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村山智樹(27)
私立大学を卒業後
大手運輸会社に勤めるも
長続きせずに退職。
実家暮らしのニート。
趣味は家庭用ゲーム機で
FPS(シューティング)ゲーム
をする事。
弟がいるも、バカにされる始末。
川瀬お七(20)
寛永(江戸時代)
から令和時代へと
タイムスリップしてきてしまう。
許嫁がいる。
奉公の帰り道、酔っぱらい
の浪人に絡まれて、逃げている
最中に川へ飛び込む。
その先は友達の部屋の押し入れへと
繋がっていた。
秋田県出身で、東京まで
奉公へ来ていた。
『寛永の風』
第1幕
始まり
俺は止まったまま生きている
俺の名前は村山智樹(むらやまともき)、27歳。
私立大学は出た。
就職先は、世間的には「悪くない」部類だったと思う。
大手運輸会社。
内定をもらったとき、親は泣いて喜んだ。
でも、俺は半年で辞めた。
理由を一言で言えば、「無理だった」。
満員電車、体育会系の空気、意味の分からない叱責。
朝、目を覚ますたびに胃が痛くなって、ある日ふっと会社に行けなくなった。
それから今まで、派遣とフリーターを行き来している。
実家暮らし。
黒縁メガネがトレードマーク。
鏡に映る自分は、いわゆる“チー牛”ってやつに近いと思う。
休日は、ほとんど家から出ない。
家庭用ゲーム機の電源を入れて、仮想の世界に逃げ込む。
そこでは俺は
兵士で、指揮官で、何にでもなれる。
現実では、何者でもないのに。
実家という名の安全地帯
俺の部屋は、大学生の頃からほとんど変わっていない。
壁に貼ったままのポスター、机の上の埃、使っていない参考書。
母親はすこし口うるさい。
「はやく働け」と言う。
その言葉に、俺はわかっているものの
ウザがり続けている。
父親は、あまり何も言わない。
それが逆にきつい。
「次の仕事、決まったの?」
夕飯のとき、母が聞く。
「まあ…一応」
曖昧に答えて、俺は味の薄い味噌汁をすすった。
ここは安全だ。
でも、このまま時間だけが過ぎていく場所でもある。
俺は分かっている。
分かっているのに、動けない。
妙な夢
その夜、変な夢を見た。
知らない山道。
冷たい風。
どこかで鈴の音がする。
着物の裾が揺れるのが見えた。
誰かが、俺の名前を呼んだ気がした。
——ともき、どの…
目が覚めたとき、胸の奥がざわついていた。
「変な夢」
時計を見ると、午前四時。
二度寝しようとして、ふと気づく。
部屋が、妙に寒い。
季節は夏のはずなのに、空気がひんやりしている。
押し入れの方から、微かに風を感じた。
押し入れの違和感
俺の部屋の押し入れは、普段ほとんど使っていない。
アルバムと、ガラクタの段ボールが入っているだけだ。
なのに。
「……?」
押し入れの戸が、ほんの少しだけ開いていた。
確か、昨日は閉めたはずだ。
気のせいだと思おうとしたが、
中から、見慣れない匂いがする。
木と土と、煙の混じったような匂い。
実家には、そんなものはない。
「…誰か入った?」
あり得ない。
ここは二階だし、鍵もかかっている。
それでも、胸騒ぎが止まらない。
俺はゆっくりと、押し入れに近づいた。
時の境目
押し入れの隙間から、淡い光が漏れている。
LEDでも、スマホでもない。
揺らぐ、温かい光。
同時に、かすかな声が聞こえた。
「ここは…」
女の声だった。
若い。
聞き慣れない言葉遣い。
心臓が跳ねる。
理性が「開けるな」と叫ぶ。
でも、体は勝手に動いた。
俺は、押し入れの戸に手をかけた。
——その瞬間、風が吹き抜ける。
冷たくて、懐かしい風。
まるで、遠い昔の山里から流れてきたような。
光が強くなる。
そして。
俺の知らない“誰か”と、
確実に出会ってしまう予感だけが、そこにあった。
出会いは、押し入れから
押し入れの戸を開けた瞬間、
俺は――声も出せずに固まった。
そこに、女がいた。
それも、着物姿の。
緑色の小袖に、帯をきっちり締め、
髪は高く結い上げられ、時代劇で見るような形に整えられている。
黒髪には、かんざしがなん本か、すっと差してあった。
おいおいおい。
「…」
女も、俺を見て、ぴたりと動きを止めた。
押し入れの中。
薄暗いはずの空間が、妙に明るい。
まるで、そこだけ時間が違っているみたいだった。
次の瞬間。
「ひっ」
俺の喉から、情けない声が漏れた。
「ゆ、幽霊?」
完全に、そう見えた。
現実感がなさすぎる。
ゲームのイベントか、夢か、もしくは心霊現象だ。
俺は反射的に後ずさり、ベッドに
足を引っかけて転びそうになる。
すると、女の方が先に声を上げた。
「な、なんでございましょう、このお方は…!」
透き通るような声だった。
でも、言葉遣いが明らかにおかしい。
「髪はぼさぼさ、顔には黒き枠の何か…
しかも、奇怪な装束…!」
装束って何だよ。
「な、なんだよそれ…俺だって怖えよ!」
俺が叫ぶと、女はびくっと肩を震わせた。
「ひゃっ…!」
女は一歩下がり、両手で胸元を押さえる。
「こ、ここはどこなのでございましょう…
わたくしは…」
わたくし?
