テラーノベル
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冬が来る頃には、異変はもう“気のせい”では済まなくなっていた。
「葵生」
葵生は玄関先で固まったまま、
じっとドアノブを見つめていた。
「……何してる」
「え、あ」
振り返った顔が、
ひどく困っている。
「鍵の開け方、分かんなくなっちゃって」
笑おうとしている。
でも、
目が笑っていなかった。
何も言わず、
葵生の手から鍵を取る。
カチャ、と音が鳴る。
たったそれだけなのに。
葵生は泣きそうな顔をした。
⸻
「最近おかしいよ。病院行ってみたら」
できるだけ軽く言ったつもりだった。
夕飯の最中。
味噌汁の湯気が、
静かに揺れている。
葵生は箸を止めた。
「え?」
「いや、なんか最近変だし」
「……変って」
「忘れ物多いし、道迷うし」
そこで言葉を切る。
本当はもっとあった。
名前を呼ばれる回数が減ったこと。
会話の途中で、
ふっと表情が止まること。
夜中に一人で泣いていたこと。
でも、
言えなかった。
「疲れてるだけかもしれないけど」
葵生は少し黙る。
それから。
「……うん」
小さく笑った。
「そうだね、行ってみる」
その笑顔が、
妙に作り物っぽく見えた。
⸻
ある日。
葵生は、
僕に何も言わなかった。
『友達とご飯行ってくる!』
そうメッセージだけ送ってきた。
深く考えなかった。
まさか、
一人で診察を受けに行っているなんて。
⸻
診察室は静かだった。
白い壁。
消毒液の匂い。
医師はカルテを見ながら、
慎重に言葉を選んでいた。
『若年性アルツハイマーの可能性があります』
葵生は、
最初意味が分からなかった。
「……え?」
『記憶障害が出ています』
『年齢を考えると珍しいケースですが——』
その後の言葉は、
ほとんど耳に入らなかった。
若年性。
アルツハイマー。
そんなの。
もっと歳を取った人の病気だと思っていた。
自分には関係ないと思っていた。
「……治るんですか」
震える声で訊く。
医師は少しだけ目を伏せた。
その瞬間。
全部分かった。
⸻
帰り道。
葵生は駅のホームで、
しばらく動けなかった。
人が通る。
電車が来る。
アナウンスが流れる。
世界は普通に進んでいるのに。
自分だけ、
取り残されたみたいだった。
スマホが震える。
『今日帰り遅い?』
零司からだった。
画面を見た瞬間。
涙が落ちる。
怖かった。
忘れていくのが。
零司のことを、
分からなくなるのが。
でも。
もっと怖かったのは。
“可哀想な存在”として見られることだった。
同情されるのも、
気を遣われるのも嫌だった。
零司は優しいから。
きっと、
夢も時間も全部削って、
自分を支えようとしてしまう。
そんなの嫌だった。
葵生は涙を拭く。
震える指で返信を打つ。
『今日は友達とご飯!』
『遅くなるかも!』
送信。
その後。
ホームのガラスに映った自分を見て、
葵生は小さく呟いた。
「……どうしよう」
誰にも聞こえない声だった。
コメント
1件
第5話、読み終えました。診断の場面での静かな絶望感と、零司には知られたくないという葵生の気持ちの描写が非常に丁寧で、胸が締め付けられました。特に、ホームでスマホを見ながら「可哀想な存在」になることを怖がる心情には、強いリアリティがあります。まだ5話とのこと、これから零司がどう気付き、二人の関係がどう変わっていくのか。設定の巧みさより、感情の積み重ねが印象的な回でした。続きを楽しみにしています。