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蓮の復帰を知り、一番喜んでくれたのはかつての同僚である雪之丞だった。
稽古場に顔を出した蓮を見付けた瞬間に、満面の笑顔で駆け寄って来たかと思うと、両手を広げてハグをしてきたのだ。
「おかえりなさい蓮くん!」
「わっぷ、ちょ、雪之丞! 苦しいって」
抱き着かれた勢いでよろけそうになりながらも何とか踏ん張り、背中に回された腕を引き剥がすと、今度は頭をクシャクシャになるまで撫でくりまわされる。
「おい、やめろ」
「あっ、ゴメン! また一緒に出来るんだって思ったら、嬉しくってつい……」
つい、じゃないだろう。喜んでくれるのは嬉しいが大型犬がじゃれつくような勢いで来られても困ると言うものだ。
「流石に2年もブランクがあるから、前みたいには身体が動かないと思うんだけど……。まぁ、やれるだけやってみるつもり」
とは言え、懐かしい稽古場にひとたび足を踏み入れれば、やっぱり自然と気が引き締まる。
久しぶりの感覚に思わず武者震いしそうになるのを堪え、蓮は軽く柔軟体操を始めた。
今日は手始めに何から始めたらいいだろうか? 久々だし、無理せず軽いアップをして、徐々に身体を慣らして行くのがいいかもしれない。
そんな事を考えていると、兄である凛がひょっこりと顔を覗かせた。
途端に現場の空気がピリッと緊張したのがわかる。
雪之丞に至っては蓮の後ろに隠れる様にして大きな体を縮こまらせている。
「ボク、凛さんちょっと苦手」
雪之丞の場合は、ただ単に人見知りなだけのような気がしないでもないが、周囲に居る何人かのアクター達も緊張した面持ちをしていることからも、兄のカリスマ性が伺える。
そう言えば、兄から指導を受けるのはこれが初めてだ。引退する2年前までずっと一緒にアクターとして第一線で互いにやって来ていた。意見を交換する事はあっても、こうしてマンツーマンで指導を受けたことは一度もない。
一体どんな事を言われるのだろうか? 怒られるのか? それとも呆れられてしまうのか?
様々な不安が過る中、凛が口を開いた。
「まずは蓮。お前の今の実力を見せて貰おうか」
「……え?」
予想外の言葉に蓮は思わず目を瞬かせる。
「えっと、兄さん僕は今日初めてここに来たんだ。だからまずは簡単なアップからって思ってたんだけど」
「悪いがそんな悠長な事をしている時間は無い。お前には1週間で昔の勘を取り戻してもらう。その為には今の現状を知る必要があるんだ」
「……」
一週間と言う短い期間に思わず絶句した。確かに撮影開始は目前まで迫っている。でも、だからって1週間でいきなりアクションシーンをこなせと言われても……。
「出たよ。鬼監督お得意の無茶ぶり」
「稽古がきつくて何人も逃げ出してるもんなぁ」
「実の弟にも容赦ないなんて、流石ストイック」
なんて周囲のメンバー達がヒソヒソと話をしているのを聞いて、そんな言い方はないだろう。と口を開きかけた蓮を、凛が片手で制した。
「問題ない。言いたいやつには言わせておけばいい」
「……っでも……」
「俺は出来ない奴に無理難題を押し付けたりはしない。やるなら徹底的に鍛え上げて完璧な状態で舞台に上げる。それが俺のやり方だ。文句が有るヤツは今すぐこの場から出て言ってくれても構わないんだぞ」
凛の厳しい物言いに、周りはシンと静まり返る。
「今の現状を把握するのは、お前にとっても悪い話では無いはずだ。出来る事と出来なくなってしまった事くらいはしっかりと自分で理解していないと演技以前の話になってしまう」
確かに兄の言うとりだと思った。引き受けると言った以上、中途半端なものを見せるわけにはいかない。
それに、下手な事をしてアイツに馬鹿にされるのだけは絶対に嫌だった。
「わかった。僕は何をすればいい?」
「今から10分で簡単な殺陣を覚えてもらう。手合わせはそうだな……。逢坂、お前コイツの相手をしてやってくれないか」
凛から指名され、渋々と言った様子で立ち上がったのは、先日雪之丞を探しに来ていた、少年だった。
年の頃は17、18。アクターとしては小柄で、どちらかと言えば子役か女性役が似合いそうな華奢な身体付きをしている。
