病院の雰囲気は何度来ても慣れないと言う人も多いが、麗は病院という空間にはもう何も感じない。
「こんばんは、夜分遅くすみません」
「……今なら少しお話できますよ」
夜勤なのだろう、病室のベッドに横たわる父の傍にはムキムキの看護師がいて、麗を見てやっぱり心配そうな顔をした。
きっと、麗が危篤の父に暴言を吐かないか案じているのだろう。
「ありがとうございます」
麗は頭を下げた。横にいる明彦も頭を下げてくれたが、明彦は無言で、麗の背中を優しく押した。
躊躇っている麗に行けと伝えているのだ。
「あら、麗ちゃん。来ていたのね」
後ろからいつもの穏やかな継母の声が聞こえて、麗は振り向いた。
「お母様」
「下の売店がもう閉まってたからコンビニまで行ってたの。二人がわざわざ旅先から帰ってきてくれたのを知っていたら、飲み物でも買ってきたんだけど」
こんな時でも継母は美しい。落ち着いた柄の着物を着て、綺麗に髪を纏めている。
「こんばんは、お義母さん。どうぞお気遣いなく」
明彦が継母の相手をしてくれ、麗はゆっくりと父に近寄った。
父の体には鼻や腕から、沢山の管が繋がっている。
細い体。こんなに痩せていたのか。
「ゆ、り」
父は麗を母と間違えた。
もうほとんど意識がないのか、記憶が混濁しているのかもしれない。それとも、母が迎えに来たのだと思っているのか。
継母が嫌な思いをしていないか心配して振り向いたが、姉と連絡を取れたと伝える明彦とにこやかな笑みすら浮かべ話している。
継母はいつだって麗に優しい。
姉に初めて佐橋の家に連れてきてもらい、住まわせてもらうことになったとき、正妻である継母にどんな風に罵られるかと戦々恐々としていたのに、拍子抜けしたほどに。
だが、麗はいつも継母といると、昔、テレビで見た慈愛に満ちた修道女の「愛の反対は憎しみではない、無関心だ」という言葉を思い出す。
こんなに美しい妻がいるのに、父が愛人を作る理由には麗でも察しがつくくらいには、継母は父に一切興味がなかった。
継母は姉曰く、没落した旧華族の令嬢で、家柄目当ての祖母と援助目当ての継母の親の間で利害が一致し、継母の親の命令通りに父に嫁いだそうだ。
子供を産んだ後は自由とばかりに趣味に精を出し、家事はお手伝いさんに任せ、料理教室に通ってはいるが、あくまで趣味で家族のためではない。
姉の事は愛しているようだが、継母は父に対して常に無関心だった。
まさしくATMと言っていい。父に愛人がいようが、愛人の娘が登場しようが、また新しい愛人を作ろうが、一切気にも止めていない。
愛人の娘の麗に対しても、関心を抱く対象ではなく、ただの他人だから優しくされているように感じる。
そんな継母は今、いよいよ来る自由のときに向け、瞳を爛々と輝かせている。
(ああ、この夫婦には本当に情の欠片もなかったんだな)
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