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「澤口って、キモくない?」
あれは、あたしたちが六年生の春。新しいクラスにやっと慣れてきたころの、昼休みの教室でのできごとだった。
男子たちはボールを抱えて、校庭へ飛び出していってしまい、あたしたち女子はお決まりのメンバーで集まり、おしゃべりをしていた。
窓からは、午後のあたたかい光が差し込んでいて、あたしはみんなの声を聞きながら、「いい天気だなぁ」なんてぼんやり思っていた。
そのとき、グループの中心に座っていた瑞穂が、突然そう言ったのだ。
「え、澤口?」
聞き慣れない名前に、つい反応してしまったあたしを見て、瑞穂がちょっと口元を引き上げてうなずく。
「そう。澤口」
あたしは窓際の席に座っている子に視線を移す。ほとんどの男子が外へ出ていってしまったのに、彼は背中を丸めて、ひとりで本を読んでいた。
澤口比呂――黒ぶち眼鏡をかけた、見るからに真面目で、おとなしそうな男の子。
友だちと話したり、遊んだりしている姿は見たことなくて、いつもひとりで席に座って、本を読んでいる。
クラスでの存在感は薄く、あたしは一度もしゃべった記憶がない。
だけどキモいなんて思っていないし、じつは澤口の読んでいる本が、少し気になっていた。
「なんで?」
あたしは瑞穂に聞いた。
わからなかったのだ。どうして突然、瑞穂がそんなセリフを口にしたのか。
瑞穂はゆるく巻いた毛先を指にからませながら、くすっと笑ってこう答えた。
「だってあいつ、いっつもひとりで本読んでてさぁ。誰ともしゃべらないで、いったいなにが楽しいんだろうねぇ?」
瑞穂の声は大きくて、たぶん澤口にも聞こえていたと思う。でも澤口の横顔はぴくりとも動かない。
「なんかさー、なに考えてるかわかんないヤツって、キモくない?」
きっと瑞穂も、澤口に聞こえているって気づいている。いや、聞こえるように言っているのかも。
あたしは澤口の斜め前の席に視線を動かす。あそこの席の主は、一週間前から学校に来ていない。
選ばれてしまったからだ。瑞穂に。
あのときも瑞穂の「あの子、ウザくない?」のひと言からはじまった。
それまでは彼女のこと、ウザいなんて誰も言っていなかったのに。というより、クラス替えしたばかりで、まだ友だちのことなんてよくわかっていなかった。
それなのに瑞穂は「あの子」を名指ししたのだ。
だけどそのひと言から、なんとなく彼女に声をかけたらいけない雰囲気がクラス中に広がって……そうしてあの子は学校に来なくなっていた。
「うーん、まぁね」
「たしかに」
まわりにいた何人かの女の子が瑞穂に同意した。これで決まりだ。
澤口比呂は、「キモいヤツ」に決定。
「でしょ? あいつの声、ぼそぼそしててぜんぜん聞こえないしー」
「この前、表紙に女の子のイラストが描いてある本、読んでたよ」
そう言ったのは、澤口と席が近い菜摘だ。
菜摘はこのグループのなかで、特に瑞穂と仲がいい。運動神経抜群で、ダンススクールに通っている、瑞穂と同じように目立ちたがり屋な子だ。
「え、マジで? オタクじゃん。キモっ」
瑞穂が大げさに眉をひそめたあと、声を立てて笑った。菜摘やまわりの子も、それに合わせて笑い出す。
あたしも笑った。そして教室のなかでは、ぜったい本を読まないようにしようと誓った。だってこんなふうに、あたしの読んでいる本の表紙を見られたら。そして陰で「オタクじゃん」なんて笑われたら。恥ずかしくて生きていけない。
あたしたちにとって、「学校」は世界のすべて。だからこの場所で生きづらくなったら、もうおしまいなのだ。
でもそのあと、あたしたちの間で澤口の話題が出ることはなかった。瑞穂にとって澤口は、これ以上話題にするほどの人間ではなかったみたいだ。
だからあたしもその日のことは、なんとなく忘れていた。
ただちょっとだけ、澤口の読んでいる本が気になっていた。
それから数か月後。その日はしとしとと雨の降る寒い日で、小学校の校庭もしんと静まり返っていた。
クラスの図書係だったあたしは、放課後、司書の先生に声をかけられた。
「今日ね、図書室に新しい本が大量に入ってきたの。だから図書委員さんの他に、クラスの図書係さんにも、お手伝いをお願いしたくて」
普段の図書係の仕事は、教室にある学級文庫の整理をするくらいだった。図書室での本の貸し借りの仕事などは、図書委員のひとたちがやっている。だからあたしが図書室のお手伝いをすることなんて、いままで一度もなかった。