カラスの濡れ羽のような黒髪に、くりっとした瞳。全体的に小作りでどこか幼さを残した顔立ちがアンバランスな色気を醸し出している。
「……どうせ嫌だって言っても、お前に拒否権は無いとか言うんでしょ? いいよ、やってあげる。でも、オレ、凛さんの弟だからって手加減しないからね?」
どこか面倒くさそうに言って軽くストレッチをしながら、蓮の側にやって来た少年は、蓮を上から下までじっくりと眺めて不敵に微笑んだ。
「凛さんの弟って言うからどんなごっついのが来るかと思ったけど、ただの優男じゃん。こんなのに今回の主役が本当につとまるわけ?」
(なんだ、このくそ生意気なガキ……。ぶち犯して啼かせてやろうか)
一瞬そんな不穏な考えが脳裏をよぎるが、蓮は必死に理性を働かせて怒りを呑み込む。
ここで感情に任せたら負けだと自分に言い聞かせ、蓮は平静を装いながらゆっくりと呼吸を整えると、真っ直ぐに相手を見据え営業スマイルを顔に張り付かせて笑ってみせた。
「はじめまして。御堂蓮です、優男でごめんね? これでも芸歴は長いから、全力で来なよ」
「ハハッ、ただのイイコちゃんって訳じゃなさそうだね。笑顔で挑発してくるなんて、なんかムカつく」
「褒めてくれてありがとう。君もなかなか良い性格してるよね。僕の事は蓮でいいから。よろしくね、逢坂くん」
差し出した蓮の手を一別すると、彼はふんっと鼻で笑ってそっぽを向いた。
「別に、褒めてないし。って言うかオレ、あんたと馴れ合うつもりはないから」
「……年上に対しての口の利き方がなってないね。……これは調教が必要かな?」
スゥっと目を細めてぼそりと呟くと、蓮の本性に気付いたのか、彼の頬が引きつるのがわかった。
「……やっぱあんたムカつく」
「ははっ、それはどうも」
「チッ」
舌打ちしながら睨み付けてくる彼を見て、蓮は内心ほくそ笑む。こう言う気の強いクソ生意気なガキは嫌いじゃない。
むしろ大好物だ。まだ何も知らなさそうな身体を弄んで、自分の好みに染め上げて行くのはきっと楽しいに決まっている。
そんな邪な妄想を脳内で繰り広げていると不穏な空気を感じ取った雪之丞が間に割って入って来た。
「ちょ、ちょっと! 蓮君なにやってんのさ。駄目だよ喧嘩は! それに東海も……凛さんに怒られちゃうよ?」
別に喧嘩をしていたわけじゃない。ちょっとクソ生意気なガキをどう教育してやろうかと考えていただけだ。
――なんて。そんな事、雪之丞に言えるわけがない。
「あぁ、ごめん。喧嘩をするつもりはないから安心しなよ。僕はそこの血気盛んな少年と一緒にしないでくれる?」
「は? 誰が血気盛んだって!?」
「君以外に誰がいるの。自覚ないの? 僕が少し煽っただけですぐにキレるなんて、沸点低すぎ。ほんと子供だな」
「もー、蓮君。駄目だってば。ほら、早く凛さんのとこ行きなよ」
もっと遊んでやりたかったが、雪之丞に制止され、渋々と凛の元へ向かった。
「で? 僕はあの子と何をすればいい?」
「随分と逢坂が気に入ったみたいだな、蓮。先日までやりたくないとごねていたとは思えないくらいノリノリじゃないか」
クツクツと笑われ、蓮は苦笑を漏らす。
「まぁ、ね。ああいう生意気な子は逆に虐めたくなるし、兄さんだってわかっててあの子と組ませたんだろう?」
兄は蓮の好みも性癖も熟知しており、どう挑発すれば効果的かもわかっている。だからこそ、あえて逢坂と手合わせさせたのだろう。
「さぁ、どうだろうな? 逢坂は去年始めたばかりだがかなりの実力者だ。動きも機敏で再現性も高い。実力は俺が保証する。同じ獅子レンジャーのアクターとして共に行動する仲間だ。力を知っておくのは悪くない」
凛は小さく笑い、一冊の台本を差し出す。
「この付箋の部分の殺陣をやってくれ。10分やるから頭に叩き込め」
「……ハハッ、10分? これ、5ページくらいあるけど?」
「お前の記憶力なら朝飯前だろう?」
「買い被り過ぎだよ。でも……兄さんが認める子なら油断できないな」
あのクソ生意気な態度が自信に裏付けされたものだとしたら、確かに侮れない。これは気を引き締めていかないと、足元を掬われてしまうかもしれない。