俺の頭が、処理落ちする。
その瞬間、女の目が俺の背後にあるゲーム機とテレビに向いた。
「な、なんと…」
画面は、さっきまでつけっぱなしだったゲームのタイトル画面を映している。
光る映像。
動く文字。
聞こえてくる電子音。
女の顔から、さっと血の気が引いた。
「これは…地獄の業火?」
「違う! 違うから!」
完全にパニックだ。
「ここ、俺の部屋! 幽霊じゃないから!」
俺が必死に否定すると、
女は逆に、俺を指さして叫んだ。
「そ、それはこちらの台詞にございます!」
「はあ!?」
「そのような異形の髪型、
見たこともない装束、
しかも、夜更けにからくりの箱を操るなど!」
からくりの箱って、ゲーム機のことかよ。
女は震えながら、一歩、また一歩と後退していく。
そして――
「も、申し訳ございませんっ!」
そう叫ぶと同時に、
女はばっと踵を返し、押し入れの中へ飛び込んだ。
「えっ!? ちょ、待」
俺が手を伸ばすより早く、
押し入れの中に、ふっと風が巻き起こる。
布が揺れ、光が瞬き、
次の瞬間。
女の姿は、消えていた。
押し入れの中には、
古い布団と段ボールだけ。
俺は、しばらくその場から動けなかった。
「今の何だったんだ。」
心臓が、まだうるさいほど鳴っている。
幽霊?
幻覚?
それとも――
押し入れの奥から、
かすかに、声が聞こえた気がした。
「ここは…異界?」
震える、若い女の声。
俺は、ゆっくりと息を吸い込んだ。
どうやら俺は、
とんでもない“出会い”をしてしまったらしい。
押し入れ越しに、時代を知る
押し入れの前に、俺は座り込んでいた。
さっきまで、そこから着物の女が飛び出してきたなんて、
どう考えても現実感がない。
「夢、じゃないよな」
頬をつねる。
普通に痛い。
押し入れの戸は、ぴったり閉まっている。
でも、その奥から、確かに気配がする。
――いる。
俺は喉を鳴らし、恐る恐る声をかけた。
「なあ。あの…押し入れの中の人」
一瞬の沈黙。
それから、かすかな衣擦れの音。
「ひっ」
小さな悲鳴。
「あ、安心して。俺、何もしないから」
自分で言ってて説得力がない。
チー牛の俺が言っても、怖いだろ。
「あなた様は…やはり、この世の者…?」
戸の向こうから、震える声が聞こえた。
「一応…そう、かな。幽霊じゃない」
「…。」
「そっちも…幽霊じゃない、よな?」
また沈黙。
「わたくしは…生きております。」
はっきりとした返事だった。
「生きて…いる、のか」
その一言で、胸の奥が妙にざわついた。
寛永から来た女
「ここは…どのような場所にございますか」
「俺の…家。正確には、俺の部屋」
「いえ、そうではなく…。」
声が少し、落ち着いた。
「この世は…いま、何時代にございますか」
何時代。
普通なら、そんな質問しない。
俺は、一瞬迷ってから、正直に答えた。
「令和、だよ」
戸の向こうで、息を呑む気配がした。
「れい、わ…?」
「元号。今は、令和」
しばらく、何も聞こえない。
「…。」
「えっと」
俺が言葉を探していると、
押し入れの中から、か細い声が漏れた。
「寛永は…終わっておりますか」
その声には、希望と恐怖が混じっていた。
俺は、嘘をつけなかった。
「うん。とっくに」
また、沈黙。
長い、長い沈黙。
「戻れぬ、のでございますね」
声が、震えていた。
「知らんけど…多分」
「…。」
押し入れの中で、何かが崩れ落ちる音がした。
膝をついたのかもしれない。
俺は、何も言えなかった。
草履の音
「あの、出てきても…いいよ?」
俺がそう言うと、
しばらくして、戸の向こうから、かすかな返事があった。
「お、お願いにございます
急に…こちらを、見ぬよう。」
「わ、わかった」
俺は慌てて、横を向いた。
ぎぃ…と、押し入れの戸が開く音。
畳を踏む、軽い音。
草履だ。
俺は、思わず振り返ってしまった。
そこに立っていたのは、
さっきよりもずっと小さく見える女だった。
淡い色の着物。
少し乱れた髪。
不安げに揺れる瞳。
草履のつま先が、きゅっと内側を向いている。
やばい。
ドキッ、と胸が鳴った。
普通に、可愛い。
いや、可愛いとか言ってる場合じゃないのに。