「二組の図書係さんもお手伝いしてくれるかな?」
「はい」
あたしはそう答えた。やさしそうな司書の先生が、にっこり微笑む。
普段と違うできごとに、ちょっぴり緊張して、でも少しわくわくしていた。
「えー、うららん、今日だめなの?」
瑞穂にそれを話したら、顔をしかめられた。今日は瑞穂の家で宿題をやろうと誘われたのだ。
「うん、ごめん。先生に図書室のお手伝い頼まれちゃって」
「かわいそー。そんなの断ればいいのに。残ってやらせるなんて、先生ひどくない?」
苦笑いするあたしの前で、瑞穂は口をとがらせる。
「せっかくうららんと一緒に、算数やろうと思ったのにぃ」
瑞穂はいつもそうだ。難しい宿題が出ると「一緒に宿題をやろう」と誘ってくる。「一緒に」と言うけど、あたしひとりにやらせて、瑞穂はあとからノートを写すだけ。ずるいなぁっていつも思う。
だけどもちろん、そんなことは言えない。
前に一度、先に約束していた子を優先したら、瑞穂を怒らせてしまい、仲間はずれにされたことがある。あたしが謝ると「しょうがないなぁ、うららんは」なんて、「うららんが悪いけど、許してあげる」みたいな感じで元どおりになれた。
あたしは悪くないのに……もやもやは残っているけれど、ひとりぼっちで過ごした数日間は、ものすごく長く感じた。
誰もがみんな、あたしの悪口を言っているような気がして、教室に入るのがほんとうにこわかった。あんな思いはもうしたくない。
だからあたしは、「自分は悪くない」と思っていても、瑞穂に「ごめんね」と言ってしまう。瑞穂の言葉にうなずいて、へらへら笑って、言うとおりにしてしまう。
でも、そうするしかないんだ。この教室にいる限りは。
あたしだけじゃない。きっとみんなだってそう思っている。
ひとりだけハブかれるのは、誰だってこわい。
「ごめんね、ほんとに」
「しょうがないなぁ、うららんは。じゃあ菜摘でも誘おうっと」
瑞穂が背中を向けて、菜摘のほうへ走っていく。あたしは小さくため息をついてから、ひとりで教室を出る。
廊下の窓は、雨のしずくで濡れていた。あたしは、肩の上で跳ねた髪をいじりながら、図書室に向かって歩いた。
瑞穂は「かわいそう」なんて言っていたけど、図書室でのお手伝いは、そんなにいやじゃなかった。
お仕事は簡単そうだったし、本がたくさんある図書室は好きだ。
瑞穂たちはあんまり本を借りたりしないから、あたしもほとんど来ないけど。
それに司書の先生に、本の話を聞くのも好きだった。
頼まれたお仕事は、新しく入った本を、先生に教えてもらいながら、本棚に並べることだった。
ただ並べればいいのかと思ったら、そうではないらしい。ちゃんと本棚が本の種類別になっているから、決まった場所にしまわなければいけないそうだ。
あたしはぐるりと図書室を見まわす。たしかに図書室の本は、ちゃんと種類ごとに並んでいる。ばらばらに並んでいたら、探している本を見つけられない。
本に貼ってあるラベルを確認しながら、本棚に本を並べた。倒れている本はきちんと立てて、きれいにそろえたら見やすくなった。
並べているうちに、この本おもしろそうとか、あの本読んでみたいなとか、思ったけれど、口には出さず作業を続けていたら……
「あ、あたし、この本、読んだことある!」
「あたしもあるよ。おもしろいよねぇ」
「同じ作家さんの本も、すっごくおもしろかったよ」
他のクラスの女の子たちが、本を並べながら、楽しそうにおしゃべりしている。あたしはそれを聞いて、ちょっとびっくりした。
だってうちのクラスで「本が好き」なんて言ったら、ぜったい瑞穂に目をつけられる。瑞穂に目をつけられたら、大変なことになる。
あたしは女の子たちから、さりげなく顔をそむけた。だけどみんなの話している内容が気になって、そわそわしてしまう。
――え、マジで? オタクじゃん。キモっ。
頭のなかに瑞穂の声が響いて、持っていた本をぎゅっと胸に抱え込む。
だめだ、だめだ。あの子たちと話しているのが瑞穂にばれたら、なんて言われるかわからない。あたしは逃げるように、その場から移動する。
それからも、なるべくみんなと関わらず、黙々と仕事をした。そうしたらあっという間に、下校時刻が近づいていた。
「二組の……高月さん、だったよね?」
司書の先生に声をかけられ、はっとする。
「は、はい」
「もしよかったら、また図書室に来てね。今度は本を読みに」
先生はあたしを見て、にっこりと微笑んだ。
どうして先生はそんなことを言ったのだろう。あたしがほんとうは、この場所にいたいって思っていたこと、気づかれちゃったかな?
