それから数日のあいだ、ドラコはほとんど綱渡りのように過ごしていた。
昼は授業へ出る。
食堂にも顔を出す。
教師へは礼を尽くし、同級生の前では必要最低限の皮肉も忘れない。
マルフォイらしい輪郭を保つための努力だけは、日に日に上達していった。
その完成度が高いぶん、かえって痛々しかった。
少し遠くから見るぶんには、ドラコは平静そのものに見える。
だが近くで見れば分かる。
頬の線は前より細い。
目の下には眠りの浅さが残っている。
杖を持つ時だけ、指先の動きが硬くなる。
そして何より、ふいに訪れる空白の瞬間が増えていた。
昼間でも、突然立ち止まることがある。
廊下の真ん中。
階段の途中。
窓辺の前。
周囲から見れば、ただ考え事をしているようにも見える。
でも本当は違う。
その一瞬、視界の端に黒いローブがちらつく。
冷たい声が耳の奥で蘇る。
杖を握れ。
命じるような気配。
服従の呪文に身体が慣れきっていた頃の、嫌な感覚。
今はもう、ヴォルデモートは死んでいる。
それくらい分かっている。
頭では。
でも身体のほうは、そんな理屈に従ってくれない。
呪文を使おうとした瞬間に喉が詰まる。
杖を持つ手が冷える。
ほんの短い沈黙ののち、何とか形にしても、威力が安定しない。
簡単な魔法ほど、ごまかしがきかない。
本来なら何も考えずできるはずの動作に、恐怖がそのまま差し込んでくるからだ。
ドラコにとって、それはひどい屈辱だった。
ただ不調なだけではない。
自分の核に近い部分が傷んでいる。
マルフォイ家の息子として。
純血の名門として。
何より一人の魔法使いとして、自分がまともに立てなくなっている。
それを誰にも悟られたくなかった。
特に、ハリーには。
ハリーはもう、以前よりずっと近くにいる。
夜になれば教室で会う。
顔色の悪さにも気づく。
少し呼吸が乱れただけで、すぐ声をかけてくる。
それがありがたくないわけではない。
ありがたくないどころか、たぶん今のドラコはそれにかなり救われている。
でも同時に、その優しさの前で平気な顔をするのがどんどん難しくなっていた。
心配されるたび、自分の弱さがはっきり浮かび上がる。
見抜かれるたび、逃げたくなる。
逃げたくなるのに、夜にはまたハリーのところへ行ってしまう。
その矛盾が、ドラコを少しずつ追いつめていた。
ある日の昼、変調はついに人目のある場所で出た。
魔法史の授業が終わり、生徒たちが廊下へあふれ出る。
ドラコもノートを抱えて歩いていた。
会話のざわめき。
石床に反響する足音。
ありふれた昼休みの音。
そのはずなのに、ふいに、音の層がひっくり返った。
誰かが遠くで笑う。
それが、別の時代の、別の場所の笑いに変わる。
重い扉の開く音。
冷たい床。
「跪け」という低い声。
ドラコの足が止まる。
次の瞬間には、足元の感覚が薄くなっていた。
目の前の廊下が、ほんの一瞬だけ別の空間と重なる。
息が入らない。
杖がないのに、右手だけが勝手に強張る。
「ドラコ?」
聞き慣れた声がした。
ハリーだ。
その声が現実へ引き戻すきっかけになる時もある。
でも今は逆だった。
こんなところを見られた、という羞恥が恐怖へ重なる。
ドラコは咄嗟に何でもない顔をしようとした。
だが遅い。
視界が傾く。
足元が遠い。
身体が言うことをきかない。
気づけば、ハリーが腕を掴んでいた。
「大丈夫か」
その声は低く、真剣だった。
周囲の生徒も何人か足を止めてこちらを見ている。
最悪だった。
こんな場所で。
こんなふうに。
よりによってハリーに支えられて。
「……触るな」
どうにかそれだけ言う。
でも声が弱い。
突き放すには、あまりにも弱々しい。
ハリーは手を離さなかった。
「歩ける?」
「平気だ」
「平気じゃないだろ」
そのやりとりだけで、周囲の空気が妙にざわつくのが分かった。
マルフォイがふらついている。
ポッターが支えている。
それだけでも充分に人目を引く。
ドラコは歯を食いしばり、自分の足で立ち直ろうとした。
情けないところをこれ以上見せたくない。
せめて、ちゃんと立て。
そう思うのに、膝がまだ少し頼りない。
「……見世物にするな」
かすれた声でそう言うと、ハリーの表情が一瞬だけ曇る。
でも、怒らない。
ただ、ぐっと顎を引いて、もっと低い声で言う。
「じゃあ静かなところへ行こう」
その言い方が、ひどく真っ当で、ドラコには余計につらかった。
正しい。
何も間違っていない。
でも正しいぶんだけ、自分が惨めになる。
結局、ドラコは無言のままハリーに支えられて人気のない小部屋まで連れて行かれた。
中へ入る。
扉が閉まる。
ようやく人の目が消える。
その瞬間、ドラコは勢いよく腕を振り払った。
「もういい」
ハリーは一歩引いたが、視線は外さない。
「いいわけない」
「お前に決められることじゃない」
「決めたいわけじゃない」
ハリーの声も少し荒くなる。
「でも君、最近おかしい」
その一言が、真正面から刺さる。
おかしい。
そうだ。
自分でも分かっている。
分かっているのに、他人に言われるとたまらなく腹が立つ。
「最近?」