「…あ、あの。」
彼女は、視線を泳がせ、袖をぎゅっと握りしめている。
「わたくし…川瀬お七と申します…
秋田の生まれにございます。」
声が、震えている。
「俺は…村山智樹」
「とも、き…様」
名前を呼ばれただけで、
胸の奥が、妙にくすぐったくなる。
俺は慌てて、視線を逸らした。
「その」
お七は、部屋を見回し、ますます不安そうになる。
「この…四角い光る箱
音の鳴る板
わたくし…どうすれば」
完全に、混乱している。
俺も同じだ。
「いや、その…俺も…どうしていいか」
二人して、黙り込む。
静かな部屋に、エアコンの音だけが響く。
「怖い、でございます」
お七の声が、小さく震えた。
「一人で…知らぬ世に」
俺は、思わず口を開いた。
「ここに、いればいい」
自分でも驚くほど、素直な声だった。
「少なくとも…俺がいる」
お七は、はっと顔を上げた。
「ともき様…」
不安と安堵が入り混じった表情。
俺の人生で、
誰かにこんな目で見られたことが、あっただろうか。
押し入れから始まった、
あり得ない出会い。
でも、確かに今、
俺たちは、同じ部屋に立っていた。
時代を越えて。
部屋の空気が、少しだけ落ち着いた。
お七は畳の上に正座したまま、背筋を伸ばしている。
俺はベッドの端に腰掛け、頭を抱えていた。
どう考えても、現実だ。
夢なら、もう覚めていい。
でも、目の前には着物姿の女の人がいる。
「とりあえず、状況整理しよう」
独り言みたいに言って、俺はポケットからスマホを取り出した。
画面が光った瞬間、お七がびくっと反応する。
「それは…先ほどのからくり。」
「スマホ。調べ物できるやつ」
俺は小声で言いながら、検索欄を開いた。
「えっと…寛永…何年だっけ?」
「わたくしが生まれた頃は、寛永十年ほど…。」
「寛永十年。」
指で文字を打つ。
【寛永10年 西暦】
検索結果が表示される。
「1633年、だって」
お七は、意味が分からないながらも、俺の表情をじっと見ている。
「それは…どれほど昔にございますか」
俺は、少し息を吸ってから言った。
「今は…2026年。令和8年」
一瞬、言葉が止まる。
「ということは…。」
俺は、計算アプリを開いて、数字を入れた。
「約、393年前」
声に出した瞬間、部屋が静まり返った。
「三…百…九十…三。」
お七は、ゆっくりとその数字を噛みしめるように繰り返した。
「それほど…時が。」
手が、小さく震えている
お七は、そっと立ち上がると、
草履を脱ぎ、畳の上に揃えた。
「?」
次の瞬間、
俺のすぐ横まで、静かに歩いてきた。
「ともき様…。」
「な、なに?」
近い。
普通に、近い。
お七は、俺の手元を覗き込むように、身を乗り出した。
「その…光る板に…
文字が勝手に。」
「まあ…そう見えるよな。」
ほのかに、木と香の混じった匂いがする。
着物の袖が、俺の腕に触れた。
やばい。
心臓がうるさい。
「これは、書物ではないのですね…。」
「うん。世界中のことが……だいたい載ってる」
「まぁ…。」
お七の目が、きらきらと輝いた。
不安そうだった顔が、今は好奇心でいっぱいだ。
「この世は…不思議なことばかり。」
俺は、思わず苦笑した。
そのとき、
廊下の向こうで、何かが軋む音がした。
俺は、はっとして人差し指を口元に当てた。
「しっ…」
「?」
「静かに。家族、寝てる」
お七は、慌てて口を押さえる。
「ご、ご無礼を」
俺は、さらに小声で説明した。
「隣の部屋に…両親。もう寝てる」
「ご両親…」
「で、俺の部屋の…これ」
俺は、部屋の隅を指さした。
二段ベッド。
上は空。
下には、カーテンがかかっている。
「弟がね下で寝てる」
お七は、目を見開いた。
「この部屋に…三人?」
「正確には…今は…四人」
言ってから、変な感じがした。
お七は、慌てて正座に戻り、背筋をぴんと伸ばす。
「…も、申し訳ございません…
知らぬとはいえ」
「いや…いい」
俺は、声をさらに落とした。
「とにかく…音、立てないで」
「心得ました。」
その真剣な表情が、妙に可笑しくて、
でも、少しだけ愛おしく感じた。
静寂の中で
部屋は、再び静かになった。
スマホの小さな光だけが、二人の間を照らしている。
