テラーノベル
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🔊🧪散文
・ルール 脳死で書く
ロウソクが燃えていた。音鳴は赤い銅色の艶めいたパイプをくゆらせて、ぼおっと煙を吐いた。細長い指の女クスクス笑って「更多吗?(もっとでしょ?)」としなだれかかる。
桃の衝立ごとに粘ついた水音と嬌声が聞こえた。仄暗い阿片窟は200年前から時が止まったようだった。 東洋のアンティークに怪しげな煙がたなびき、消える。
音鳴は幸せだった。
脳みそが溶けて耳から垂れ流しになってもいいと思った。エンドルフィンの類似物質が星のキラメキみたいに胸をドキドキさせる。甘い煙を口に含めば、信じられないほどの快楽に包まれる。
目尻を下げ、頬を染め、長年の片思いが叶ったように幸せそうに笑い、――嘔吐した。
恐ろしきかな薬物乱用。
背骨からブチブチ内臓がひっぺがされるような心地がした。離れた隙間に体の内側なのに蟻がワラワラはいずって、首の後ろまでビシリと鳥肌が立つ。音鳴は「ア」とも「ギャ」ともつかない叫び声をあげた。それは獣の咆哮に似ていた。
痩せた女を片手で振り落とし、ヨロヨロ汗をかいて後退る。壁に背がついても逃げる足は止まらず、ズルズル尻をつけてしゃがみこんだ。気が触れたように頭を抑え、奥歯をガチガチ鳴らしながら不明瞭にうめく。
チリリン、と女が慣れたようにベルを鳴らした。店の奥から肩幅のデカい黒服が3人出てきた。阿片窟ではよくあることだった。そのまま音鳴の首根っこを掴んで、別室へ叩き込む。
音鳴には、その3人が3つ首の人喰いムカデに見えた。ガタガタ涙目になって乙女のように縮こまっていたので、酷いことはされなかった。
男たちは手馴れた様子で部屋に鍵をかけ、お医者さんを呼んだのだった。
誰かが音鳴の腕をさすっている。ふ、と意識が持ち上がった。ぼやけた視界が徐々に像を結んで、白とも緑とも言い難い髪色を映す。
「……ぐっさん?」
「意識が戻りましたか? 良かったです」
空架はカルテに何かをメモすると、点滴を変え、手早く針を刺し直した。先程腕をさすっていたのは空架だったらしい。
音鳴はまだぼんやりする脳みそでコテコテ働く空架をじっと見ていた。空架の眼鏡がひしゃげていたからだ。形のいい頬は赤く腫れて、鼻から一筋、適当に血を拭った跡が残っていた。左手の小指と薬指があるはずの箇所にガーゼが当てられている。最低限の止血なのだろう、テープにまで赤黒い血が滲んでいた。
音鳴は胃がぎゅっと握りつぶされたような心地がした。嫌な予感に冷や汗が出る。震える声で、 「ど、したん。そんなボロボロで」となんとか尋ねた。
「ああ、私も聞きたいことが。お腹は痛くありませんか?」
音鳴の瞼の裏に、ほんの少し前の記憶が蘇る。
阿片を吸い錯乱したこと。治療に来た空架を認識できず暴れたこと。その手を食いちぎったこ と。
「あ、う」
背中を丸めて、腹の辺りを強く握る。罪悪感で呼吸が浅くなった。吐き出したくて口元に伸ばした手を、空架が握る。ガーゼの湿った感触にじわりと涙が溢れた。
「過呼吸ですか? 大丈夫、落ち着いてください」
「ぐっさん、ごめ、ごめんなさい、指」
「指……? あぁ」
空架は2回ゆっくりと瞬きをして、ようやく腑に落ちた顔をした。
「経口摂取ですから、問題はありません。口付けより健康への害は少ないかと」
「何言うてるんですか……」
「何か疑問点が?」
「あ、あんたっ、一生モンの傷ですよ? なんで俺への説明ばっか!」
「医者ですから」
「今すぐ病院行ってください」
「直ちに問題はありません。音鳴さんの治療を優先します」
音鳴はカッと額を赤くして、空架の手を強く握った。痛みで怯めば正気に戻ると思ったのだ。指をなくした左手は熱く、まだ血が固まりきっていなかった。
