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今中希美
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みら

923
#魔法使い
MOCHI076
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王都の城門が見えたのは、昼前のことだった。
空は、重く曇っていた。
夜明けに降りだした細かな雨が、まだ石畳を濡らしている。
仁人は、深く頭巾を被り、外套の襟を立てたまま、城門へと続く人の列に並んでいた。
隣には、勇斗がいた。
荷を担いだ旅の商人のような装いで、仁人の半歩後ろに立っている。
この日は、王都の復興祭だった。
戦で亡くなった者たちを悼む慰霊の祭礼を兼ねて、数日前から、遠方の村々からも、人が集まってきている。人の波に紛れて入れば、咎められることはまずない。
船の上で、勇斗がそう言った。
城門の手前で、仁人は、思わず足を止めた。
門の脇の石壁に、黒く焦げた痕が、大きく残っていた。
修復の足場が組まれ、職人たちが、槌の音を響かせている。
崩れた石積みの隙間は、新しい石で、丁寧に埋められつつあった。
その傍らを、赤と黒の軍装をした兵が、一人、通りかかった。
仁人は、無意識に身を固くした。
けれど、その兵は、荷車を押す老婆の車輪が泥にはまっているのを見て、黙って後ろへ回り、肩で押し出した。老婆が礼を言うと、兵は、無言で頷いて、そのまま歩き去った。
それだけの、光景だった。
それなのに、仁人は、胸の奥が、じわりと熱くなるのを感じた。
門をくぐると、王都の匂いが、ふわりと迎えた。
焼いた麺麭と、蜂蜜と、湿った石と、葡萄の蔓の匂い。あの匂いだった。
大通りには、市が立っていた。
壊れた屋根には新しい梁が渡され、焼け落ちた店の跡には、仮の天幕が張られている。
痛みは、確かに、残っていた。
けれど、通りを行き交う人々は、いつものように声を張り上げて値を競い、子どもたちが、水たまりを避けながら駆けていく。寺院の壁には、白い蛇の意匠が、変わらず、静かに彫り込まれていた。
役所の前では、見覚えのある旧臣の一人が、赤と黒の官吏と並んで、帳簿を覗き込んでいる。
命じられて従っている、というより、互いに、意見を交わしているように見えた。
仁人は、人波の中で、立ち尽くした。
壊れた国を、想像していた。
更地になった都を。泣き叫ぶ人々を。
自分が、この手で滅ぼしたものの、残骸を。
そこにあったのは、傷を負いながら、それでも、昨日の続きを生きている都だった。
「……変わって、ないんですね」
仁人は、小さな声で言った。
「全部じゃない。でも、思っていたより、ずっと」
「ああ」
勇斗が、隣で、静かに頷いた。
祭礼の日の王宮は、一部が、民に開かれていた。
正門から続く長い回廊に、参拝の列ができている。
先々代の女王を悼む者たちが、花や小さな灯火を手に、静かに進んでいく。
その先にあるのは、母の眠る場所――静けさの間だった。
仁人は、列の中ほどに紛れて、歩を進めた。
足が、震えた。
この回廊を、何度、駆け抜けただろう。
幼い頃は、兄の後ろを追いかけて。
長じてからは、一人きりで、書庫へ向かって。
そのすべての記憶が、石の冷たさと一緒に、足の裏から昇ってくる。
列が詰まって、足を止めたとき、仁人は、後ろを振り返った。
勇斗が、いた。
一歩ほどの距離を置いて、頭巾の影から、こちらを見ている。
目が合うと、勇斗は、小さく頷いた。
それだけで、仁人は、また前を向けた。
静けさの間の扉は、開かれていた。
両脇に、赤と黒の軍装の兵が、二人、直立している。
槍は、床に伏せられ、その表情は、神妙だった。
参拝の者が通るたびに、兵たちは、深く頭を垂れた。
扉の彫刻に、白い蛇が、巻きついていた。
蜷局を巻き、静かに頭をもたげた、あの蛇だった。
中は、薄暗く、静謐だった。
母の眠る台座の周りに、白い花が、幾重にも手向けられている。
灯火が、絶えることなく、燃えていた。
埃ひとつ、積もっていない。誰かが、毎日、ここを掃き清めているのだ。
誰かが、丁寧に、守っていた。
仁人は、列の流れの中で、母の台座の前に、そっと、膝をついた。
頭巾の影の中で、唇だけを動かす。
――母上。僕は、あなたの遺した国を、守れませんでした。
声には、ならなかった。けれど、言葉は、胸の底から静かに溢れてきた。
――でも、この国は、まだあります。僕が、いなくなっても。
不思議な感覚だった。
胸を刺すはずの言葉が、刺さらなかった。
ただ、すとん、と腹の底に落ちた。
