朝の喫茶桜には
静けさが漂っていた。
昨夜の騒乱を忘れさせるような
柔らかな陽光が
レースのカーテン越しに差し込み
床に淡い模様を描いている。
しかし
リビングのソファには誰もいない。
あれほど活気と騒ぎに満ちていた空間は
まるで嘘のように静まり返っていた。
それもそのはずだった。
三人は、泥のように眠っていた。
⸻
ソーレン。
ソーレンの寝室は
派手なインテリアこそないが
深緑と黒を基調とした
スタイリッシュな空間だった。
昨夜の戦闘で着ていたシャツが
ベッドの傍に無造作に放り出され
足元にはまだ埃が残るブーツが
転がっている。
ベッドの上では
大柄な身体を
うつ伏せに投げ出したソーレンが
唸るような寝息を立てていた。
背中は大きく上下し
枕に片腕を巻きつけたまま
眉間には微かな皺。
夢の中でも
まだ戦っているのかもしれない。
だが
その寝顔はどこか無防備で
誰よりも〝休息〟を必要としていることを
物語っていた。
レイチェル。
レイチェルの部屋は
可愛い小物と枕が溢れる乙女の城だった。
そのど真ん中で
ぬいぐるみと毛布に埋もれるように
レイチェルが眠っている。
シャワーを浴びてすぐ
ベッドに倒れ込んだのだろう。
頭にはタオルが巻かれたまま
顔だけが、シーツの隙間から覗いている。
その唇は半開きで
時折ふにゃりと笑みのようなものが浮かぶ。
夢の中で誰かと話しているのか
あるいはまた戦車を折り畳んでいるのか──
いずれにせよ
彼女もまた
昨夜の疲労の中に沈みきっていた。
時也の部屋。
白と木目で統一された
和洋折衷な清潔感ある部屋。
床はカーペット張り
窓際には
一冊の本が開かれたままのテーブル。
香の残り香が仄かに漂い
部屋の空気はどこか柔らかい。
そのベッドの上
穏やかに寝息を立てる男が一人。
櫻塚時也。
仰向けに眠るその表情は
どこまでも静かで、整っていた。
だが
眉間にはほんの僅かに力が入っている。
常に〝考え、配慮し、読んでしまう〟
彼の脳は、眠ってなお
休まりきってはいないのかもしれない。
そして、その枕元には──
白い毛並みの猫が丸まって眠っていた。
ティアナ。
昨日の戦闘で
展開し続けていた結界を解いたその身体は
いつもよりも一回り小さく見える。
大きな耳すらぴくりとも動かず
まるで人形のように深く眠っていた。
その小さな背に
そっと掛けられた薄いブランケットが
時也の気遣いを物語っている。
⸻
そして
誰もいないリビングの中央。
そのテーブルに、一人だけ──
アリアが腰掛けていた。
いつものように無表情。
だが
白い指がティーカップを持つ動作は
どこかゆっくりとしていた。
傍には
床に膝をつくようにして控える幼子の姿。
青龍。
今朝も変わらず
アリアの髪を整え、衣の皺を直し
身の回りを完璧に整えていた。
だが、その手が一度止まる。
アリアが、ふいに席を立ったのだ。
音もなく立ち上がった
彼女のドレスの裾が揺れ
その深紅の瞳はまっすぐに
玄関の方へと向けられていた。
「⋯⋯アリア様」
青龍は顔を上げ、静かに問う。
「何処へお出掛け為さるおつもりですか?」
アリアは振り向かない。
ただ一言。
「⋯⋯⋯⋯お前は、時也達を護れ。
少し、出る」
それだけを言い残し
アリアは扉を開けた。
淡い朝の光が、その背を照らす。
その歩みには
決して誰にも止められない何かが
宿っていた。
⸻
仄暗い蛍光灯の下
兵舎併設の簡易医務室には
朝から絶え間ない出入りが続いていた。
白衣を着た男が
静かにカルテを閉じる。
アライン。
本来
彼の名前はどの医務記録にも存在しない。
だが、この基地の全職員は
彼を〝転属してきた軍医〟だと
疑いもなく認識している。
彼の能力──記憶改竄。
それが
今日という日を〝演習の後処理〟として
成立させていた。
診察台の上
額に汗を浮かべた若い兵士が
腕を握りしめていた。
掠れた声で何度も繰り返すのは、同じ言葉。
「⋯⋯あの花⋯⋯散って⋯いや、刃だった
刃で⋯⋯俺の⋯目の前で──⋯ッ」
アラインは微笑みを浮かべながら
穏やかな声で
その記憶に〝修正〟を加えていく。
「⋯⋯君は演習で、閃光弾を見たんだよ。
強い光に晒されて
しばらく視界がぼやけた。
その不安と興奮が重なって
幻覚のように思えたんだ」
「⋯⋯そう、だった⋯か⋯⋯?」
「もう大丈夫。ほら、ここに記録もある」
アラインは手にしたカルテを
ゆっくりと捲る。
兵士の目線は
その紙を読むように滑るが──
実際には、その紙には何も無く白紙。
兵士の瞳に映る
書かれた文字、記された演習記録
それらすべて──
彼が記憶を〝書き換えたもの〟
「光に驚いたのは、当然の反応⋯⋯。
でも、君は冷静に銃を下ろして
仲間と共に退避した。
とても、模範的だった」
一拍。
「⋯⋯君のような兵士なら
また前線に出られる。
自信を持っていいんだよ」
その声に
兵士は目を潤ませながら頷き
立ち上がる。
「⋯⋯ありがとう、先生」
彼の記憶からは
もはや時也も、ソーレンも、レイチェルも
異能の事すら存在していない。
代わりに残るのは
〝少しきつい演習〟を生き延びた
という誇り。
「次の方、どうぞ」
アラインは手袋を付け替え
次の兵士を迎える。
彼は、決して焦らない。
一人ひとりに
ゆっくりと、穏やかに接していく。
焦りや拒絶、恐怖や興奮。
その表情一つひとつを
丁寧に読み取りながら
言葉を、態度を、記憶を
最も〝従順な形〟へと導いていく。
(駒は、できる限り多い方がいい)
アラインは、その度に心の中で冷たく呟く。
(前線に送った兵の中には
民間との繋がりを持つ者
諜報に使える者
癖のない従者として適した者……)
(全て、可能性の種だ)
(それをここで潰すなんて、勿体無い)
記憶を書き換えるチャンス。
しかも〝正規の軍医〟として──
大勢の兵士に 合法的に
時間をかけて接触できるこの状況。
(こんな自然な条件、滅多に無い)
カルテにペンを走らせながら
アラインの口元は極僅かに
他人にはか〝安堵〟としか映らない形で
笑っていた。
診察室の奥
薄いパーティションの向こうでは
記憶を塗り替えられた兵士たちが
安堵の息をつきながら軍医に礼を述べ
出て行く。
アラインはその背を見送るたびに
内心でカウントしていた。
(これで、38人目⋯⋯)
(さて、次の〝舞台〟に使える駒は
どのくらい揃うかな?)
コメント
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眠れる喫茶桜を護るため、幼子の姿を脱ぎ捨てた青龍。 霊木に眠る力を解き放ち、神威を纏う龍と、狂気を孕む剣士が対峙する。 静かに、しかし確実に始まる── 誇りを賭けた戦い。