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およそ数分前。
「ごめんなさい、誘いたい相手がいるので」
宇佐美は誘ってくれた女性にペコリと頭を下げた。
「あら、そうでしたか」
女性はあっさりと引き下がった。
「すみません、お誘い頂いたのに」
「いえいえ、お互い楽しみましょう」
良かった、いい人だ。もう一度お辞儀をすると女性はひらひらと手を振って混みいったフロアの中 へと消えて行った。その背中を見送りながら宇佐美は佐伯の姿を追った。
「え……?」
佐伯はさっき自分が涙ぐんでいたことを忘れて宇佐美の方を見た。今、なんて?
「テツと踊ってみたかったんだよ」
宇佐美は照れ笑いしながら手を差し出してきた。夜風が吹いていた。静かにホールの演奏曲をのせてここまで届いていた。
どうしてとか、なんでとか、前に見た古い洋画とか、さっきの失恋曲のこととか、彼の隣にいるべき人のこととか色々が胸をよぎっていた。それなのに、なぜか。
導かれるようにして彼の手をとっていた。
片方の手は彼の背中へ。そうしていれば同じように彼の腕が自分の背中にまわされたのが分かる。彼の方へと目線を合わせればそれを合図にゆったりと踊りが始まる。
難しくない、単調な動き。彼に合わせてステップを踏む。いち、に、さん、し。足を進める方へと顔を向ける。
至近距離だから分かる、普段付けないような香水の香りがすること、ほんの少しだけ緊張した表情をしていること。
現実味がなかった。夢でも見ているのだろうか。手に、背中に彼の体温を感じてもこれが現実ではないような気がして。
「真っ直ぐ俺の方見て」
彼の声。彼への好意がバレてしまうかもしれないから一昨日、出来なかったこと。
でも、今なら。今だけだったら許されるんじゃないか。そんな気がした。
素直に顔を上げれば月明かりに照らされた彼が微笑んでいて、その表情が泣いてしまいそうなくらい優しくて。
急ぎ足で廊下へと出ていった宇佐美を何事かと後を追っていた周央と東堂。ホールの扉を開けるとそこは外に面した廊下だった。
「暗いね」
「うん。足元気をつけてね」
ぽつぽつと街灯はあるものの暗い。こういった造りをバルコニーというのだろうか。高さはそれほどないはずだが、空が近くに感じられる。
「あ」
東堂が小さく声を上げて足を止めた。周央が何?と言うと人差し指を立てて奥の方へと目線をやった。
東堂の目線の先を追う。
月光の下、石造りのバルコニーに2人分の影がうつる。ホールから聞こえるワルツに合わせてステップを踏む影は時折目を合わせて微笑み合っているように見える。
影の先、ダンスを踊る佐伯と宇佐美の姿があった。
ほんの少し冷たい風が2人の髪をなびかせて空へと向っていく。 まるで映画のワンシーンだ。
「…行こっか」
「そうだね」
邪魔しちゃいけない。周央と東堂は目配せし合ってその場を後にした。
ホールへの扉を開けて煌びやかなシャンデリアの光に目を細める。ホールへと戻ってきた2人。
「ねぇ、こはちゃん、踊ろ?」
「え?」
「リードしてくれるんでしょ?」
練習以前に彼女がリードしてあげるよ、と冗談めかして言っていたのを思い出して手を差し出す。
「ふふ、うん。ついてきてね」
ほんの少しのはにかんで彼女は私の手をとった。
ここは今だけ社交ダンスの会場。きっと誰と踊ったっていい。彼女と私みたいな仲の良い友達同士でも、今日初めて会う気になった相手とでも、勿論、好きな人とでも。
宇佐美は佐伯をリードするようにして控えめに聞こえる演奏に身を任せた。
華奢な背中に腕をまわし直す。こちらを見る彼の目は真っ直ぐこちらに向けられていて、擽ったくなるような温かさがあった。
きっと、さっき彼に一目惚れしたんだ。
つい先日から胸に募っていた想いはあったし、というか、この想いにもついさっき気が付いたことだけども。付き合いが長いからこの言葉を使うのは間違いで、そうは言わないのだろうけれども。今の心境を表すにはこれしか思いつかなかった。
明確に好きだとあの時思ったんだ。
手をとって、目を合わせて、一緒に踊っている今、実感している。
彼が好きだ。
会場じゃなくてここで踊ることにして良かった。あのシャンデリアの下じゃ明るすぎて顔を見られなかったかもしれないから。
今この浮ついた想いを言葉にすることは難しい。だから、彼が良いのなら気持ちを確かめるようにただ彼と手をとりあって踊っていたくて。
演奏が終わり、ホールの方から拍手が聞こえた。その音に彼はぴた、と動きを止めた。
「終わっちゃった……」
「そう、だね」
佐伯は眉尻を下げて寂しそうな顔をしていた。そんな顔しないで欲しい。 離れたくない。まだ時間が許すなら彼と居たい。だけど、終わりの時間はきてしまったから。
名残惜しく思いながら宇佐美はそっと手を離す。
一歩下って胸元に手を当てて彼に向って恭しく一礼する。
「ありがとう。楽しかった」
「…こちらこそ、ありがとうね」