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沙羅は慶太の袖口を掴んだまま、通りを歩きだした。
初秋の夜風に優しく頬を撫でられ、お酒のせいか気持ちがふわふわしている。
「仕事は見つかった?」
問いかけられて、顔を上げる。するに、以前と変わらない瞳で見つめられた。
まだ、慶太から愛されているのではないかと期待が膨らみ、沙羅の心臓の鼓動はトクトクと早く動き出す。
沙羅は赤くなった頬を隠すように、視線をライトアップされた街並みへ移した。
「うん、真理の紹介でハウスクリーニングの会社に雇ってもらえたおかげで、娘とふたりで生活できるようになったの」
「そう、良かった」
「あの……」
慶太はどうしていたの。っと、言いそうになり、沙羅はハッとして口をつぐむ。
そんな事を言ったら、聞きたくもない現実を突きつけられるのだ。
でも、会いたかったと言ったら、会いたかったと慶太も言ってくれた。
その意味は、同じなはず……。
昨日、銀座で見た事を慶太に言ったら、どんな答えが返ってくるのだろうか。
慶太と一緒にいた綺麗な女性、ふたりは仲が良さそうに見えた。それに、あの高級店で自然な振る舞いは、それ相応の生活をしてきたのだ。
自分とは、かけ離れた暮らしぶりを感じてしまう。
それこそ、以前、高良聡子が言っていた”然るべき所”のお嬢様なのだろう。
確かめたいのに沙羅には、聡子に言われた言葉が呪縛のように、今も心を締め付け勇気が出ない。
言いかけて固まる沙羅の顔を慶太が心配そうに覗き込む。
「どうしたの?」
あの店に沙羅が居た事を慶太は知らない。
このまま、何も知らないフリをして、慶太と一緒に居たいと思ってしまうのは、最低だ。
それでも、この手を離したくない。
「ううん、何でも無いの」
「そう? 何か言いかけていたよね」
自分の中にある黒い感情に、沙羅はゾワッと背筋が寒くなる。
不倫で散々な思いをしたのに、何を考えているのか、 婚約者の居る人となんて、不貞になってしまうのに……。
それに、慶太に婚約者が居るなら、その婚約者を悲しませるような真似をする慶太ではないはずだ。
沙羅は、さっき言いかけた言葉を口にした。
「慶太は……あれから、どうしていたのか、気になっただけだったから……聞いていいのか戸惑ちゃって……」
もしも、慶太が婚約したのなら隠さず話してくれるはずだ。
「俺? 相変わらず、仕事ばっかりだよ。東京へ来たのも仕事絡みなんだ 」
そう言って、慶太は苦笑する。
返事の中に婚約の話しが無くて、沙羅はホッと胸を撫で下ろした。
「相変わらず忙しそうだね」
「でも、東京に来たら沙羅に会えるかもって期待していたんだ。会えて良かった」
「私も……忘れてなんて言ったのに、慶太に忘れられていたらと思うと、悲しかった。ずっと、会いたかったの。慶太に抱きしめて欲しい、慶太に触れたい」
ずっと、心に溜めていた後悔と慶太への想いを素直に吐き出す。
「沙羅……おいで」
慶太が広げた腕の中へ、沙羅は足を踏み出し身を寄せた。
優しく包み込まれ、そっと瞼を閉じる。
慶太から爽やかな柑橘系の香りが鼻腔をくすぐる。
あの日と変わらない慶太の香りだ。
「慶太……私、このまま、一緒に居たい」
縋るように慶太の腰に回した腕に力を込め、広い胸に顔を寄せた。
「ん、いいよ。どこかのお店で飲み直す?」
「……ふたりきりになれる場所がいい。抱いて欲しいの」
慶太の熱を感じて、何も考えずに抱き合い、心の奥底に燻り続ける不安の種を消して欲しかった。
慶太の大きな手が、ゆっくりと沙羅の髪を梳く。
「わかった。部屋を取ろう」
六本木駅直結のホテルは、優雅な贅沢を味わえる誰もが憧れる宿泊施設だ。
高層階のお部屋からは、東京の煌めく夜景が見下ろせる。
その、夜景を堪能することなく、部屋のドアを閉じるなり、沙羅は慶太の首に腕を絡めた。
「沙羅、どうした……」
慶太の問い掛けを遮るように、唇を重ねる。
沙羅らしく無い性急な行動に、慶太は戸惑いながら、沙羅からの口吻に応えた。
静かなデラックスルームの中に、鼻から抜ける甘い声が溶けていく。
