカーを修理する仕事をしていた。劇場や小さなライブ会場から音が出ないと連絡があれば機材を預かり、現場を見なければわからない故障なら工具バッグを持って出向いた。循が彼女に初めて会ったのは、ケーブルの箱を運んでいるときだった。どこかのつなぎ方が間違っていると言われて、全部抜こうとすると、それでは正しくつながっているものまでおかしくなると止められた。それからは、抜く前に槙に尋ねた。彼女は、わからないことはわからないと言った。そんなにあっさりわからないと言う人に任せていいのかと思ったが、劇場の人たちは槙に機材を預け、直った物をまた持ち帰って使っていた。
「何か必要なら連絡して。その前に、私にできることかは聞いてね」
「朝、父さんから電話が来たんだ」
槙が話し終わるより先に、返事が出た。彼女が待ってくれたので、循は朝の電話から話した。仕事の話をしたこと、一つのことは最後までやれとも言われたことを伝えた。槙が電話の内容を尋ねたわけではなかったが、話し始めた以上、最後に何を言い合ったのか説明しなければならない気がした。シャワーを浴びなければならないと言って、自分から切ったことも話した。その日のことを順番に話せば、どこでもう一度連絡できたのか、槙にもわかるだろう。だからといって、あのときかけるべきだったのかと彼女に聞くことはできなかった。
「ちゃんと飯は食べてるのか、とも言ってた」
そこまで言うと、それ以上話すことがなくなった。父の残した言葉は、そんなに短くはなかった。電話しているあいだには、答えることも多く、聞きたくない言葉もあった。けれど、槙に伝えてみると、飯と仕事の話だった。どこででも聞ける問いだった。循は何か言い足そうとして、やめた。父がいなくなって空いたところの大きさを説明しようとしているのに、父の言葉だけでは、それをすべて伝えることはできなかった。
槙は、そうだったんだ、と答えた。循がそれ以上話さずにいると、飲み物を持ってこようかと尋ねた。二人は葬儀場の片隅へ移った。槙は紙コップにお湯とインスタントコーヒーを入れ、ポケットから白いカプセルを一つ出した。カプセルを開けて粉を混ぜるので、循は何を入れているのかと聞いた。
「カフェイン。コーヒー一杯じゃ眠気が取れなくて」
槙はコーヒーをかき混ぜてから、少し飲んでみるかと尋ねた。そんなに苦くない、とも付け加えた。循は差し出されたカップを受け取り、一口飲んだ。ただ苦かった。熱いカップを握る手に力が入り、側面が少しへこんだ。循は指を緩め、そのままカップを持っていた。槙は味を聞こうとせかさなかった。
循は父との最後の電話について、ほかに話すことがあるかと考えた。朝は腹を立てていて、かけ直せたのにかけなかった。それまで話したら、父と交わした言葉は、すべてそういうものとして残ってしまいそうだった。最後の日より前にも、一緒に過ごした日はたくさんあった。今すぐ何から話せばいいのか思い浮かばないからといって、その時間までなくなったわけではないだろう。循は小さな声で言った。
「それでもさ。うちの父さん、いい人生を送ったんだと思う」
◇