393年。
その時間を越えて、
この人は、今ここにいる。
俺は、画面を見つめながら思った。
——これから、どうするんだ。
でも、不思議と、
「怖い」よりも先に、
「放っておけない」という気持ちが湧いてきていた。
お七は、小さな声で言った。
「ともき様…」
「ん?」
「どうか…
しばし…ここに…居させては…いただけませぬか…。」
俺は、迷わず頷いた。
「いいよ」
その一言で、
お七の肩から、少しだけ力が抜けた。
静かな部屋で、
二つの時代が、同じ息をしていた。
—夜は、まだ長い。
部屋の明かりを落とし、
俺はスマホの画面を消した。
静かだ。
弟の寝息が、二段ベッドの下から微かに聞こえる。
エアコンの風が、一定の間隔で流れている。
お七は、畳の上に正座したまま、じっと床を見つめていた。
「…」
何か、考え込んでいる顔だ。
「お七?」
小さく声をかけると、
彼女は、はっとして顔を上げた。
「先ほどより…胸の奥が…ざわついて。」
「え?」
お七は、そっと自分の胸元に手を当てた。
「思い出したのです…。
わたくしが…ここへ参った…その時のことを。」
「わたくしは…奉公の帰りでございました」
お七の声は、静かで、少し遠い。
「日も落ち、
川沿いの道を急いでおりました」
俺は、黙って聞く。
「すると、後ろより…足音が。」
袖を握る指が、きゅっと強くなる。
「浪人…でございました…。」
「浪人?」
「刀を帯び、
酒の匂いをさせ……
笑いながら…追ってきたのです。」
喉が、ひくりと鳴った。
「逃げても…追いつかれ
助けを呼んでも…誰もおらず…。」
お七は、目を伏せた。
「川しか…見えませんでした。」
その瞬間。
「わたくしは…川へ
飛び込みました。」
「冷たさに息が止まり
流れに…身を奪われ。」
お七の声が、かすかに震える。
「その時…
雷のような光が。」
「…。」
「次に目を覚ました時…
そこは暗く狭く
布と木の匂いが…。」
俺は、思わず押し入れを見た。
「そして
知らぬ世の…あなた様が。」
お七は、かすかに微笑んだ。
「わたくしは…
川を越え
時を越えて…しまったのでしょう。」
胸が、少し苦しくなった。
「わたくしの持ち物は
これだけにございます…。」
お七は、そっと懐から布を取り出した。
中には、
寛永通宝が数枚と、
草履。
「これでは…
この世では…何も。」
言葉の最後が、消える。
そのとき。
「ぐぅ…。」
小さく、でもはっきりと音がした。
お七の顔が、真っ赤になる。
「…っ!」
「お腹、空いてる?」
お七は、しばらく迷ってから、
こくん、と小さく頷いた。
「川に入ってより…
何も…口にしておりませぬ。」
俺は、立ち上がった。
「ちょっと…待ってて」
足音を殺しながら、
俺はそっと部屋を出た。
リビングは、暗い。
冷蔵庫の前で、立ち止まる。
ガサガサと音を立てないように、
棚を探す。
——あった。
クッキーの箱。
派遣先でもらったやつだ。
正直、あまり食べてなかった。
俺は数枚取り出し、
そっと部屋へ戻った。
「はい…これ」
小声で言って、
お七に差し出す。
「これは…?」
「クッキー。お菓子」
お七は、両手で受け取り、
じっと見つめる。
「不思議な…香り。」
恐る恐る、一口。
次の瞬間。
「…!」
お七の目が、大きく見開かれた。
「あ…あぁ…。」
もう一口。
そして、さらに一口。
「なんと…
このような…甘きものが。」
声が、震えている。
「口の中で…
ほどけるように…
消えて。」
思わず、両手で口を押さえた。
「美味しゅう…ございます!!」
涙ぐんでいる。
「菓子とは…
このような幸せを…。」
俺は、ただ、見ていた。
クッキー一枚で、
こんな顔をする人を、初めて見た。
「まだ…あるから」
そう言うと、お七は、
深く、深く頭を下げた。
「ともき様…
この御恩…
決して…忘れませぬ。」
胸の奥が、じんわり温かくなる。
393年を越えてきた女の人が、
俺の部屋で、クッキーを食べている。
…変な話だ。
でも、不思議と、
この光景を守りたいと思った。
夜は、まだ続く。
そして、
二人の生活も——
ここから、始まろうとしていた。