僕がいなくても、母上は、こうして、花に囲まれている。
民は、悼んでくれている。
背後で、気配が、止まった。
勇斗が、仁人の斜め後ろで、同じように、膝をついていた。
何も言わず、ただ、台座に、深く頭を垂れている。
その背中を見て、仁人は、胸の奥が、じんと痺れた。
兄上の言葉を、思い出した。
お前には、お前のやり方がある。私と同じである必要はない。
母上が、もし、ここにいたなら。
仁人は、そっと、目を閉じた。
裏庭へは、使用人の通用口を使った。
勇斗が、先に立って、案内した。
かつて王の側近だった頃に、幾度となく、仁人の私室と書庫を行き来するために使った道だった。
戦後の混乱で、警備は、表の回廊に集中している。
裏手には、荷を運ぶ人夫が、復興の資材を抱えて、ひっきりなしに出入りしていた。
籠を担いだ勇斗と、それに従う仁人は、その流れに自然に紛れた。
やがて、人気のない一角に出た。
伸びた蔓薔薇が、石壁を覆っている。
刈り込まれることのないまま、棘だらけの枝が、あちこちに垂れていた。
朝の雨で、葉という葉が、濡れて光っている。
その奥に、古びた木のベンチが、あった。
雨は、いつの間にか、上がっていた。
厚い雲の切れ間から、細い光が、斜めに差し込んでいる。
ベンチの背も座面も、雫を湛えて、きらきらと光を返していた。
仁人は、ベンチの前で、立ち止まった。
戴冠の夜が、蘇った。
冠を外して、一人で座っていた。
雨に打たれながら、僕には無理だと泣いていた。
そこへ、勇斗が、駆けつけてきた。
仁人は、ベンチに腰を下ろした。
勇斗は、同じように、隣に腰を下ろした。
しばらく、二人は、何も言わなかった。
蔓薔薇の葉から、雫が、ぽつり、ぽつりと落ちる。
「夢を、見たんだ」
勇斗が、ぽつりと言った。
「追放されて、荒野にいた頃。雨の中を、ここへ戻って、お前が一人で泣いているのを、見つけた。走って、手を伸ばして、あと少しで触れるところで、目が覚めた」
仁人は、勇斗の横顔を見た。
「今は、触れられる」
勇斗は、そう言って、仁人の濡れた手に、自分の手を重ねた。
仁人は、その手を、握り返した。
冷たく濡れた指の間に、確かな体温があった。
「僕も、ずっと、思っていました」
仁人は、庭の奥の、薔薇の影を見つめながら言った。
「僕は、王でなければ、何者でもなくなる、と。王族たるもの、王たるもの、と。いつも、そう思って、自分を縛っていました。この国が壊れたら、僕の存在も、一緒に壊れるのだと」
言葉を、ひとつずつ、手繰るように続けた。
「でも、僕がいなくなっても、この都は、ちゃんと、動いていました。市場は開いて、職人は槌を振るって、母上の部屋には、花が手向けられていた。僕が、いなくても、世界は、続いていた」
「仁人」
「それが、悲しいのではなくて。……ひどく、ほっとしたんです」
仁人は、少し、笑った。
「縛っていたのは、誰だったんでしょうね。兄上でも、母上でも、家臣たちでも、なくて。僕自身、だったのかもしれません」
勇斗は、何も言わず、握った手に力を込めた。
やがて、仁人は、懐から、一枚の紙を取り出した。
船の上で、何度も眺めた、あの詩の下書きだった。
最後の一行は、まだ、空白のままだった。
「ここに来れば、書けるかもしれないと、思っていたんです」
「書けそうか」
「……まだ、です」
仁人は、紙を、そっと畳んだ。
「でも、もう少しで、書ける気がします。……きっと」
勇斗は、頷いた。
「待ってる」
ふと、仁人が、顔を上げた。
蔓薔薇の向こう、遠くから、楽の音が、かすかに流れてくる。
広場で、祭りの余興が、始まったのだろう。
仁人の目が、その方角を、じっと見つめた。
「勇斗」
「ああ」
「広場に、行きたいです」
二人は、立ち上がった。
広場は、人で、溢れていた。
勇斗は、群衆の最後列、広場を囲む柱廊の影から、仁人の背中を見送った。
石畳の中央には、輪になった民が、足を踏み鳴らしていた。
難民の一行が踊っていた、あの素朴な輪舞と同じ踊りだ。
老人も、若者も、子どもも、手を取り合って、ゆっくりと回っている。
傍らでは、楽師たちが、三弦と太鼓を鳴らしていた。
仁人は、外套の留め具を外した。
勇斗は、思わず、息を呑んだ。
頭巾を取り、外套を、勇斗に預ける。
簡素な旅の衣のまま、仁人は、輪の外から、一歩、石畳の上へ踏み出した。
楽師の一人が、仁人に気づいた。
その視線に、仁人は、小さく、頷き返した。
楽師は、戸惑ったように、弦に指を置いた。
そして、仁人の呼吸に合わせるように、音の速さを、ほんの少しだけ、緩めた。
仁人が、袖を、翻した。
その瞬間、広場の空気が、変わった。