「……気は済みましたか?」
空架は顔色ひとつ変えない。
「なんか薬キメてます?」
「ええ、まあ。それが?」
「……」
音鳴は眉にシワを寄せ、空架の手をじっと見た。怪我をさせた申し訳なさと、傷をいとわない空架に対する不愉快さがぐらぐら胸の奥でせめぎ合っていた。だけれども、阿片でおかしくなった自分が、薬まで使って人を助ける空架に何が言えるのだろうか。
散々迷って、音鳴は空架の残った指に額がふれるまで頭を下げた。
「病院行ってください、頼むんで……」
祈りみたいな懇願だった。
「……はぁ、わかりました」
「! ぐっさぁん!」
「貴方も一緒に来てくださいね。入院になりますので」
「えっ。入院?」
「はい。まさか、薬物中毒が一時間で治るとお思いで?」
「嘘やん。困る」
「大変ですね。可哀想に」
「えっ、えっえっ、入院ってどれくらいですのん……?」
「後遺症までの治療と考えると一ヶ月です」
「無理や」
「何かご都合が?」
「酒も賭博も暴力もない一ヶ月は死ぬ」
「大丈夫ですよ。病院ですから」
「心が死ぬ」
「大丈夫ですよ。精神科がありますから」
「今すぐ殺して欲しい……。娯楽のない人生なんて……」
「世を儚んでいますね。本当に面白い人だな」
「人生の9割を取り上げられた気分です」
「……」
空架が口元に手を当てた。すっと真剣な顔になって、音鳴の胸元を見る。
あ、そういえばこの人、人生の10割忘れた人やったな、と音鳴は思い出した。地雷だったかもしれない。家も仲間も記憶もあって、こんなにぐだぐだ管を巻くなど、冒涜と言われてもおかしくなかった。
「や、その……」
「わかりました」
「ハ、ハイ」
「何をしても良い入院先を紹介します。少々埃臭いですが、生活する中で改善しましょう。無茶をすれば入院日数は伸びますが、まあ、取り上げられるのは人生の1割ほどで済むかと」
「……」
「いかがですか?」
「おこ、っとらんですか」
「何故?」
「ぐっさんに、こんな、失礼やったなと」
空架は眼鏡の下でパチパチ瞬きをして、それから噴き出すように笑った。
「怒ったり反省したり、忙しい人だ。クク、ハハハ」
「なん、俺今心底申し訳ないと思ったのに!」
「別に失礼だなんて思いませんし、怒りません。失う苦しみを私はよくわかっています」
「できたお人や」
「『医療が必要な人は誰でも助ける』ですから。まあ、入院先を見て貴方がピルボックス病院を選ぶ可能性もありますが」
「ないと思うけど、埃っぽいんやっけ? よほど寂れた病院です?」
「いえ、私の家です」
音鳴は聞き間違いだと思って、耳に手を当てて「え?」と言った。
「2016番地の、私の個人的な家です」
2016番地。砂っぽい風が吹くけれど、静かで警察も来ない北の立地。音鳴の家の隣の番地。
音鳴は驚きで声が出なかった。手をわやわや動かし、口を何度かパクパクさせてようやく音を絞りだす。
「おとなりさんやん……」
「はい、貴方は音鳴さんですね」
「ちゃうわぁ!」
「え、苗字が変わったんですか?」
「ちゃう、そうやなくて!」
「はあ」
「えっ俺ぐっさんのお家にお泊りするん?」
「そうなります。大した設備はまだありませんが、医者は優秀ですよ」
「遊んでもいいの?」
「どうぞ」
「やったー! お願いします! お世話になりますわ!」
「ええ、こちらこそよろしくお願いします」
空架は柔く音鳴の手を握った。契約成立だった。
ピルボックス病院には優秀な医者が集っている。しかし、そうはいっても無いものはどうにもならないらしい。移植する指の準備ができるまで空架の左手はそのままとなった。音鳴は申し訳なさそうな顔をしつつも、入院しないで済む喜びで口の端を緩めていた。その度にハッと我に返って真剣な顔をするので、空架は頬の内側を噛んで笑いを堪えていた。
日用雑貨を買いそろえて車のバックドアをバタンと閉める。