「はい」
そう言ってうなずいたけど、たぶん来ることはないだろうなと思った。
瑞穂に言ったら、きっとバカにされる。本が好きなことも、図書室に来ることも、悪いことではないってわかっているのに……あたしは瑞穂がこわかったのだ。
他のクラスの女の子たちと図書室を出て、廊下の途中で別れた。
あたしはひとりで教室に向かって歩く。窓の外はまだ雨が降っていて、廊下はひと気がなく、ひんやりとつめたかった。
ぶるっと肩を震わせ、背中を丸める。
なんだかいつもの廊下じゃないみたい。休み時間や放課後、みんなでわいわい歩く廊下とは違う感じ。
広い校舎に、あたしだけが取り残されてしまったような……
「早く帰ろ」
ちょっと寂しくなり、急ぎ足で教室に戻ってドアを開けたとき、窓際の席に誰かが座っているのが見えた。
「あ……」
そこにいたのは、澤口だった。
あたしが小さく声をこぼしたら、澤口は一瞬だけ顔を上げて、またすぐに机の上の本に視線を落とした。
あたしはなんとなく音を立てずに教室へ入り、無言で荷物をまとめる。
ちらっともう一度窓際の席を見ると、澤口は真剣な表情で、本に書いてある文字を目で追っていた。
あたしの胸がざわついた。澤口の指がぱらりとページをめくる。そこに書いてあるのがどんな内容なのか、すごく気になった。
「なに……読んでるの?」
あたしの声が静かな教室に響く。あたしと澤口の席は、机二列ぶんくらい離れている。
どうして声なんかかけてしまったのだろう。普段だったら自分から男子に話しかけたりしないのに。しかも一度もしゃべったことのない男子になんて。
それにさっきだって、本好きな女の子たちの会話から、逃げていたのに。
あたしたち以外、誰もいない教室。外はつめたい雨が降っていて、窓はうっすらと白く曇っていた。
あたしの声を聞いた澤口は、ゆっくりと顔を上げてこっちを見た。あたしと澤口の視線が、机二列ぶんの距離を隔ててぶつかる。
さらっとした黒い髪。つまらなそうな表情。地味なグレーのトレーナー。
澤口の顔なんて、いままでまともに見たことがなかったけど、眼鏡の奥の瞳がすごくきれいだなって、それだけ思った。
かすかに雨音の響く教室のなか、澤口が本の表紙をあたしに見せた。
「あ……」
あたしはまた小さく声をもらす。
やっぱり――それは表紙にイラストの描かれた、ラノベと呼ばれる本だった。
「それ……おもしろい?」
引き寄せられるように、窓際の席に近寄る。澤口が不審そうに、眉をひそめる。
あたしはそこでピタッと足を止め、早口で話した。
「あの、あたし、そういう本すごく読んでみたいんだけど、お母さんが買ってくれなくて……あ、うちおこづかい制じゃなくて、欲しいものがあるときは、お母さんに理由を言ってお金もらわなくちゃならないの」
あれ、あたし、なにを話しているんだろう。澤口なんかに。
「でもね、うちのお母さん、世界の名作とか、日本の文豪の本とかは買ってくれるのに、そういう本は買ってくれなくて……澤口はいろんな本持ってるよね? 自分のおこづかいで買ってるの?」
じつは知っていたのだ。澤口がラノベ以外にも、映画化された話題の本とか、泣けると評判のきれいな表紙の本とか、いろんな本を読んでいたことを。
休み時間、澤口の席の横を通ったとき、偶然見てしまった。澤口は、最近映画化された、話題の本を読んでいた。
