「美味しそうなエビフライですね」
そんな風に京平に褒められた浅子は、更にエビフライを揚げ、ご飯を盛り。
なんとなく自然に、京平ものぞみと並んでご飯を食べていた。
京平が今は、のぞみの勤めている会社で専務をやっていると聞いた浅子は、そうなんですか、と頷き、言った。
「先生、ご実家に戻られて、専務さんに。
いい先生だったのに、なんでまた」
なんでまた、の答えを京平は微笑んで語らない。
語りたくないなにかがあるんだな……、とのぞみは思った。
たぶん、この間の樫山とのやりとりみたいな負けず嫌いが発動して、今、専務として、此処に居るのだろう。
食事が終わる頃には、のぞみの学生時代の話になっていた。
「いやー、坂下は遅刻が多くてねー。
電車でも滅多に見かけませんでしたね」
そういえば、同じ電車だったな……。
なにか嫌な展開になりそうだ、と身構えながら、のぞみは千切りのキャベツを齧っていた。
「私が朝、教室に行こうと、一階の渡り廊下を歩いていたら、坂下が渡り廊下の柵を乗り越えようとしてたんですよ」
ああ、その一件は覚えている、とのぞみは思った。
遅刻しそうなので、渡り廊下の柵を乗り越えようとした。
そこが教室への一番の近道だったからだ。
結構みんな利用していたので、さりげなく、踏み台がわりの椅子も置いてあったりした。
しかし、その日、のぞみが柵を乗り越えようとしたとき、ちょうど隣の校舎から京平が現れてしまった。
「なにをしている?」
と京平に訊かれた、のぞみは柵にまたがったまま答えた。
「柵を乗り越えています」
他に言いようがなかったからだ。
「……何故、柵を乗り越える必要がある?」
「遅刻しそうだからです」
一瞬、沈黙した京平が、
「そうか」
と言ったので、オッケーなのだろうと思い、そのまま、渡り廊下に降り、教室へと入っていた。
その後、なにも言われることはなかった。
だが、京平は今になって言ってくる。
「開いた口が塞がらないとはあのことですよ」
貴方は何故、もう時効な話を今、始めるのですか。
やはり、この人とは再会しなければよかったな、とのぞみは思っていた。
無理やり、結婚しろと言われたときよりも。
こんなところで、過去の悪事が露呈するとは……と思いながら、
「先生」
とのぞみは反論してみる。
「あのですね。
生徒の立場から言わせてもらいますと。
毎朝、出席番号順に名前を呼ぶの、やめていただきたいんですが」
ずるいじゃないですか、とのぞみは訴える。
「坂下は早いんですよ。
渡辺さんとじゃ、全然呼ばれる時間が違いますっ」
名前を呼ばれたときに、はい、と言うのが間に合えば、遅刻扱いにはならなかったのだ。
いや、せいぜい三、四分だろ、という顔を京平はするが、朝の三分は、他の時間帯の三時間に匹敵すると思う。
もう二度と登校することもなければ、出席を取ることもないのに、延々と二人で揉めているうちに、最初は京平の登場に驚いていただけの母も正気に返ってきたらしく。
そういえば、先生が専務になったのはわかったけど、何故、うちに? という顔をし始めた。
それに気づいたように、京平がちょうど話の途切れたところで、浅子に言った。
「あのところで――」
そこで、さすがの京平も一瞬、つまる。
どんなことでも、そつなくこなす男だが、プロポーズはまだしたことがなかったせいだろうか。
京平は軽く言い淀んだあとで、浅子を見つめ、
「ところで、娘さんをください」
と言ってきた。
いや、ところでにも程がある……。
あとで、珈琲でも持っていきます、と言われ、のぞみも京平も二階ののぞみの部屋にやられていた。
「何故ですかってなんだろうな。
さすがはお前の親だな」
と京平は言ってくる。
京平に、
「ところで、娘さんをください」
と言われた浅子は驚いたように目を見開き、
「えっ?
何故ですか?」
と言ってきたのだ。
いや……どっちもどっちですよ、と思っているうちに、浅子が珈琲を持ってくる。
「ごゆっくり~」
ほほほほほ、と不気味な笑いを浮かべ、浅子は部屋を去っていった。
閉まった扉を見ながら、京平が言う。
「親自ら、密室に二人きりにするとか、どういうつもりなんだろうな」
いや、どういうつもりでもないと思いますよ……。
「あれは、お前を早く嫁に出したいという顔だ」
どんな顔ですか。
真っ白なラグの上に正座していた京平はこちらに膝を向け、
「俺の計画だと、ご両親に挨拶する前に、キスのひとつもしておくはずだったんだが」
と言ってくる。
いや、だから、その妙な計画通りに動こうとするのはやめてください、と思っていると、京平は膝で立ち上がり、のぞみの顎に手をかけてくる。
「ちょ、ちょっとやめてくださいっ。
下に家族が居ますしっ」
と身をよじって、その手を振りほどこうとしたのだが、京平は、
「いや、助けを呼んでも無駄だ。
お前の家族はお前を助けには来ない」
と貴様は何処の悪党だ、と問いたくなるようなことを言ってくる。
「お前が悲鳴を上げても、きっとお母さんは来ない。
なにせ、お母さん自ら、お前と俺を此処で二人きりにし、ドアを閉めていったんだからな。
俺のやりたい放題にしてもいいと言うことだろう」
ち、違うと思いますよ……と青ざめるのぞみの抵抗しようとした手を握って抑え、京平は言ってくる。
「もう観念しろ。
行くぞ」
行くぞってなんだ……?
はい、と言うのも変なので黙っていたが、いつまで経っても、京平はキスして来ない。
なので、のぞみはただ、京平に手を握られたまま、間近にある京平の顔を見つめていた。
そのうち、
「ただいま。
誰か来てるのか?」
という父親の声がした。
その瞬間、パッと京平は手を離した。
立ち上がり、
「……命拾いしたな」
と殺す気だったのか……? と問いたくなるような捨て台詞を放ったあとで、京平は自分でドアを開けて出ていった。
下で、父親と話す声が聞こえてくる。
……お、お父さんが怖いからやめたのだろうか?
いや、その前から、動かなかったよな……と思ったまま、座り込んでいると、母親が下から、のぞみを呼んできた。
「なにしてんの、あんた。
早く来なさいーっ」
は、はーい、と慌てて立ち上がったが、足がしびれていた。
のぞみは、ちょっとよろけながら、ノブをつかみ、なんとか部屋を出る。