そう思うと同時に、久々に感じる高揚感に蓮は胸が高鳴るのを感じていた。
雪之丞を筆頭に、周囲が固唾を呑んで見守る。
蓮と東海は互いの出方を探るように、足音をほとんど立てずにじりじりと間合いを詰めていく。
稽古場の板張りの床がわずかに軋み、その音さえ緊張を煽った。
いくら台本があるとはいえ、この瞬間が一番緊張する。
子供番組とはいえ、アクションシーンにはそれなりの迫力とリアリティが必要だ。
ここで下手な動きをすれば、後で凛に怒られるのは目に見えている。
――先手必勝。
蓮が左足を一歩滑らせ、瞬間、地面を蹴った。
一直線に懐へ飛び込み、膝を軸に鋭く足を振り上げる。空気を裂く「ヒュッ」という音。
だが東海は紙一重で頭を引き、すれ違いざまにその足首を掴んだ。
「っ……!」
体勢を崩された蓮の視界がぐらりと傾き、次の瞬間、腰が浮き、背中が床に叩きつけられる。
木の床が鈍く響く音と同時に、足払いを食らい完全に仰向けに倒れた。
すかさず東海がマウントを取りに覆いかぶさる――。
蓮は寸前で両手を床につき、腰をひねってその重みをかわした。
起き上がりざまに回し蹴りを繰り出し、風を巻き起こす。かすめる寸前で東海が身を引き、二人は再び構えを取った。
「へぇ、なかなかやるじゃん。本当に当たったら痛そう。本当に2年もブランクあんの?」
「君こそ、キレはあるね。でもまだ荒削りだ。もう少し緩急をつけた方がいいんじゃないかな」
軽口を叩きながらも、視線は鋭く絡み合ったまま。
足元がわずかにずれれば、靴底が床を擦る音が静けさに響く。
何度も打ち込み、受け、かわす。
腕と脚が交差するたびに、衣擦れと呼吸音が混ざり合う。
――この逢坂という男、若いわりに想像以上の動きをしてくる。とても始めて日が浅いとは思えない。
腐ってもプロ、とでも言うべきか。
蓮の方も殺陣の基本は体に染みついていて、想像していた以上に動きは滑らかだ。
しかし体力は確実に落ちており、五分も経たないうちに肺が焼けるように熱くなってくる。
対する東海は、額どころか首筋にも汗を滲ませず、涼しい顔を保ったまま。
――これが二年の差か。
蓮は額を伝う汗を手の甲で拭い、肩で大きく息を吸い込んだ。
「なんだよ。もう息上がってんじゃん。体力なさすぎじゃない? オジサン」
馬鹿にしたように鼻で笑う声が、やけに耳に残る。
その一言で、胸の奥にチリっと火花が散った。
「僕は元々頭脳派だからね。ただの体力馬鹿と一緒にされたくないな。撮影が始まる前までには戻すから問題ないよ」
「負け惜しみ? ま、いいけど。撮影で足引っ張んないでよ?」
「ぁあ? 誰に言ってんだ、クソガキ……」
低くボソリと吐き出した瞬間、自分でもヤバいと気づく。
慌てて口角を引き上げ、作り物の笑みを貼り付けた。
幸い、東海には届かなかったらしい。
こほん、とわざとらしく咳払いを一つ。胸の奥の熱を無理やり押し込める。
「……あんまり調子に乗ってると、後で痛い目見ることになるよ?」
「はいはい、そういうのいいから。続きすんの? しないの?」
軽くあしらうような視線が、また神経を逆撫でする。
だが、ここで怒れば相手の思う壺――そう自分に言い聞かせ、爪先に力を込めて平静を装った。
「もちろん、続けるよ。さっきのは軽いウォーミングアップ」
「ふぅん。じゃ、今からが本番? いいよ、相手してあげる」
再び視線がぶつかり合い、空気が張り詰める。蓮はつま先に力を込め、一気に東海へと駆け出した。
踏み込みの音と同時に、風を裂くような打ち込み。
台本に沿った動きだが、間合いを詰める感覚や呼吸のタイミングは完全に実戦そのものだ。
「ッ……!」
東海の拳が掠める。蓮は腰を捻り、身体の反動を利用して鋭く蹴りを放つ。
「ぐっ……! ……あっぶな」
「……あれ? どうしたの? あぁ、ごめんね? 身長差考えてなかったよ」
唇の端をゆっくり吊り上げる蓮に、東海の眉間がピクリと動いた。
わずかな舌打ちが耳に届き、そこから漂う棘を感じ取る。
「ッ……あんた性格悪いね。わざと煽ってるだろ」
「それはお互い様じゃないかな?」
「はっ、言っとけよ」
再びぶつかり合う。足音と衣擦れ、息を吐き出す音が稽古場に響く。
