ヴェルディア王宮の広場に、再び民との対話の場が設けられた。 今回は、シリル王子だけでなく――王様も、静かにその場に現れた。
空気が、一瞬で張り詰める。 でも、前回とは違っていた。
王様の足取りは重くなく、目には迷いがあったが、確かに風を感じていた。
「民よ」
王様の声が広場に響いた。
「私は、長く空気を閉ざしてきた。 名前を呼ばず、声を聞かず、秩序だけを守ってきた」
民たちは、静かに耳を傾けていた。
「だが、風は止まらなかった。 ある者が、果実の香りと共に風を通し、空気を揺らした」
私は、広場の端でその言葉を聞いていた。 焼きたてのパイを手に、風の行方を見守っていた。
「これからは、名前を呼び合おう。 声を聞き、空気を整えよう。 私の名は――エルヴァン。 ヴェルディアの王として、皆の空気を受け入れる」
その瞬間、広場の空気がふわりと揺れた。
「エルヴァン様…」
誰かが、そっと名前を呼んだ。
「エルヴァン王、ありがとうございます」
「エルヴァン王様が我々を見てくださった!」
シリル王子は、王の隣で静かに微笑んでいた。 そして、私に目を向けて、そっと頷いた。
私は、深く一礼した。 風は、通った。 渋みのある空気も、芯の甘みを見つけた。
その夜、私は荷をまとめた。 果実の香りが残る布、焼き型、そして風の記憶。
「アイリスさん、もう帰るんですか?」
ルカが、少し寂しそうに言った。
「風は、通ったら次の空へ向かうんです。 でも、また果実が揺れたら戻ってきますよ」
ミラは、紅茶を手に言った。
「レオが待ってるわね。 君の風、きっと彼の空を揺らすわ」
私は、笑って頷いた。
「レオの空は、夕焼けの色です。 そこに、私の風を吹かせに行きます」
馬車に乗り、ヴェルディアの町を後にした。 路地では、誰かが名前を呼び合っていた。
「マルク、今日の果実、甘いね」
「リーナ、パイの焼き方、教えてよ」
窓の外から聞こえてくる声に笑みがこぼれる。
ヴェルディアはとても優しい空気を纏う国へと変わっていった。よかった、これで戦いは起こらずに終わる。
王宮の庭園に、夕焼けが差し込んでいた。 果実の木々が揺れ、風が静かに通り抜ける。
私は、馬車を降りて、懐かしい空気を吸い込んだ。
「ただいま、レオ」
その声に応えるように、庭の奥から足音が聞こえた。
「アイリス…!」
レオが駆け寄ってきた。 その瞳には、夕焼けの色と、少しだけ涙の光が混ざっていた。
「ヴェルディアの王様が話を聞いてくれた。優しくなってくれたの」
「君のやってくれたことは、ずっと届いてたよ。 手紙も、ミラの話も、全部…でも、やっぱり君の声で聴くのが一番だね」
私は、笑って言った。
「レオの空が、私の風を支えてくれたからです。 だから、私は迷わず通れました」
レオは、深く息を吸い、そして静かに言った。
「アイリス。 僕は、君の風に何度も救われた。 毒を食べた君が、誰よりも優しくて、誰よりも強かった」
私は、彼の瞳を見つめた。
「レオ…?」
「僕は、君を愛してる。 風のように、君の存在が僕の空を揺らしてくれる。 だから、これからは……一緒に、隣で一緒に空を見てほしい」
その言葉に、風がふわりと揺れた。
「…はい。 私も、レオにパイを焼いてあげたい。一緒に食べたい。もちろん、空を見ながらね」
庭園の果実が、ひとつ落ちた。 それは、風が結ばれた証のようだった。
数日後、王宮で静かな結婚式が開かれた。 果実の香りが漂い、パイが振る舞われ、名前が呼び合われた。
「レオ様、アイリス様、おめでとうございます!」
「風の夫婦だね!」
「芯が甘くて、渋みも愛しい!」
ふたりは、風の中で誓いを立てた。
赤毛のアイリスの私の物語はここでおしまい。 毒を食べた私は、今や王子の空を揺らす風となり、 名前と想いを結び、夕焼けの空に誓いを立てた。
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