ドラコは低く笑った。
「今さらだな」
「お前、ずっと見てるくせに」
言ってから、自分で少しだけ息を止めた。
今のは本音に近すぎる。
ハリーが自分を見ていることに、ちゃんと気づいていると認めてしまったからだ。
ハリーもそれに気づいたらしい。
少しだけ表情が変わる。
でも次の瞬間には、もっと真剣な顔で言う。
「見てるよ」
「だって君、放っておけない」
その返答に、ドラコはほとんど眩暈を覚えた。
そういうことを平然と言う。
しかも悪気なく。
善意のまま。
その真っ直ぐさが、今のドラコには一番危険だった。
「放っておけ」
ドラコは低く言う。
「頼んでない」
「頼まれなくても」
ハリーはそこで少し言葉を選んだ。
「……心配する」
その“心配する”が、ドラコにはひどく重かった。
心配。
そんなふうに思われる資格が自分にあるのか。
今の壊れかけた自分に。
まともに呪文も使えず、昼間に立っていることすら危うくなる時がある自分に。
それを向けられると、胸の奥の何かがすり減る。
ありがたいのに、情けない。
嬉しいのに、惨めだ。
「やめろ」
思わずそう言うと、ハリーが少しだけ眉を寄せた。
「何を」
「そういう顔」
「どんな顔」
「僕を」
そこで声が掠れる。
「可哀想なものでも見るように」
ハリーは息を呑んだ。
「そんなふうに見てない」
「見てる」
ドラコは目を逸らさずに言う。
「お前、自分では気づいてないだろうけど」
「……そういう時の目が嫌いだ」
その一言で、今度はハリーが言葉を失った。
正確だったのだろう。
たぶん、ハリーは無意識にそうしている。
放っておけない時、守りたい時、誰かの痛みを自分のものみたいに受け取った時。
そういう顔をしてしまうのだ。
ドラコはそれに耐えられなかった。
「僕は」
ゆっくりと言う。
「お前にそんな顔を向けられるほど、落ちぶれてない」
「落ちぶれてるなんて思ってない!」
「じゃあ何だ」
「苦しんでるって思ってる」
その言葉に、ドラコは一瞬だけ黙った。
苦しんでいる。
そうだ。
でも、それを認めた瞬間に何かが決壊する気がして、ずっと認めないふりをしてきた。
「……だから何だ」
ようやくそう返すと、ハリーは今までで一番静かな声で言った。
「だから、そばにいたい」
その一言が、昼の明るい小部屋にはあまりにも似合わなかった。
夜の教室でなら、まだ受け流せたかもしれない。
でも昼の光の下で言われると、逃げ場がない。
それは夜の慰めじゃなく、もっとずっと本気の響きになる。
ドラコはそこで初めて、本当に追いつめられた。
呪文は使えない。
昼間に立っているのも危うい。
ハリーはそこを見抜いて近づいてくる。
そして、自分は夜になるとそれを受け入れてしまう。
このままでは駄目だ。
何かが本当に壊れる。
そう思っているのに、拒みきれない。
「……帰れ」
ドラコは低く言った。
「今は無理だ」
ハリーは首を振る。
「またそれだ」
声に少し苛立ちが混じる。
「君はいつも無理になると切る」
「それで、夜になると平気な顔して来る」
「僕がどうなるか、分かってるだろ」
その問いに、ドラコは答えられなかった。
分かっている。
だから苦しい。
自分はハリーを求めるくせに、その求め方へ責任を持てない。
昼の光の中では切り捨て、夜の闇の中でだけ受け入れる。
その卑怯さを、本人が一番知っている。
「お前は」
ドラコは少しだけ目を伏せる。
「何も知らないくせに」
「教えてくれないからだろ」
返す言葉は正しい。
正しいから腹が立つ。
「全部言えると思うな」
「言わなくてもいい」
ハリーはすぐに言う。
「でも、せめて一人で抱え込むなよ」
その一言に、ドラコの中で何かが切れかけた。
一人で抱え込むな。
そんなことができたら、もう少しまともだった。
誰かに頼れていたら、もう少し違った。
でもドラコはそういうふうにできていない。
その無理を、さらりと言われると、かえって胸の奥が痛む。
「……お前には無理だ」
ぽつりとそう言うと、ハリーの顔が曇る。
「何が」
「僕のことを持つのは」
それは本音だった。
ハリーは善意が強すぎる。
見捨てられない。
だから、自分みたいな壊れかけた人間をまともに受け止めようとしたら、そのうち一緒に沈む。
ドラコには、それがもう分かり始めていた。
ハリーはしばらく黙り、それから、ひどく低い声で言う。
「持てるかどうかは、僕が決める」
その返答に、ドラコはもう何も言えなかった。
この男は本当に、厄介だ。
拒まれても引かない。
説明されなくても勝手に残る。
そして、相手が弱っているほど余計に手を伸ばす。
そんなものに、これ以上近づいてはいけない。
でも、その日の夜も、ドラコは結局教室へ向かってしまった。
それが答えだった。
自分ではもうどうにもできないところまで来ている。
だからこそ、数日後、ドラコは禁書の部屋の鍵を手に取る。
そこにあるものが禁忌だと知りながら。
まともな手段ではもう追いつかないと、どこかで悟ってしまったから。
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