それはあたしがお母さんに、「買って」と何度もお願いしたのに、「本を読みたいなら、課題図書を買いなさい」と言われて、買ってもらえなかった本だったのだ。
それからあたしは、澤口が読んでいる本が、なんとなく気になっていた。
まだあの本を読んでいるのかな? あっ、今日は違う本を読んでる。今度の本はどんなお話なんだろう……
あたしはさりげなく澤口のそばを通っては、澤口の読んでいる本をちらちら見ていたのだ。
澤口はじっとあたしのことを見つめている。あたしは口をつぐんだ。
どうしよう。もしかしてあきれてる? いままでしゃべったこともなかったのに、いきなりこんな話をして。
どうしたらいいのかわからなくなってうつむいたら、雨音に混じって澤口の声が聞こえた。
「金だけはたくさんくれるから。うちの親」
「え?」
あたしははっと顔を上げる。
はじめて聞いた澤口の声。いや、授業中に先生に当てられて、答えている声は聞いたことがある。でもあたしだけに向けられた澤口の声を、あたしははじめて聞いたのだ。
「金だけ与えてほったらかし。まぁ、いいけど」
投げやりなその言葉のなかには、あたしなんかにはわからない複雑な想いがたくさん詰まっている気がして、少し胸が痛くなる。
澤口のお父さんとお母さんって、お金はくれるけど、面倒はみてくれないのかな? うちの親なんか、あたしのすることに全部口出してきて、めんどくさいくらいなのに。
すると澤口は静かに本を閉じ、あたしに向かってこう言った。
「おれは、おもしろいと思う。この本」
あたしは澤口の顔を見る。
頭のすみで、澤口って自分のこと「おれ」って言うんだ、なんて考えながら。
「もしよければ貸してやるよ。読み終わったら」
「ほんとに?」
こくんとうなずき、澤口は丁寧に、本を自分のランドセルにしまう。その手つきがとてもやさしくて、なんだかうれしくなった。
澤口が、本を大事にするひとなんだってわかったから。
そうしたら急に親近感が湧いてきて、あたしの口がまた軽くなった。
「あ、あたしも本読むのが好きなんだ。学校では読まないようにしてるけど」
「なんで読まないんだよ」
「えっ、な、なんでって……」
風船みたいに膨らんだ胸に、澤口がちくんっと針を刺した。期待で膨れたあたしの胸が、しゅわしゅわと音を立ててしぼんでいく。
「だって……学校で本ばっかり読んでる子は、バカにされるんだよ。友だちいないんでしょって」
瑞穂の甲高い声が、頭に浮かぶ。「キモい」「オタク」……ぜったい言われたくない、ひどい言葉の数々。
そんなことあるはずないのに。本を読んでいるだけで「キモい」なんて言われるのは、ぜったいおかしいのに。
すると澤口がふっと笑った。まるであたしをバカにするように。
あたしの顔がかあっと熱くなる。
「い、いま、笑った? 笑ったでしょ?」
「ああ。だってバカみたいなのは、あんたのほうだろ?」
「ひど……」
「好きなものを好きって言って、なにが悪いんだよ。まわりの声に振り回されて、好きなものを隠すなんて、バッカみてぇ」
バッサリ言い切った澤口が立ち上がる。ガタンッと椅子を引く音が響きわたって、体がびくっと震える。
ぼうぜんと突っ立っているあたしの前で、澤口はランドセルを背中に背負った。そしてあたしを無視して教室を出ていく。
なんなの、あいつ。
もしかして、ひとりぼっちでかわいそうなヤツなのかなって、ちょっと同情しそうになったのに。