クッキーの甘い匂いが、まだ部屋に残っていた。
お七は、最後の一枚を大事そうに口に含み、
ゆっくりと噛みしめている。
その様子を見ながら、
俺の頭の中では、別の考えがぐるぐる回っていた。
——本当に、戻れないのか。
俺は、そっと立ち上がった。
「ちょっと、押し入れ…見てくる」
「?」
お七は、不思議そうに首をかしげる。
俺は、押し入れの前に立ち、
深呼吸してから、戸を開けた。
中は、いつもと同じだった。
古い布団。
段ボール箱。
見慣れた、実家の匂い。
さっきまで、
光があって、風があって、
人がいた場所とは、思えない。
俺は、奥まで手を伸ばした。
何もない。
スマホのライトを点けても、
影すら、変わらない。
「やっぱり」
胸の奥が、静かに沈んでいく。
偶然だったのか。
一度きりの現象だったのか。
少なくとも——
今、この押し入れは、ただの押し入れだ。
俺は、戸を閉めた。
振り返ると、
お七は、絨毯の上に座ったまま、
体を小さくしていた。
瞼が、ゆっくりと上下している。
「お七?」
返事はない。
近づくと、
小さな寝息が聞こえた。
「寝てる」
よほど、疲れていたんだろう。
奉公。
追われて。
川に落ちて。
知らない時代に来て。
今日一日で、
心も体も、限界だったはずだ。
「帰れなさそうだな」
俺は、小さく呟いた。
それを、彼女に聞かせる気はなかった。
そのままでは、体が痛くなる。
俺は、できるだけ音を立てないように、
そっとしゃがみ込んだ。
「…」
お七の着物は、思ったより軽い。
袖を整え、
体を支えて、
ゆっくりと、絨毯の上に横にする。
草履は、すでに脱いである。
「ごめん」
誰に言ったのか分からない言葉が、
口から漏れた。
クローゼットから、毛布を取り出す。
派遣先で使っていた、
少し古いやつ。
でも、清潔だ。
俺は、そっとお七の肩から、
毛布をかけた。
「……」
彼女は、少し身じろぎして、
毛布を掴む。
「あたたか」
寝言のような声。
その一言で、
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
俺は、しばらく、その場に座っていた。
寝息を聞きながら、
押し入れを、もう一度見た。
何も起きない。
——もう、戻れない。
その事実が、
ゆっくりと、現実として染み込んでくる。
「俺が…なんとかするしか…ないか」
小さく、そう呟く。
俺は、何者でもない。
派遣で、実家暮らしで、
胸を張れるものなんて、何もない。
でも。
今、この部屋で、
時代を越えてきた人が、眠っている。
それだけで、
逃げていい理由は、消えていた。
俺は、電気を消した。
暗闇の中、
お七の寝息だけが、規則正しく続く。
——明日から、どうなるかは分からない。
でも、この夜だけは、
静かに、守ろうと思った。
時を越えた客人の、
最初の眠りを。
朝が来た。
カーテンの隙間から差し込む光で、俺は目を覚ました。
一瞬、いつもの朝かと思って――すぐに違うと気づく。
絨毯の上。
毛布に包まれて、
お七が、静かに眠っていた。
「夢じゃないな」
小さく呟く。
廊下から、母と父の支度をする音。
弟が二段ベッドを降りる気配。
ほどなくして、玄関の扉が閉まる音がした。
全員、出勤。
家の中が、急に静かになる。
「朝にございますか…?」
お七が、ゆっくりと目を開けた。
「おはよう」
「おはよう、ございます。」
少し寝ぼけた声。
昨夜の不安が嘘のように、穏やかな顔だった。
「誰もおられませぬ…?」
「今は…俺とお七だけ」
そう言うと、
お七は、少しほっとしたように息を吐いた。
「それなら」
そこで、彼女はふと首をかしげた。
「湯殿は…どちらに?」
「あっ…お風呂?」
そうだった。
「今のうちに…風呂、入ったほうがいい」
「ふろ…?」
浴室の前で、
お七は、不思議そうに中を覗き込んでいる。
「これが湯殿…」
「そう。ここで…体を洗う」
「湯は…どこに?」
俺は、説明しながら、
浴槽にお湯を張り始めた。
「これが…湯を…汲むボタンね。」
流れる水を、
お七は、目を丸くして見ている。
「川を…閉じ込めているよう。」
「まあ…似たようなもん、かも」