沙羅は自分から舌を差し入れ、不安を埋めるように慶太を欲しがった。
やがて、そっと唇が離れていく。
慶太の腕の中に居る沙羅は、熱い口吻を交わしたばかりなのに、今にも泣き出しそうな顔をしている。
「慶太……好き。慶太が好きなの」
切羽詰まった様子の沙羅を落ち着かせるように、慶太は沙羅を抱きしめる腕に力を込めた。
「沙羅、俺も好きだよ、愛している。俺が出来る事なら何でもする。だから、何か不安があるなら教えて欲しい」
込み上げる感情が溢れ出し、沙羅の胸は痛む。
慶太が好き。だけど、身寄りも無い、バツイチ子持ちの自分が、慶太に似つかわしくない事ぐらい誰よりも知っている。
慶太に何を言えばいいのだろうか。
「慶太……」
大人になった今だからこそ、好きという気持ちだけでハッピーエンドにならないと気づいている。
「慶太にずっと会いたかったの。抱きしめて欲しかった。でも、私じゃ……迷惑になると思って、連絡も出来なくて……」
「うん、俺も沙羅に会いたかった。この腕に抱きしめたいと思っていた。迷惑になんてならないから、連絡して欲しかった」
慶太も同じように思ってくれていた。それだけで、心が震える。
「でも、慶太には私じゃダメだって……。だから、あきらめないといけないと思っているのに……ごめんね。でも……好きなの」
過去、心の奥底に植え付けられたコンプレックスが、沙羅を動揺させていた。
溢れる気持ちを無理に押さえつけ蓋をしようとすると、代わりに涙がこぼれだす。
刹那的に慶太を求めても、恋しさが増すばかりで、胸の苦しみは無くならない。
後ろ向きな言葉を吐き出す沙羅を慶太は抱きしめ続け、慰めるように背中を擦る。
「沙羅が、ずっと俺を好きでいてくれたならうれしいよ。お願いだからあきらめるとか思わないでくれ」
お互いが想い合っているはずなのに、何が沙羅を不安にさせているのか……。
慶太は、考えを巡らせる。
慶太は、沙羅の髪に手を入れ、優しく撫で続けた。
嵐のように荒れていた沙羅の心が、少しずつ凪いでいく。
「沙羅、ひとつ聞いていいか? どうして、自分じゃダメだとか、あきらめないといけないとか、そんな考えに行き着いたんだ?」
「それは……」
と、沙羅は言いよどむ。
慶太は、自分の事を好きだと言ってくれている。その言葉にウソは無いだろう。
そして、二股をかけるような人でもない事を知っている。
いくら、昨日慶太が女性と歩いていたからとしても、断片的な光景しか見ていないのだ。だいたい、婚約者が居るのを隠して、付き合うようなマネをする慶太ではない。
それなのに、自分じゃダメだとか、あきらめないといけないと思い込んでいるのは、過去に慶太の母親である高良聡子の言葉に囚われているからだ。
冷たい瞳で見下ろされ「然るべき所から妻を迎えるつもりなの。シンデレラを夢見てもあなたが傷つくだけよ」と言われたのが、ずっと、心の傷になって、慶太を好きだと思うたびに、奥底で痛みを感じていた。
でも、もう二度と冷たい瞳で見下ろされる事はない。
自分を好きだと言ってくれている慶太を信じていればいいのだと、沙羅はようやく気付いた。
「私、自分に自信がなくて……慶太には、もっと素敵な人が似あうと思って、卑屈になっていたみたい。それで、気持ちばかり焦って……ごめんなさい」
「沙羅、俺は沙羅の事が好きだよ。わかっているよね?」
真剣な瞳で慶太に問われ、沙羅はうなずく。
「それなのに沙羅以外の女性が似合うとか考えないでくれ」
懇願とも言える慶太の言葉。
沙羅は、心に引っかかっていた出来事をやっとの思いで口にした。
「でも、昨日、銀座のBellissimoで慶太が女の人と居るのを見てしまって……婚約とか聞こえて来て、凄い仲が良さそうだったから……」
ふたりの姿を見た時のショックがよみがえり、涙がジワリと浮かぶ。
それなのに慶太は、クククッと笑いを堪え肩を振るわせ始めた。
「沙羅もBellissimoに居たのか、それなら声を掛けてくれれば良かったのに」
「声なんて掛けられないよ。私、慶太が婚約したのかと思って、凄いショックだったんだから!」