本を大切に扱う、やさしいヤツなのかなって、ちょっといいなって思ったのに。
あんなこと言うヤツとは思わなかった。
だけどあたしはいそいで帰るしたくをして、澤口のあとを追いかけた。
だって学校で、あたしの「好きなもの」の話ができたのは、澤口がはじめてだったから。
教室を飛び出したあたしの頭に、澤口の声が響いていた。
『好きなものを好きって言って、なにが悪いんだよ』
廊下を走りながら、ぎゅっとこぶしを握りしめる。
澤口に……言わなきゃ。とにかく言わなきゃって、思っていた。きっと澤口なら、わかってくれるはずだから。
澤口は意外と歩くのが速くて、昇降口でやっと追いついた。ちらっとあたしを見た澤口は、あきらかに迷惑そうな顔をし、靴を履き替え玄関から出ていく。
外は雨が降っていて、薄暗くなっていた。
澤口が傘をひらき、あたしもその横で同じように傘をひらく。となりに並んだら、あたしと澤口の身長が同じくらいだって、はじめて気づいた。
「なんでついてくんの?」
つめたい雨のなかに、スニーカーを履いた足を一歩踏み出す。すると傘の陰で澤口がつぶやいた。つまらなそうに。
「あんたまでキモいって言われるよ」
あたしはなんて言ったらいいのかわからず、傘の柄をぎゅっと握りしめる。
澤口はやっぱりわかっていた。瑞穂が「キモい」って言って笑っていたこと。そしてきっと、あたしも一緒になって笑っていたことも。
澤口が歩き出す。あたしは黙ったまま、そのあとをついていく。
少し強い風が吹いて、校門のそばの大きな木が、ざわっと揺れた。
澤口に置いていかれないよう、速足で水たまりを踏みつける。
いままで気にしていなかったけど、澤口もあたしと帰り道が同じ方向らしい。
「あの、あたしね」
校門を出て、街路樹が並ぶ歩道を歩きながら、勇気を出して口を開いた。傘を叩く雨の音に、あたしの頼りない声がかき消されそうになる。
「読むだけじゃなくて、書いてるの。小説を」
こんなこと、誰にも話していない。家でも、もちろん学校でも。バカにされるってわかっていたから。
だけど誰かに聞いてもらいたかった。だってそれがあたしの「好きなもの」だから。そして澤口なら、あたしの「好きなもの」をわかってくれると思ったのだ。
「下手くそなのはわかってるけど……でもなんか楽しくて。昨日も宿題しないで、スマホでぽちぽち書いてたら、お母さんに勉強しなさいって怒られちゃって」
あれ、あたしまた余計なこと、澤口に話している?
気まずくなって、傘の陰から、ちらっととなりを見る。
澤口はなにも言わずに、前を向いたまま歩いていく。スニーカーが水たまりを踏みつけて、小さなしぶきが飛ぶ。
あたしは肩の上で跳ねた髪をなでつけながら、消えそうな声でつぶやく。
「恥ずかしくて、誰にも見せられないんだけどね。だいたいあたしの書いた小説読んでくれるひとなんて……」
「ネット投稿」
澤口の声が、雨音のなかに響いた。
あたしたちの横を車が一台、水しぶきを上げて追い越していく。
「へ?」
あたしはおかしな声を出し、その場に立ち止まってしまった。澤口も二、三歩先で足を止め、あたしに振り返る。
「ネットに投稿してみたら? 誰かが読んでくれるかもしれない」
澤口の言葉を頭のなかで、何度も繰り返す。
ネット投稿? それって自分の書いたものが、日本中……いや、世界中にさらけだされるってことだよね?
それを知らない誰かに、読まれたりするんだよね?
