橋本の弱りきった声が、宮本の胸の中にじんと染み入った。だからこそ、口にせずにはいられない。
「……追いつかなくていいです」
「は?」
高まる感情を隠すべく、できるだけ静かに答えた宮本のセリフで呆気に取られたのか、橋本は二の句を継げずに、視線の先にある顔を食い入るように見つめた。
「陽さんには俺の好きという気持ちを、ずっと追いかけてほしいです!」
「それって、何もせずに追いかけるだけでいいのか?」
からかいを含むような焦れた声と一緒に、ザシュッという音が耳に聞こえた。宮本が注意を促す言葉を発する前に、倒れていた男が立ち上がり、橋本を捕まえようと右手を伸ばした。橋本の視線は相変わらず宮本を見たままなのに、男の手を素早く弾きながら、ステップを刻むように後退りをして距離をとる。
「おいおい、こっちはわざと隙だらけにしてやってるのに、攻撃のひとつもしかけられないのかよ」
肩を竦めて、やれやれと言わんばかりのポーズをとる橋本に、男は地団駄をその場で踏みしめた。
「おまえ、いったい何者なんだ? 僕はこれでも、名のある選手だったんだぞっ」
「何を言い出すのかと思ったら、そんなの過去の話だろ。今のアンタは、一般人の弱いヤツばかりを相手にしてる。必然的に腕が落ちるわけですよ」
「なっ!? おまえなんて、ただのハイヤーの運転手のくせに!」
「確かに職業はハイヤーの運転手ですが、ごく稀にカタギじゃない方を乗せることもある関係で、ボディガードを請け負う場合もあるんです」
(ひゃーっ! 陽さん超かっこいい! どうしよう、ますます好きになってしまうじゃないか)
渋い二枚目で足が長くて格好いいのに、照れてちょっと笑うと、可愛い雰囲気を醸し出すというギャップを兼ね備えているだけじゃなく、車の運転も宮本が見惚れてしまうくらいに上手――これだけでも充分だと思うところに、喧嘩が強いという新たなオプションは、宮本の恋する気持ちを、一気にショートさせた。
「ボディーガードをするにしたって、おまえのその動きは普通じゃない。何かやっていたんでしょ?」
後方に逃げる橋本を追いかけようと、男は両手で掴みにかかっているのに、予測しにくい足取りで四方八方にひたすら逃げる。
「何もしていないですって。ただいろんな相手と喧嘩をしてきたから、無差別級と称したほうがいいでしょうね」
後方に逃げていた橋本の足が、突然前進するものに変わり、男と至近距離で向かい合った瞬間、容赦のない頭突きをお見舞いする。
「痛っ!」
ものすごい痛そうな音がしたというのに、橋本は好戦的に笑ったまま、よろけた男の首に腕を回して、肘の辺りで挟み込むなり、背後からぎゅっと締めにかかった。
「さ~てさて。元強化選手の風祭さんは、どれくらいで落ちるんでしょうねぇ。雅輝が我慢した時間よりも耐えられなかった場合、恥ずかしいことになっちゃいますけど」
「や、やめて。放してってば」
立ったままで締められている首を何とかすべく、男は橋本の腕を叩いたり、躰を揺すりながら足をじたばた動かしたりと、必死になって抵抗し続けた。
「放すわけないだろ。しっかり報復させてもらいますよ」
「悪かった、頼むから……。金ならいくらでもやるから放して」
「金だと!? ふざけんな!」
男が言った『金』という言葉を聞いた途端に、橋本の顔から笑顔が消えた。見るからに冷ややかな眼差しは、宮本もぞっとするほど異様な迫力に満ちていて、思わず躰を縮こませるものだった。
「アンタの周りにいる人間は、それで言うことを容易く聞いていたかもしれない。面倒ごとに巻き込まれない手法の一つだ。だがな、すべての人間が、それに平伏すと思うんじゃねぇぞ!」
怒りに溢れる橋本の腕に、更に力が入ったのだろう。男の顔色がどんどん変わっていく。
「陽さん、それ以上はまずいですって。俺はもう大丈夫だから」
焦って大声をあげた宮本の様子を確認して、橋本は忌々しげに舌打ちしたあとに男を放した。
「はぁはぁ、助かった……」
先ほどの宮本のように、躰全体で呼吸をしている男を見下ろした橋本が、髪の毛を鷲掴みするなり、ぐいっと引っ張った。
「雅輝の優しさに感謝するんだな、えぇっ!?」
「いっ痛いよぉ……」
「陽さん、駄目ですって!」
橋本が掴んでる腕に、宮本が慌ててしがみついて外すと、男から引き離してやる。橋本に、これ以上の暴力をふるわせないように――。
「雅輝……」
喧嘩の仲裁に入った宮本を見つめる橋本の眼差しから、苛立ちの色が溢れている上に、しがみついている腕には力が入っているからこそ、宮本は両手でぎゅっと掴んで、離さずにいた。
「陽さん、これ以上は手を出しちゃ駄目だ。この男と同じになってしまう」
「同じことにならねぇって。コイツは雅輝を気絶させた挙句に、襲おうとしていたんだぞ」
「でも陽さんが助けてくれたから、俺は襲われることは回避できた。だからもう制裁はお終いです」