「こんなもんでしょうか」
「おん。家具や買い忘れはいったん荷物置いてからにしましょ」
「そうですね。掃除も先にした方がいいでしょうし」
空架はポケットからハンカチを取り出して頭の後ろでキュッと縛った。マスクの代わりだ。
「音鳴さんもした方がいいですよ。ハンカチかマスクはありますか?」
犯罪者みたいだなぁとボンヤリ見ていた音鳴は「おーん」と気のない返事をした。空架が格好良かったのでまじまじ見惚れていたのだ。性欲や綺麗なものを見る感覚というよりは、バイクやパソコン機器を見ている感じ 。四角四面のかっちりした男が、陰影のハッキリした冬の砂漠でハンドルを切る。これが車のCMみたいに格好良かった。
音鳴が黙ってニコニコぼんやりしているので、眠たいのかな、と思った空架はそれ以上話しかけなかった。
車はやがて音鳴の見知った道を通り、見知った家の前で減速し、相向かいの空架の家で止まった。
白く塗られた木製の家だった。確かに空架の言う通り手入れはあまりされていないようで、雑草があちこち伸びたままになっていた。強いて良いところを上げるなら、二人で暮らすのに十分な広さをしている点だろう。
「中はもっとひどいですからね」
「おぉ……」
それでも空架が暮らしているのだから大丈夫だろうと高をくくっていたが、まったく、本当にダメだった。
ドアを開けた途端、音鳴はくしゃみが止まらなくなった。カーペットが途中で裏返しになっている。その上に家具を置いてしまったのだろう、あきらめた痕跡があった。入ってすぐのスペースにだけソファが置かれて、寝起きの痕跡があるから物置より酷い。あとは全く手付かずの空き家のままだった。生活に対する希望が全くない部屋と言っても良い。野宿よりぎりぎりマシというだけの犬小屋以下だ。
音鳴が涙目でゲホゲホいうので、空架は窓を開けた。サッシに窓枠がガッとつっかえて埃が舞う。空架はこの家に来てから初めて窓に触ったので、建付けが悪いことを初めて知った。
音鳴が窓から身を乗り出してようやく息を吐いた。
「なんやこの家!」
「私の家です」
「埃で出来とるんか!? まっくろくろすけも大喜びやなァ! バクテリアの天国に表札変えろ!」
「この有様ですからネズミすらいませんよ」
「今までどんな顔して暮らしとったんや!」
「こんな顔です」
「黙れ!」
「はぁ」
「通りでぐっさんが口布するわけや。あかん、マスク欲しい。防塵マスクぐらいごついやつ。こっから腐海が生まれるんや……」
「そこまで言いますか」
「ぐっさんようここで暮らしとったね」
「仮の住処ですから何でもいいと思って」
「仮?」
「はい。記憶を失う前の私は、どこかに住んでいたはずでしょう?」
空架は窓枠をなぞり、指に着いたホコリをふう、と飛ばした。日光を受けて粒子は白く光り、物陰に消えていく。それはちっぽけな粒が明るい世界から追い出されていく様子に見えた。
空架は光の当たらないボロボロのソファに座る。
きっちりした格好の男はこの廃墟のような家には不釣り合いで、他所から来た異物のように見えた。
俯き、目を閉じる。
「そこには日記が置いてあって、家族や友人の写真が飾られていて、……私の居ていい場所だと示されているんです」
夢見るように語るのに、開かれた瞳は悲しげだった。
「ぐっさんは、そこに行きたいの?」
「どうでしょうね。今の暮らしが間違っているとは、知りたくない」
「そっか」
「はい」
音鳴はしゃがんで空架と目線を合わせた。
「ぐっさん。衝撃的なことを言うんやけどな?」
「はい」
「多分元々のぐっさんのお家もこんな埃っぽくないと思うで」
空架はぽかんと口を開けた。「それは」と手が中途半端に動いたが、そうだな、としか思えなかった。論点がずれているような気もしたが、確かに、この家の埃を一掃するべき理由だった。