あたしはあわてて首を横に振った。
「無理無理! そんなのやり方わかんないしっ。それこそ誰も読んでくれなかったら……」
「おれが読むよ」
あたしは傘のなかで一瞬ぼうぜんとし、固まってしまった。
そんなあたしの耳に、澤口の声が聞こえてくる。
「おれ、登録の仕方とかわかるから、よかったら教えるけど?」
あたしの書いた小説をネットに投稿する。そしてそれを澤口が読む。
え、嘘でしょう? 恥ずかしい。恥ずかしすぎる。
だってあたしの書いた小説なんて、下手くそだし。下手すぎて、あきれられちゃうかもしれないし。澤口はいっぱい本を読んでいるんだから、あたしみたいなド素人の作品なんか、読む必要ないだろうし。
でも。でも。でも――
「お、お願いします」
心のなかがぐちゃぐちゃに乱れたまま、澤口の前で、ぺこっと頭を下げた。傘から雨のしずくが流れ、足元にぽたぽたと落ちる。
おそるおそる顔を上げると、澤口と目が合った。どうしようもなく恥ずかしくなって、目をそらしてしまった。
あのとき、どうして「お願いします」なんて言っちゃったのか、あたしはいまだにわからない。
澤口が静かに傘を閉じた。空を見上げると、いつの間にか雨がやんでいた。あわてて傘を閉じるあたしに、澤口がたずねる。
「明日の放課後、時間ある?」
「うん」
澤口は市立図書館の児童コーナーを、待ち合わせ場所に指定してきた。どうやら澤口の家はその近くらしい。
市立図書館は小さいころよく、お母さんに連れていってもらっていたけど、もう何年も行っていない。
しかもちょっと小高い丘の上にあるため、すごく長い坂道をのぼらなければいけない。歩くと時間がかかるし、自転車でもこぐのが大変だ。
それなのに気づけば、あたしは「わかった」って答えていた。
「じゃあ明日、四時に。スマホを忘れずにな」
「う、うん」
坂道の下で、澤口と別れた。去っていく澤口の後ろ姿を、あたしは見えなくなるまで見送った。
もっとぼうっとしているヤツだと思っていたのに、澤口は案外てきぱき決めてくる。意外だと思ったし、ちょっと感心した。
まぶしい光に気づいて、顔を上げた。雲がゆっくりと動き、そのすきまから、夕陽が差し込んでくる。
「きれい……」
雨がすっかり上がったのだ。
歩道の草木の雨粒が、宝石みたいにキラキラ光っている。
足元の水たまりが、オレンジ色に染まっていく。
「明日はきっと、晴れるよね」
夕焼け空を見上げ、誰にともなくつぶやいた。雨上がりの風が吹き、あたしの跳ねた髪が揺れる。
閉じた傘をぶら下げて、前を向いて歩き出した。
ぴょんっと水たまりを飛び越えたら、なんだかちょっとうれしくなって、スキップしながら家に帰った。
翌日は、朝からいい天気だった。
「いってきます!」
「いってらっしゃい。気をつけるのよ!」
お母さんに見送られ、走って家を出る。いそがないと遅刻してしまう。
あたしは昨日から、ずっとドキドキしていた。
宿題はまったく手につかないし、布団に入っても目が冴えてしまって、ぜんぜん眠れなかった。それで結局寝坊して、登校時間ギリギリになってしまったのだ。
でもドキドキするに決まってる。
今日、あたしの書いた小説を、ネットに投稿するのだ。
だけどよく考えてみたら、それって、とんでもないことじゃない?
大丈夫かな? できるかな? やっぱり恥ずかしい……
そんなことが、ぐるぐるぐるぐる、頭のなかを回っている。
学校に着いても緊張は続いていて、授業が頭に入ってこなかった。
体育の時間も、なんでもないところでつまずいて転んで、みんなに笑われてしまった。
「うーららん!」
休み時間、背中から瑞穂が抱きついてきた。
「どうしたのぉ? 髪の毛、めっちゃ跳ねてるよ」
「えっ!」
あたしはあわてて髪を押さえる。朝、いそいで家を出たから、鏡を見るひまもなかったのだ。
「えっと……今日は寝坊しちゃって……」
「だめだなぁ、うららんは。寝ぐせくらい、ちゃんと直しておいでよ」
瑞穂がくすくす笑いながら、くるんっと巻いた自分の髪を指先でいじる。
あたしは苦笑いしたまま、ちらりと窓際の席を見た。
澤口は今日も、いつもどおり本を読んでいるだけだった。あたしに話しかけることはもちろん、目を合わせようともしない。
ドキドキしているのは、あたしだけなのかな。もしかして昨日、雨上がりにした約束は、あたしの勝手な妄想だったりして……