次第に蓮の動きは滑らかさを増し、間合いの読みも正確になっていく。
元々スロースターターだが、いったん身体が馴染めば本領を発揮するタイプだ。
「はぁ……っ、はぁ……っ」
10分が経つ頃には、完全に立場が逆転していた。
終了のホイッスルが鳴り響くと同時に、二人はほぼ同時に床へ倒れ込み、天井を仰ぐ。
「あー、残念。もっとやれると思ってたのに」
「アンタ……なんなんだよ。……どんどんパンチもキックも精度上がってくし……その辺の奴らより全然身体のこなしが違うんだけど」
「なにって、ただのオジサンだけど? 君こそ持久力が足りないんじゃないか?」
額を伝う汗をシャツの裾で拭い、にっこりと笑いながら言い返す。東海は悔しそうに起き上がり、胡坐をかいて盛大に溜息を吐いた。
「……っ、やっぱアンタ性格悪……っ」
「ははは、褒め言葉として受け取っておくよ」
「あー、疲れた。マジで悔しい」
「君も中々いい動きだったよ。でも、まだ荒削りだ。そこを上手くカバーすれば、もっと良くなると僕は思うな。……あと、喧嘩を吹っ掛ける相手を間違うと、そのうち痛い目を見るよ」
額の汗を手の甲でぬぐい、にやりと口角を上げる。
悔しさを隠しきれない東海を、わざとらしく鼻で笑ってみせた。
「……っ、チッ」
東海の舌打ちが背後で響く中、蓮は背筋を伸ばし、呼吸を整える。
その視線の先には、腕を組んで見ていた凛の姿が見え、ゆっくりと蓮の方に近づいてくる。
途端に稽古場の空気が一瞬ぴりっと引き締まる。
“鬼コーチ”と呼ばれる男が動く、その一歩で場の温度が変わる――はずだった。
「なんだかんだ言って、楽しんでたみたいだな」
柔らかな声音と口元だけの笑み。その場にいたスタッフや共演者たちが、一様に目を見開く。
「……え、あの御堂さんが笑ってる?」
「マジで……?俺、初めて見たかも」
「俺も……」
まるで化け物が人間の顔を見せたかのような視線とささやき声が、稽古場のあちこちから漏れ聞こえてくる。
「……あの人でも、あんな顔するんだな」
「やっぱ、特別扱い……?」
蓮は苦笑しつつも、背筋を正して兄を迎えた。
「そう? 結構ギリギリだったよ。彼に指摘されたとおり、まだまだキレも足りないし、動きもだいぶ鈍ってきてるみたいだ」
「そうは見えなかったがな。……まぁ、でもこれで少しはやる気が出ただろう?」
「うん、まぁね」
素直に返すと、凛は片眉を上げ、さらに笑みを深めた。
「それなら良かった。お前、主役だからな。スイッチが入ってもらわないと困る」
「……あと一週間だっけ? それまでには完璧な状態に仕上げてみせるよ。そうじゃないと……馬鹿にされるのは嫌いなんだ」
先日、自分の存在を無視したナギの冷たい横顔が脳裏をよぎる。胸の奥がチリ、と熱を帯び、内心で短く舌打ちをした。
――あんな屈辱、二度と御免だ。
「期待してる」
ポンと肩に置かれた兄の手は、そのまま蓮の頭へ移動し、わしゃわしゃと容赦なく髪をかき回す。
「……あのさ、子ども扱いしないで欲しいんだけど」
「すまない。お前の頭は撫でやすくて、つい」
「つい、じゃないだろ」
凛は他人には決して見せない、柔らかな目元で笑っている。弟子や後輩には叱咤はしても情を表に出さない彼が、蓮にだけはこうだ。
その異様な光景に、雪之丞や東海でさえ言葉を失い、驚きの色を隠せない。
周囲のスタッフも小声でざわめく。
「……あの御堂さんが笑ってる」
「しかも、あんな優しそうな顔……初めて見た」
まるで氷の仮面がひび割れ、人間らしい素顔が覗いたかのような空気が広がる。
しかし蓮にとっては、それは昔から変わらない“兄”そのもの。
厳しくも頼れる存在であり、誰よりも信じられる背中だった。
嫌ではない。……嫌ではないが、もういい年齢なのだから、そろそろやめて欲しい。
一応、抗議だけはしておく。どうせ聞く気はないとわかっていても。
「……ちょっとシャワー浴びてくる」
不本意な注目を浴び、背中に突き刺さる視線がどうにも落ち着かない。
汗臭いまま兄に撫で回され続けるのも、正直あまり気分がいいものではない。
ため息まじりに立ち上がった蓮は、軽く肩を回しながら稽古場を後にした。