にっと音鳴が笑って、玄関を開ける。光が差し込んで、風が優しく吹き込んだ。
「掃除しよや」
「……はい」
空架は口を半開きにしたまま箒を手に取り、口を半開きにしたまま踏み入れたこともない地下まで雑巾をかけた。
音鳴は天井から壁にかけての埃をざっと落として、カーペットからソファのカバーまでありとあらゆる布を洗う。
空架はこの家が思っている以上に広いことをようやく知った。自分は今まで通り玄関のソファで寝泊まりして、地下を音鳴の入院スペースにすればいいだろう。
「えっなんで? 体バキバキなるで ?」
「え? まだ購入してませんから、音鳴さんの好みの寝具で構いませんよ?」
「いやぐっさんが」
「はあ」
「ソファは座るための家具で、寝返りもうてんでしょ。ぐっさんもベッド買いましょ?」
「いえ、でも、流石にスペースが」
「ほなでかいベッドで一緒に寝ましょ。解決!」
「強引な人だな」
「えっ、嫌?」
「いいえ。ゴールデンレトリバーみたいで好ましいです」
「わは、俺犬ぅ?」
「はい。朝晩の散歩くらいなら付き合いますよ」
「楽しみにしとるわ」
壁紙まで貼り直して、小さいけれど2人で暮らしていくには困らない部屋が出来上がった。音鳴が選んだカーペットは暖かい色をしていて、馴染みのなさがくすぐったい。空架はクッションを2つベッドに置いて手を払った。
「これで終わりですか?」
「ううん。仕上げが一個残って る」
音鳴はニコニコしながら、「ジャーン!」とモコモコのカーディガンとスリッパを取り出した。
「部屋着! これがないと息が詰まるやろ !」
「随分メルヘンですね……」
「誰も見とらんからいいの。家で着る服なんてそんなもん」
「私が見てますよ。いいんですか?」
「そう言うと思ってましたよ」
音鳴はニヤリと笑い、リボンが巻かれた紙包みを空架に渡した。丸くフンワリ包装されたプレゼントの中身は見ないでもわかる。
「ふ、気に入らなかったらどうするんですか」
「そん時はそん時。開けてみて?」
「はい」
空架はプレゼントをひっくり返して、丁寧にテープを剥がしていく。なんだか心臓がドキドキした。本当は破り捨ててでも中身が見たいのに、そんなことをしたら勿体ないと心が言っている。空架の目は子供みたいにワクワク輝いていた。クリスマスや誕生日の知識はあるけれど、こうして贈り物を開封するのは初めてだったから。
紙を取りされば、透明なビニールにカーディガンとスリッパが包まれていた。音鳴とお揃いのもこもこふわふわだ。
「どう?」
「……さあ、なんとも。着てみないことには」
空架はどうにか無表情を取り繕って、もったいぶってカーディガンを羽織った。もこもこはしっとりした手触りで体温を逃がさない。 カーディガンは一回り大きかったが、包まれているようで逆にそれが良かった。
「どう?」
「暖かいです。でも、そうですね、着たまま寝てみないことには」
空架はプレゼントの包み紙とビニールとスリッパを抱いたまま、もそもそ新しいベッドに入り込んだ。新品の布団はよそよそしい匂いがしたが、ソファよりずっと寝心地がいい。胸から湧き上がるモゾモゾした気持ちに耐えようと小さくなって目を瞑る。それはきっと幸せと呼ばれる感情だった。空架はふわふわのカーディガンと嬉しいプレゼントと綺麗なお布団に包まれて、速やかに寝落ちした。
「……猫ちゃんやんけ」
音鳴は唇を噛み締めて、小さな声で言った。笑い声で起こさないよう気をつけながら、自分もベッドに潜り込む。
同棲生活1日目。互いが犬猫であることを知った。
コメント
6件
言葉が出ないくらい最高です、ありがとうございます、理想の🔊🧪を見させていただいて幸せです、ありがとうございます🙏
はわわ、猫と犬のじゃれあい...😍 かわよい🔊🧪ありがとうございます!
最高です…!最高の🔊🧪をありがとうございます!!!