そんな考えが頭をよぎり、ため息がもれる。
「……でしょ? ねぇ、うららん、あたしの話、聞いてる?」
「あ、ごめん、瑞穂。聞いてなかった」
「もうー、うららんはー」
瑞穂があたしの前で膨れている。あたしはまた苦笑いをする。
正直あたしの頭のなかは、今日の放課後の約束で、いっぱいだった。
視線がどうしても、澤口の姿を追いかけてしまう。
だけど澤口とはなにもなく、そのまま一日の授業が終わった。
あたしはいそいで帰宅し、十二歳の誕生日に買ってもらったスマホを握りしめ、家を飛び出す。
そして普段だったら行くことのない長い坂道を、必死に駆けのぼった。
市立図書館の児童コーナーに着くと、澤口の姿が見えた。昨日の約束が妄想じゃなかったとわかって、心のなかでほっとする。
澤口は赤いソファーに座って、ひとりで本を読んでいた。その姿は学校と同じようで、ちょっと違う気もした。
どうしてだろう。ここが「教室」ではなく、「図書館」という場所だからだろうか。
澤口はきれいな表紙の本を読んでいた。帯に「泣ける」という文字が見える。どんな本なんだろう。ラノベも気になるけど、こっちも気になる。
「さ、澤口」
おそるおそる声をかけたら、澤口がゆっくりと顔を上げた。
眼鏡の奥の瞳に、まっすぐ見つめられて、心臓のドキドキが激しくなる。
「スマホ、持ってきた?」
だけど澤口は、あたしの気持ちなんかおかまいなく、いつもどおりつまらなそうな口調で言う。
「あ、うん、持ってきたよ」
ポケットからスマホを出して突っ立っていたら、澤口が顔をしかめた。
「え、あっ、うん」
赤いソファーを見ると、澤口のとなりが、ひとりぶんくらいあいていた。あたしはそこに、静かに腰を下ろす。
なんだかすごく、不思議な感じがした。
昨日まで、話したこともなかった男の子と、図書館で並んで座っているなんて。
児童コーナーには靴を脱いで上がれる、広いカーペットのスペースもある。
そこでは子どもたちが、自由な格好で本を読んだり、お母さんに絵本を読んでもらったりしていた。おしゃべりしている小さな子や、赤ちゃんを抱っこしたお母さんもいる。
だから静まり返った図書館のなかで、このコーナーだけは空気がちょっとやわらかい。
「おれが登録してるサイトはここだけど、いい?」
澤口が自分のスマホの画面を見せてきた。澤口のスマホは、あたしのよりも最新型っぽくて、カッコよかった。
そういえば澤口のお父さんとお母さんって、お金だけはたくさんくれるって言ってたっけ。うちはなかなかスマホを買ってもらえなかったけど、澤口のうちは、欲しいものはなんでも買ってもらえるってことなのかな?
「なぁ、聞いてる? おれの話」
「き、聞いてます!」
あたしが姿勢を正すと、澤口がサイトの説明をはじめた。
ここは誰でも無料で、自分の書いた小説を投稿したり、誰かの書いた小説を読んだりできるってこと。
気に入った小説はブックマークしたり、感想を書いたりできるってこと。人気が出るとランキングにのって、本物の本になる場合もあるってこと。
「へぇ、すごい。澤口、よく知ってるね。いつから登録してたの?」
「おれは一年くらい前」
澤口は自分のページを見せてくれた。『ヒロ』っていうのが、サイトのなかでの澤口の名前らしい。投稿している作品は一作もなく、自己紹介の欄に「読み専です」とひと言だけ書いてあった。
あたしはちょっと首をかしげる。
「ねぇ、『読み専』ってなに?」
「読む専門のひとのこと。小説は書かない」
「へぇ……」
澤口ってすごいなぁ。あたしの知らない世界をいっぱい知っている。
「スマホ貸して」
感心しているあたしの前に、澤口が手を差し出した。あわててスマホを渡すと、澤口は慣れた手つきで操作をはじめた。
「まずはあんたのユーザー名、どうする?」
「へ? ユーザー名?」
「作家のペンネームみたいなもんだよ」
「あ、どうしよ。なんにも考えてない」
澤口が顔をしかめる。あたしは苦笑いしながら、いそいで考える。でもなにも浮かばない。
「えっと、じゃあ……『麗』で」
「本名でいいのかよ」
「澤口だって本名じゃん」
「おれは投稿してるわけじゃないから、なんでもいいんだよ」
澤口があたしのスマホに名前を打ち込んだ。『URARA』って。
「わー、かっこいい!」
