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私はきなこを連れて散歩へと歩き出した。
すでに七ヶ月で成犬に近い大きさだが、何と言ってもまだまだ子犬。エネルギーの塊の様なものだ。長い散歩をして、とにかく思い切りストレスを発散させないといけない。
きなこと一緒に歩きながら、西園寺さんと桐生さんの事を延々と考えた。
姫野さん達の話だと西園寺さんは彼の許嫁だという事だが、社長から直接聞いたわけではない。もしかしたら彼女は許嫁などではないのかもと淡い期待を抱くものの、不安は拭えず気分は晴れない。
指で自分の唇にそっと触れる。彼にキスされた感覚が残ってるようで未だ忘れられない。彼が愛おしいものでも扱っているかのように何度も私の背中を撫でながら、優しくも切ないキスをしたのを思い出してしまう。
── どうして私にキスをしたの?私の事をどう思っているの?帰ってきたら私に何を話すつもりなの?
次々と疑問が頭の中に浮かび上がり、心の中がぐちゃぐちゃに掻き乱される。
「こんにちはー」
いつもの様に佳奈さんのペットホテルの裏口からきなこと一緒に入った。
「こんにちは、蒼ちゃん。あれ、えっ…ってもしかしてここまで歩いてきたの!?」
スタッフの一人で佳奈さんの娘の美穂さんが、疲れ切った私ときなこを見て驚いた様に目を見開いた。
「二時間歩いてきました……。それより、きなこ分離不安症がひどくて。明日会う家族って誰かいつも家にいるんでしたっけ?」
そう言いながら、里親の情報が入っているファイルを探した。
「確か奥さん専業主婦でいつも家にいるはずだよ」
竹中さんがコンピュータから顔を上げて私を見た。
「あれ?あのイケメン彼氏はどうしたの?」
「彼氏じゃないよ。私の上司で今勤めてる会社の社長ね」
竹中さんの冗談を軽く流したが、何故か言葉が重く突き刺さる。
「もーやだ。そんな事言っちゃって。本当は付き合ってるんでしょ?あんなイケメンに私も熱っぽく見つめられたい!」
竹中さんはうっとりと羨ましそうに言った。彼女が一体何の話をしているのか知らないが、私は乾いた笑いを漏らした。
「ははは。本当にそんなんじゃないって。大体彼には、その、許嫁がいるみたいだし……」
「はぁ?なにそれ」
「いや、だから、彼にはちゃんと婚約者がいるっていう噂なの」
私は俯いてごにょごにょと言った。竹中さんはそんな私を哀れな目で見る。
「うん……まあ、よくわからないけど、とにかく元気を出すのよ。他にもきっといい男はいるわ」
ここのスタッフとは既に三年以上の付き合いで、私が大の男嫌いだと知っている。そんな私が男である桐生社長を頻繁にここへ連れて来るのを見て、おそらく私が彼の事をどう思っているか知っているに違いない。
「まあさー、同じ会社の人と恋愛して破局した時とか嫌だよね。しかもそれが自分の上司とかさ。蒼ちゃん合コンとか行かないの?」
美穂さんが気落ちしている私を見て、いきなり話題を変えた。
「えっ、合コンですか?」
自慢ではないが今まで合コンなんて一度も行った事がない。前の会社では女性社員に嫌われていた為、誘われもしなかった。
「ほら蒼ちゃんってすごい真面目で男の子と一緒に遊んだりしないじゃない?たまには合コンとか行って遊んでみたら?そしたら他にもこの世にはいい男がいるって思えるから」
「でも、合コンってどうやって行くんですか?わたし誘われた事がなくて」
「ええっ!? 行った事ないの!?」
「えっと……はい」
何だか恥ずかしい。合コンってそんなに普通に行くものなの?
「もうー、蒼ちゃん可愛いんだから絶対に行かなきゃ損だって!そうだ、来週月曜日と木曜日合コンすることになってるの。一緒に行ってみない?」
「ははは。美穂ちゃん張り切ってるねー」
私達の話を横で聞いていた竹中さんは、ケタケタと笑った。
「そりゃ三十過ぎたら皆焦ってくるからね」
そう言う美穂さんの隣で、私は頭の中で来週の予定をざっと思い浮かべた。月曜日なら社長がいないから早く帰れるかもしれない。
「あの、月曜日なら大丈夫です。でも、わたし行った事がないんだけど、大丈夫かな。人と話すの苦手だし……」
「大丈夫!相手は皆三十前後の落ち着いた人ばかりだし、なんて言っても大企業のエリートばかりなの!絶対にいい人いるって!」
美穂さんは嬉しそうに私の背中を叩くと、携帯で何かメッセージを打ちはじめた。
確かに美穂さんの言う通りかもしれない。
私は男の人を避け続けて経験がない為か、朝比奈さんの様な経験豊富な人に騙されたり社長のような人とは距離の測り方を間違ったりするのかもしれない。この辺で一度男の人に対して少し免疫をつけた方がいいのかもしれない。