これまでの沙羅の追い詰められたような行動に合点がいった慶太は、愛おしさが募り、沙羅をギュッと抱きしめた。
「沙羅、愛しているよ」
耳元で囁かれ、カァッと体が熱くなる。
顎先に手を添えられ、唇が重なった。
ついばむように何度もキスをして、思考が溶けていく。さっきまでのささくれていた気持ちは、まろやかになり、甘く蕩ける。
深くなったキスで、心の中は慶太で満たされて、深い部分にあった傷が癒えていくのを感じた。
チュッと、音を立てて唇が離れた。
沙羅を抱きしめたままの慶太は上機嫌で髪を撫でている。
広い胸に抱かれて、沙羅は気持ちが落ち着いてくると、ふと疑問が浮かんだ。
声を掛けてと言うぐらいだから、後ろ暗い関係では無いのだろう。
しかし、Bellissimoで見かけた時、確かに「婚約した」と言っていたはずだ。
「ねえ、慶太と一緒に居た|娘《こ》って、どんな関係なの?」
「Bellissimoで一緒に居た|娘《こ》は、俺の腹違いの妹なんだ」
「腹違いの妹!?」
高校の頃、慶太に妹が居るなんて聞いた事も無い。意外な内容に沙羅は目を白黒させる。
「以前、俺の父親にもう一つ家庭があるって話しを沙羅にはしたよね」
沙羅は、夜のあやとりはしで慶太から聞いた話しを思い出し、うなずいた。
「そのもう一つ家庭で生まれた|娘《こ》で、戸籍も生みの母親の姓を名乗っていて、妹とは言っても苗字も違う。俺の母親が存命だった頃は、異母妹の存在は|公《おおやけ》に出来なかったんだ。あの|娘《こ》も身勝手な親に振り回された子供なんだ。そのせいか、たまに会うと甘やかしてしまって、都合の良い兄をやっている」
「兄妹だったなんて……」
慶太からの告白を聞いて、沙羅はカッと頬が熱くなる。
まるで、盛大な勘違いで騒ぎ立てていたみたいだ。イヤ、まぎれもなく盛大な勘違いをして、悲劇のヒロインよろしく騒ぎ立てていた。
それなのに、慶太は相貌をくずして笑う。
「沙羅が、あんなに取り乱すぐらいにヤキモチ焼いてくれたなんて、めちゃくちゃ嬉しいよ」
金沢駅で別れた時、沙羅は「私の事は、忘れて……。慶太は幸せになって」と言い残し、車窓の人となった。
その言葉は、もう会う事は無いのだと暗に示していた。
それからは、沙羅を見守ると決めた慶太だったが、不安が無かった訳じゃない。
日下部真理に連絡を取り、沙羅がどうしているのか聞き出し、仕事の仲介を頼んだり、東京に仕事を入れては会えるように画策をしたりした。
一歩間違えば、ストーカーまがいの行為だと自分でも思う。
でも、それぐらいに必死に沙羅を追いかけていたのだ。
「妹さんが居るなんて知らなかったから……。勘違いをして恥ずかしいからあまり言わないで」
そう言いながら、沙羅は安堵の息をつく。
会えないと思っていた慶太の顔を見た瞬間、好きだという気持ちが溢れて、一緒に居たいとしか考えられなくなっていた。
加速した恋心は、周りを見えなくさせる。
もしも、慶太が誰かと婚約をしていたとしても、見て見ぬふりをして慶太と居る事を選んでしまったかも知れない。
不倫で嫌な思いをしたのに、間違いだとわかっているのに、慶太を好きな気持ちは止められずに、暴走してまっただろう。
沙羅は、自分の中からそんな感情が湧き出た事に複雑な気持ちさせられた。
遊びであろうが、本気であろうが、不倫や不貞は人を傷つける行為だ。
サレ側の痛みを知る以上、スル側にはなりたくない。
「沙羅、うつむいていないで俺のことを見て……。まだ、心配事があるの?」
「ううん、慶太に婚約者が居なくて良かったなぁって、安心していたの」
ふわりと微笑む沙羅の後頭部に慶太の大きな手がまわり、綺麗な切れ長の瞳で見つめられる。
「そう、こう見えても俺、一途だから沙羅は安心していていいよ」
「ふふっ、女冥利に尽きるわね」
ふたりの距離が近づき、チュッとキスを落とされる。
「だから、いまは余計な事は考えないで、俺のことだけ考えて」
「慶太……」
瞼を閉じると、再び唇が重なる。はむような短いキスを繰り返し、徐々に深いキスへと向かう。
怖いほど、幸せすぎてジンと心が痺れてるような感覚に囚われる。