お湯が溜まる音が、浴室に響く。
「では…」
お七は、くるりと振り返った。
「ここで脱げば…よろしいのですね?」
「え」
次の瞬間。
彼女は、何のためらいもなく、
帯に手をかけた。
「ちょ、ちょっと待っ――!!」
俺の声は遅かった。
「?」
きょとん、とした顔。
「奉公先でも…湯殿では
皆…そのように。」
その言葉で、
俺は、はっと思い出す。
混浴。
男女の区別、今ほど厳しくない。
「いや! 今は…違うから!」
俺は顔を真っ赤にして、
勢いよく脱衣場を飛び出した。
「ここで待ってるから! いいから!」
廊下に出て、
壁に背中をつける。
心臓が、うるさい。
「ともき様…。」
扉の向こうから、声。
「な、なに?」
「この…壁より
雨のような。」
「シャワー?」
「しゃわー?」
「使い方…分かりませぬ。」
俺は、深く息を吸った。
「今…説明するから。」
視線を、完全に天井に固定する。
「その…上にある…取っ手
回すとねお湯が出る。」
「ほう…。」
がしゃっ、という音。
「あっ…!」
「だ、大丈夫!?」
「あたたかく…ございます!」
その声に、
妙に安心してしまう自分がいた。
説明しながら、
俺は思った。
昔は、これが普通だったんだ。
混浴。
裸を恥じる文化の違い。
それを知らずに、
目の前で服を脱がれて、
俺だけが慌てている。
「ともき様」
「なに…?」
「この世の湯殿
少し…不思議で。」
「そのうち慣れるよ…。」
たぶん。
俺は、視線を逸らしたまま、
ただ、扉の前で待っていた。
——393年の差は、
こういうところにも、現れる。
そして俺は、
これから何度も、
こんなふうに慌てるんだろう。
浴室の扉が、静かに開いた。
「ともき様…。」
俺は、反射的にそちらを見て――すぐに視線を逸らした。
「は、はい」
湯気が、廊下まで流れてくる。
お七は、髪をまだ少し濡らしたまま、立っていた。
「あの…。」
「ちょ、ちょっと待って」
俺は慌てて、用意していたものを差し出す。
「これ…バスタオル。体、拭いて」
「これは?」
「布?いや…まあ…拭くやつ」
お七は、素直に受け取り、
ぎこちなく体を包んだ。
「それと…。」
俺は、畳んであった服を差し出す。
「着替え…」
「これは」
「母親のTシャツと…ステテコ」
「すててこ?」
「下に履くやつ」
お七は、布をそっと撫でた。
「柔らかい…。」
「サイズ、合わないかもだけど」
「ありがたく…お借りいたします。」
少しして、
お七は、ぎこちない姿で戻ってきた。
大きめのTシャツに、ステテコ。
完全に現代の部屋着。
——似合ってる。
いや、何考えてるんだ、俺。
「この衣…軽うございます。」
「そりゃ…着物よりは。」
お七は、少し照れたように、袖を引っ張った。
次は、着物だ。
「これ…洗うけど」
俺は、洗濯機の前で、少し躊躇した。
「縮む…かも。」
絹じゃないとは思うけど、
寛永時代の着物だ。
「大丈夫…でしょうか。」
「いや、正直分からない…。」
それでも、他に方法はない。
俺は、着物を丁寧に畳み、洗濯機に入れた。
「これで…洗う。」
スイッチを押す。
ごとん、と音がして、
中のドラムが回り始める。
「!」
お七は、目を輝かせた。
「動いて…おります!!」
彼女は、洗濯機の前にしゃがみ込み、
ガラス越しに中を覗く。
「水が…渦を。」
「服が…踊って。」
まるで、子どもみたいだ。
「すごうございます…。
人の手を使わず
布を…清めるとは。」
俺は苦笑した。
「便利だけど…壊れたら…ただの箱」
「それでも
この世は
不思議に満ちております…。」
洗濯機の音を聞きながら、
俺は、ふと気になっていたことを聞いた。
「なあ」
「はい…?」
「お七…いくつ?」
一瞬、間。
「丁度…二十に…なりました。」
「…」
頭の中で、即座に計算する。
27 − 20 = 7。
「7つ…下…か。」
思ったより、離れている。
でも、
さっきから感じているこの不思議な距離感は、
年齢の問題じゃない。
「ともき様は…?」
「27…。」
「まぁ…。」
お七は、少し驚いた顔をしてから、
柔らかく微笑んだ。
「お若う…ございますね。」