民の輪舞の、土の匂いのする足拍子の上に、稽古場で磨かれた、研ぎ澄まされた動きが、静かに、重なっていく。
袖が描く弧の一つひとつが、迷いなく、美しかった。
風が、そこで、形を変えるようだった。
足を止める者がいた。手拍子を止める者がいた。
踊っていた輪が、いつの間にか、囲むように、ゆるやかにほどけていく。
勇斗は、柱の影から、ただ、見つめていた。
出会った日の、稽古場が重なった。
楽師に、半拍遅い、と言い放っていた、あの少年。
納得がいくまで、何度でも、最初から舞い直していた、妥協のない横顔。
あの頃の、あの舞が、今、ここで、息をしている。
舞が、終わりに近づく。
仁人が、袖を引きながら、くるりと身を翻した。
その顔が、柱廊の方を、向いた。
仁人は、群衆の向こうに、勇斗の姿を見つけた。
そして、笑った。
飾らない、自然な、少年のような笑みだった。
王として人前に出るために作られた、能面のような顔ではなかった。
稽古場で、乗馬の稽古で落馬しかけて、顔を真っ赤にして怒っていた頃と、同じ笑みだった。
勇斗は、胸の奥を、強く掴まれたような気がした。
最後の一拍が、静寂の中に、溶けた。
仁人は、深く、一礼した。
一瞬の、静けさがあった。
それから、広場全体が、割れるような拍手に、包まれた。
誰かが、「今の舞は」と呟く声が聞こえた。
「あの型は、宮廷の」「まさか」「亡くなった王の」――ざわめきが、波のように、広がっていく。
仁人は、顔を上げた。
その瞳が、ほんの一瞬、人々のざわめきを映して揺れた。
勇斗は、動いた。
人の波を、すり抜けて、仁人の元へ駆け寄ると、預かっていた外套を、その肩に掛けた。
「行くぞ」
「はい」
勇斗は、仁人の手を取って、人波の間を縫って歩き出した。
背後で、まだ、歓声が続いている。
勇斗は、一度だけ、振り返った。
仁人が、ちゃんと、そこにいた。
手を引かれて、少し息を弾ませながら、それでも、確かな足取りで、ついてきていた。
太智が、その噂を耳にしたのは、広場の外れで、兵の配置を見回っていたときだった。
「宮廷の舞だったってよ」
「いや、あれは、亡くなった王様じゃないか」
「馬鹿言え、古都で亡くなったんだろう」
人々の話し声が、あちこちから聞こえてくる。
太智は、眉を寄せて、広場へ急いだ。
祭りの混雑で、思うように進めない。
人垣をかき分けて、ようやく中央にたどり着いたとき、そこにはもう、舞い手の姿はなかった。
「どんな人やった。顔は、見たんか」
近くにいた老婆に尋ねると、老婆は、首を傾げた。
「頭巾を被ってたからねえ。ただ、とても綺麗な舞だったよ。それと、笑ってたね、最後。あんなに、嬉しそうに笑う人は、見たことがない」
太智は、礼を言って、その場を離れた。
亡き王の顔は、知らない。
誰かの悪戯か、真似事か、そう考えるのが、筋だった。
けれど、広場の隅、柱廊の方角へ視線を向けたとき、太智は息を止めた。
人波の向こう、柱廊の出口の近くを、二つの背中が歩いていく。
一人は、外套を頭からすっぽりと被った、小柄な背中だった。
顔は、見えない。
その隣を歩く男が、ふと、足を止めて、後ろを振り返った。
その横顔に、太智は、見覚えがあった。
遠い昔、赤色の国の市場で、舜太を助けてくれた少年。
年を重ねても、その眼差しの優しさだけは、変わっていなかった。
「……勇斗、様」
声が、掠れた。
亡くなったはずの人が、そこにいた。
勇斗は、後ろを歩く外套の人物が、ちゃんとついてきていることを確かめるように、振り返っていた。
そして、その人物の姿を認めた途端、その顔が、ふっと、緩んだ。
それは、太智が、これまで一度も見たことのない顔だった。
穏やかで、安堵に満ちて、ただ、愛おしいものを見ている人の、顔だった。
太智は、声をかけようとして、やめた。
二つの背中が、人混みに溶けていくのを、ただ、見送った。
外套の人が、仁人という人なのかどうかは、分からなかった。
それでも、一つだけ、確かなことがあった。
あの人は、生きている。
そして、この都は、あの人が笑って歩けるほどには、穏やかになっている。
これを、一番に伝えなければならない人たちが、王宮にいる。
太智は、人混みを抜けて、王宮へ急いだ。
コメント
1件
もう、読んでてずっと泣きそうだった……。 仁人が「僕がいなくても世界は続いていた」って気づくあたり、めちゃくちゃ刺さった。自分を縛ってたのは自分自身だったんだなって。 最後の広場の舞、あの自然な笑顔を見た瞬間、勇斗と同じで胸がぎゅっとなったわ。太智が見逃してくれたのも優しいなあ。 傷跡は残ってるけど、それでも前に進もうとしてる王都の描写がすごく綺麗だった。 続きも読みたいです!