翌日、私は退院することになった。術後の経過はあまりいいものではないけれど、産科に入院する方が精神的に辛く、多分私が壊れてしまうだろうから入院継続は辞退した。ここは子供専用の病院なので、少し特殊だから産科以外大人の病床はない。
退院後は詩音の死亡手続きと火葬に向かう。
病院側で用意してくれた『エンゼルボックス』(ご遺体を入れる専用の棺)というものに詩音を寝かせた。
赤ちゃんの急逝というのは病院では隣り合わせのため、不測の事態にも対応が出来るようになっているので用意周到だった。出産というのは母子ともに命がけなのだ。用意のよさが却ってそのことを物語っていた。
昨日は詩音と二人きりで過ごした。最後の夜、病院側の配慮で一緒の部屋で眠ることができた。
新藤さんには帰ってもらい、詩音と過ごした。
その日の夜は母乳が出なくなる薬を渡された。身体は母親になったから、その名残は体に残ってしまうのだ。放っておくと精神的にも肉体的にも辛い。
まだ母乳がでるうちに少し絞って詩音の口に含ませた。残りはエンゼルボックスに入れるため、ガーゼに含ませて保存した。
薬を飲むのは躊躇った。これを飲んだら完全に母乳が出なくなる。あれだけパンパンで岩のように固まってしまった胸は、もう母乳を出せなくなってしまう。
詩音の傍で泣きながら薬を飲んだ。飲まなければ余計に辛いだけ。
この世の地獄を体感した。
詩音の沐浴もした。二階堂さんが沐浴用のお風呂容器を用意してくれたのだ。おかげで自分の手で、わが子をきれいにすることができた。
この広くて白い部屋に救われた。他の病室ではできないことができたのだ。
家族にも知らせることが出来なくて、全部勝手に一人で決めてしまった。
光貴のために。ライブを成功させるために。
みんなの分まで私が詩音を見送るから。
ごめんねー―
「おはようございます。体調はいかがでしょうか?」
「新藤さん、ご足労頂きありがとうございます。ご迷惑をお掛けしてしまって本当にすみません」
「私はなにもしていませんよ。お辛い中頑張っておられるのは律さん、あなただ」
新藤さんは私の気持ちをわかってくれる。こんな無謀なことをしようとしている私の唯一で絶対の味方でいてくれるのだ。ありがたい存在。本当に救われる。
「お子様に花を手向けてもよろしいでしょうか?」
「ありがとうございます。ぜひよろしくお願いします」
新藤さんはたくさんの花を持参してくれた。花を買いに行くことができない私の代わりに用意してくれたのだろう。白い花を詩音のエンゼルボックスの中に入れた。美しく飾られたわが子は苦しむ顔ではなく、安らかに眠っていた。それだけが唯一の救いだった。
退院手続きを取り、病院を後にした。最後までお世話になった二階堂さんが見送ってくれた。私をたくさん慰めてくれた優しい人。彼女が寄り添ってくれたことが、ひとりぼっちの私の胸に沁みた。
新藤さんが運転する高級車に乗って、まずは区役所で手続きをした。感情を殺して淡々と書類を渡して記入する。病院でもらった死亡診断書を出して死亡届の手続きを行った。死体火埋葬許可申請をして書類をもらう。一連の流れ作業は煩雑で悲しむ時間を作らないシステムなのかと思った。
そして私はこれから修羅の道をいく。覚悟を決めなければならない。
私がやろうとしていることは、恐らく誰にも理解してもらえない非道なこと。
本当に光貴のためになるかどうかもわからない。
しかし自分の信じた道をゆく。
私が光貴の分まで詩音を見送るから。
だから遠くの空から、光貴のライブの成功を見届けてね、詩音。
受付を済ませ、予約した十一時の順番を待合ロビーで待った。待っている間、ただ時間が過ぎるのを無言で過ごした。
名前を呼ばれ、沢山の火葬炉が並んでいる専用の部屋に案内された。棺の中の詩音に間違いが無いか確認を行った。
お別れを言いながら詩音の頬を撫でていると、ポタポタと自分の涙が零れて詩音の小さな頬を濡らした。
さよならをしようと思って、最後に詩音の顔を見た時。
詩音の目じりにうっすら涙が滲んでいるように見えた。
まるで泣いている私に、応えるかのように。
「詩音っ!! 生きてるのっ!? ねえっ、どうして目を閉じてるのっ! 起きてっ、ねえ、おきて……」
そんな奇跡が都合よく起こるわけがない。
止まった心臓が再び動くなんて絵空事だ。
でも、縋りつかずにいられなかった。
火葬してしまったら最後。亡骸とお別れして焼いてしまったら、もう二度と詩音には会えない。
「詩音っ、まだ間に合うからっ!! 目、覚ましてよおっ! うわあぁあぁ――――っ!!」
静かな火葬炉がいくつも並んでいる空間内に、私の半狂乱の悲鳴がこだました。
泣き叫ぶ私を抱きしめ、落ち着いて下さい、と声を掛けてくれたのは新藤さんだった。