「そう…かな…。お七の方が若いでしょ。」
俺は、少しだけ苦笑した。
洗濯機は、一定のリズムで回り続けている。
393年。
7歳差。
押し入れ。
着物とTシャツ。
いろんなものが、
一緒くたに混ざり合って、
今、この部屋にある。
お七は、洗濯機を眺めながら、
ぽつりと呟いた。
「わたくし…
この世で…生きてゆく…のでしょうか。」
俺は、すぐに答えられなかった。
でも。
「一人には…しない」
それだけは、はっきり言えた。
洗濯機の中で、
着物が、静かに回っている。
——時代も、立場も、
少しずつ、洗われていくみたいだった。
洗濯機の乾燥が終わる音が、部屋に響いた。
俺は、その音を聞きながら、
別のことで頭を抱えていた。
下着。
「…」
お七は、今、母のTシャツとステテコを着ている。
それ自体は問題ない。
でも。
「このままって…わけには…いかないよな。」
俺は、視線を泳がせた。
女性物の下着。
店で買う。
レジに持っていく。
——無理だ。
俺の脳内で、即座に却下された。
「ネット…だな」
スマホを取り出し、
通販サイトを開く。
サイズ。
素材。
派手じゃないもの。
「即日配送…」
ポチ。
勢いだった。
「よし…」
スマホを伏せて、
深く息を吐く。
「ともき様…?」
お七が、不思議そうにこちらを見る。
「な、なんでもない…」
詳しく説明できる内容じゃない。
次は、飯だ。
時計を見ると、昼前。
「腹…減ってない?」
「はい…少々」
控えめな返事。
俺は、台所に向かった。
炊飯器のスイッチを入れる。
味噌を出す。
鍋に水を張る。
包丁で豆腐を切る音が、
静かな家に響く。
「…」
俺が料理をするのは、久しぶりだった。
でも、不思議と手は動いた。
「できた…」
ちゃぶ台代わりのローテーブルに、
味噌汁とご飯を置く。
湯気が、立ち上る。
お七は、それを見て、目を見開いた。
「これは…」
「ご飯。白米」
「…!」
一瞬、言葉を失ったようだった。
「白き…米…。」
箸を持つ手が、わずかに震えている。
「どうした…?」
「奉公先でしか…
口にできませんでした…。」
そう、静かに言った。
「家では…
雑穀や…粥ばかり。」
俺は、何も言えなかった。
お七は、そっと一口、米を口に運んだ。
「…」
次の瞬間。
「あ…」
声が、漏れた。
「美味し。」
もう一口。
「この…甘み」
味噌汁を啜り、
深く、息を吐く。
「この世では…
日々…このようなものを?」
「あぁ、まあ…普通に
?」
その言葉を聞いて、
お七は、少し笑った。
「なんと…豊かな。」
嬉しそうで、
どこか、切なかった。
二人で、黙って食べる。
音は、箸と椀だけ。
「ともき様…」
「なに…?」
「このご恩……
言葉では…足りませぬ。」
「そんな…大げさ。」
「いえ」
真剣な目だった。
「白米を…
心ゆくまで、食べられる
それだけで…
生きてゆける気が…いたします。」
胸の奥が、じん、とした。
俺は、ただの派遣で、
実家暮らしで、
自分のことで精一杯だったはずなのに。
「また…作る。」
それだけ言うと、
お七は、深く頷いた。
食器を片付けながら、
俺は思った。
下着を買う。
飯を作る。
洗濯をする。
当たり前のこと。
でも、それが今は、
誰かの人生を、少しだけ支えている。
393年を越えてきた人と、
同じご飯を食べる。
それは、
思っていたより、
ずっと重くて、
ずっと温かいことだった。
昼過ぎ。
玄関のチャイムが鳴った瞬間、
俺は肩を跳ねさせた。
「来た」
通販の、即日配達。
下着。
「ともき様…?」
部屋の奥から、お七が顔を出す。
「ちょっと…待ってて。」
俺は玄関に出て、
できるだけ平静を装って箱を受け取った。
小さな段ボール。
中身を知っているのは、俺だけ。
部屋に戻ると、
お七が興味津々で見てくる。
「それは…何にございますか?」
「えっと…着るもの。」
「?」
俺は箱を開け、
中身を確認してから、そっと差し出した。
「これ…お七の。」
「わたくしの?」
柔らかい布。
見慣れない形。
お七は、首をかしげた。
「これは…どう…着るのでしょうか?」
「だよな…。」
説明する自信は、ない。
俺は、苦渋の決断をした。