宮本が言い終わらないうちに、男はふらつきながら立ち上がり、よろけた足取りで逃げようとした。
「おい、こらっ風祭! 話を聞きやがれ!」
男を追いかけそうになった橋本の腕を、宮本は更に引っ張って、その場に引き留める。今の宮本には、それくらいしかできなかった。
「そんなもん、黙って聞くわけないでしょ!」
「とある銀行の頭取が、俺のお客様にいるんだけどさ」
銀行名を告げなかったというのに、男の足がピタリと止まった。
「なんだって?」
「身辺調査をした探偵も、そこまで調べがついていなかったみたいだな」
男の様子に、余裕のある笑みを唇に湛えた橋本を見て、宮本は掴んでいた腕をそっと解放した。
「サンキューな、雅輝。助かる」
「いえ……」
橋本は自由に動かせるようになった片手でポケットをまさぐり、スマホを取り出す。
「おまえが雅輝のあとをつけた後に、ベラベラ喋ってるところや、手を出してるところも含めて動画を撮影した」
喋りながらスマホを操作して再生させ、男に見えるようにスマホを目の前にかざした。
「「いつの間に――」」
橋本の思わぬ行動に、宮本と男が同じタイミングで言葉を口にする。
「俺と雅輝に何かあった場合、第三者がこの動画をアプリ経由で、頭取宛てに転送する手筈になってる」
ふたりがそろって驚いてる様子を、橋本は嫌そうな表情を浮かべながら、それぞれ眺めた。
「それは……、おまえたちに手を出すなっていう意味なんでしょ!」
「正解。頭取から見放されたら、孫のおまえは系列の会社で働けなくなるだけじゃなく、生きていけなくなるだろう? 可愛がってる話を車内で、おじいさんからお聞きしてますよ」
「くそっ! わかったよ。もう金輪際、手を出さないと誓う!」
大声が駐車場内に響き渡る中を、男はふらつきながら帰って行った。
「さーてと。邪魔者は去って行ったし、とりあえず――」
にこやかな感じで宮本に向かって話しかけた瞬間に、橋本が持っているスマホが軽やかなメロディを奏でた。渋い顔でディスプレイを見、画面を素早くタップして耳に押し当てる。
「もしもし、忍さん? さっき送った動画の件、メッセージ通りによろしく頼む」
苦々しい表情をそのままに、流暢にセリフを告げた橋本だったが、相手の返事を聞いてる間に、顔が般若のような怖いものへと変化していった。
「何を言い出すかと思ったら、その動画はホモビじゃねぇぞ。観賞用としてヌくなんて、もってのほかだ。絶対使うな!」
「よ、陽さん声を抑えなきゃ。その内容はマズいです。響いてますって」
橋本がいきなり卑猥なことを口走ったことに、宮本はぎょとし、両手を使ってまぁまぁというジェスチャーをしてみる。
「ぁあ゛? 雅輝、おまえは少し黙ってろ! 忍さん、いいか。それは大事な証拠品なんだからな、厳重に保管してもらわなきゃ困る。なんだって? 宮本ってコが可愛いから紹介しろだと?」
宮本としては、声を抑えてほしいからジェスチャーを続けてみたが、やればやるほど橋本のボルテージが上がっていくような気がした。怒って一度火がついたときの橋本は、宮本にとって怖い存在になる。
「宮本ってヤツは、俺の大事な男なんだ。忍さんには紹介できないから。……ああ、そうなんだ。弟が店に顔を出していたのか、へぇ」
目の前で展開されていく内容を聞いて、ニヤけそうになるのを必死になって堪えた。そんな宮本を見て、橋本がもの言いたげな表情をする。
切なげでいて、じれったそうな眼差しを受けて、否応なしに宮本の心臓が跳ね上がった。
「そのうち、動画の保管料を持って店に行くから、楽しみにしていてくれ。わかったわかった、なるべく早めに行けるように努力するから。はいはい、じゃあな!」
セリフを言い終えた橋本だったが、スマホのむこう側ではずっと何かを喋っているらしい声が聞こえていた。うんざりした顔の橋本が画面をタップすると、辺りが静寂に包まれる。
何だか話しかけにくいなぁと考えていた宮本の頭を、橋本は容赦なく叩いた。
「いたぃ……」
「きったねぇな、おまえ」
「へっ!?」
「へっ!? じゃねぇよ。アイツに押し倒されて、頭から足まで埃まみれになって、真っ白になってる。そのまま帰すわけにはいかない」
橋本は宮本のブルゾンの襟首をわしっと掴んで、マンションに繋がっていると思しき場所に、無理やり連れて行く。
(もっ、もしやこれは、喜ばしい展開なのでは!? どうしよう、使い古したしょぼいトランクスを見て、陽さんがげんなりするかもしれない……)
頭の中で、アレやコレを考えまくりの宮本のことを露知らず、いつもと変わらぬ様子の橋本は、大事な男と称したヤツを、自宅に招き入れたのだった。
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