思わず手を叩いてしまったら、澤口に「静かに」と怒られた。そしてあたしの手に、スマホを返す。
「あとは自分でやってみな。自己紹介とか書き込めるけど、個人情報は入れるなよ」
「う、うん」
「あんたのことフォローしとくから、そっちもして」
「フォローってなに?」
「まぁ、『仲よくなる』みたいなこと。自分をフォローしてくれたひとのことは、フォロワーっていう」
澤口と、「仲よくなる」……なんだかちょっとドキドキした。
するとすぐにあたしのページに「フォロワー1」という文字が現れた。あたしのはじめてのフォロワーは、もちろん澤口だ。
「そこのボタンをタップすれば、ユーザー同士でメッセージも送り合えるから、わからないことがあったらおれにメッセージ送って」
澤口があたしのスマホを指さしながら教えてくれる。
けっこうやさしいんだ、澤口って。それにすごく頼りになる。
学校では存在感薄いし、いつもやる気がなさそうな顔をしているから、こんなに物知りで親切なヤツだったなんて、わからなかった。
あたしは澤口が登録してくれた、『URARA』という名前を見る。でもそれを見ていたら、また不安になってきた。
「や、やっぱり……あたしなんかが投稿しても、大丈夫かなぁ……」
「大丈夫だよ」
澤口が、いつもと変わらない口調で言う。
「おれ、あんたが書いた小説、読んでみたいし」
胸の奥が、かあっと熱くなる。
あたしの書いた小説を読んでみたいなんて……そんなこと、はじめて言われた。書いていること自体、誰にも内緒だったから、当たり前だけど。
ドキドキが止まらないあたしに、澤口は投稿の仕方も丁寧に教えてくれた。
「作品のジャンルはここから選べるから、自分で選んで」
「あらすじはここに書く。読者にわかりやすいように」
「毎日更新すると、読んでくれるひとが増えるかもしれない」
あたしはただうなずきながら、いろんなことを知っている澤口のことを、さらに感心していた。
「ほんとすごいよね、澤口って。本もいっぱい読んでるしさ」
そういえばここに来たときも、おもしろそうな本を読んでいた。
「さっき読んでた本は図書館の?」
「ああ、これは自分の。昨日買ったやつ」
澤口がリュックのなかから、きれいな表紙の文庫本を取りだした。
青い星空の下に、男の子と女の子が立っているイラストが描いてある。キラキラしていて、ちょっと切なくて、とってもすてきだと思った。
「この作家の本は全部持ってる」
「へぇー、おもしろい?」
「泣ける話が好きなら、いいんじゃないかな」
「泣ける話、好き!」
「だったらこっちの本もいけるかも」
澤口は他にも何冊かの本を持っていて、あたしに見せてくれた。どれも表紙がきれいで、どんな話なのかすごく気になった。
「いいなぁ、うちのお母さん、こういうの買ってくれないし」
「じゃあ借りてけば? 図書館で」
「あ、そっか! こんなにいっぱい本があるんだもんね!」
あたしは澤口のとなりで笑った。なんだか楽しい。
こんなふうに誰かと、自分の好きなものの話をする日が来るなんて、思ってもみなかった。
誰の目も気にせず、なにも隠さず、ほんとうの想いを口に出せるのが、こんなに気持ちいいなんて……
「ねぇねぇ、澤口は、他にどんな本、読んでるの?」
そのままふたりで、好きな本の話や、いままで読んだ本の話をした。
澤口はあたしの知らないことを、とってもたくさん知っていて、それを聞いているだけで楽しかった。それにあたしの話も、澤口はからかったりせず、黙って聞いてくれた。
気づけば窓の外は夕焼け色に染まっていて、夕方のチャイムが鳴るころ、一緒に図書館を出た。頬に当たる風がちょっとつめたかったけど、なぜか心のなかは、ほかほかとあったかかった。
「家に帰ったら、さっそく投稿してみるね」
図書館の前であたしが言ったら、澤口がぼそっとつぶやいた。
「楽しみにしてる」
頭のなかで、その言葉を繰り返す。
楽しみにしてる――澤口があたしの小説を読むのを、楽しみにしてる。
恥ずかしいのに、うれしくて、ここに来たときの不安が嘘のように、わくわくしてきた。
「じゃあね!」
「じゃあ」
分かれ道で澤口と別れる。やわらかく染まる夕陽のなか、背中を向けた澤口の、長い影が伸びている。
あたしはその影を見送ると、走って家に帰った。
そして胸をドキドキさせながら、小説を一話、はじめて投稿した。