「その…動画…見る?」
「どうが…?」
スマホを操作して、
「着方説明」の動画を再生する。
画面を、少し離して持つ。
「これ…見て
真似をすれば。」
お七は、真剣な顔で画面を見つめた。
「なるほど…」
「じゃ…着替えたら…呼んで。」
俺は、そっと部屋の外に出た。
しばらくして。
「ともき様…。」
「はい…。」
「もう、よろしいです。」
部屋に戻ると、
お七は、母のTシャツのまま立っていた。
「どう?」
「この下の衣…」
「軽く…動きやすう…
とても…気に入りました。」
それを聞いて、
俺は心底、ほっとした。
「それなら…よかった。」
ふと見ると、
お七は、姿見の前に立っている。
首を傾げたり、
腕を上げてみたり。
「?」
「この衣…不思議にございます。」
くるっと、半回転。
「身体が…楽で…。」
—なぜか、決めポーズ。
「ともき様…
これで…町を歩いても…よろしいのでしょうか?」
「いや…家の中だけ…な。外だと捕まる…。」
俺は、視線を逸らした。
なんでポーズ取ってるんだ。
かわいいとか、思ってない。
思ってないぞ。
その後、
お七は洗濯機の音を聞きながら、
静かに座っている。
俺は、ベッドに腰掛け、
頭を抱えた。
——どうする。
親。
弟。
近所。
「ずっと…隠すわけにも…いかない」
でも、今は。
「しばらく…家族には…言えない。」
お七は、何も知らずに、
洗濯機を眺めている。
「ともき様…」
「なに…?」
「わたくし…
役に立てますでしょうか…?」
その言葉に、
胸が、きゅっとなる。
「今は…ここに…いて」
「はい」
393年を越えてきた人を、
どうやって、
この令和の世界で生かしていくか。
俺の人生で、
一番、難しい問題だ。
でも。
鏡の前で、
少し誇らしげに立つお七を見て、
思った。
——逃げるのは、もうやめよう。
隠すことも、
守ることも、
全部含めて。
これは、
俺が初めて、
自分で選んだ「責任」なんだから。
その日の夕方まで、
俺はずっと考えていた。
どうする。
このまま隠し続けるのか。
それとも——。
「…」
お七は、居間で洗濯物を畳んでいる。
ぎこちない手つきだけど、丁寧だ。
——この人を、押し入れに戻すわけにはいかない。
「よし」
俺は、腹を括った。
家族が全員揃うのは、夜。
母は台所、
弟はテレビ、
父は新聞。
「あのさ」
俺の声で、全員がこっちを見た。
心臓が、うるさい。
「話がある」
母が、少し驚いた顔をする。
「どうしたの?」
俺は、一度、深呼吸した。
「彼女…いるんだ」
一瞬、沈黙。
「え?」
「は?」
弟が素っ頓狂な声を上げる。
父は、ゆっくりと眼鏡越しに俺を見た。
「本気か」
「本気」
俺は、視線を逸らさずに答えた。
「少し事情があって…
今…ここに呼んでる」
母の表情が、少し厳しくなる。
「事情って…?」
ここからが、本番だ。
「彼女、家がなくて……
両親が…病気で…亡くなってて」
喉が、少し詰まる。
「施設で育ったんだ…。」
お七は、少し俯いて、
黙って立っている。
「今は…
役者を目指してて。」
「役者?」
弟が、目を輝かせた。
「だから…その
一時的に…うちに…。」
俺は、そこで言葉を切った。
「お願いだ」
そのとき、
お七が、一歩前に出た。
畳の上で、
深く、深く頭を下げる。
「川瀬お七と申します…。」
凛とした声。
「不躾ながら…
しばし…こちらに
身を寄せさせて…いただいております。」
母が、思わず口元を押さえた。
「ご両親を…亡くされて。」
お七は、静かに頷く。
「はい…。」
嘘だ。
でも、半分は真実だ。
「ともき様には……
命の…ご恩がございます。」
父が、新聞を畳んだ。
「苦労したんだな」
低い声。
「…役者を目指すってのも…
楽じゃない。」
父は、しばらく考え込んでから、
ゆっくり言った。
「しばらく…ここにいなさい。」
母が、はっと父を見る。
「お父さん…?」
「放っておけんだろ」
父は、そう言い切った。
「あの、ともきが…
ここまで言うのは…
初めてだ。」
その言葉で、
胸が、熱くなった。
「ありがとうございます…。」
お七は、再び深く頭を下げた。
「この御恩
決して…忘れませぬ。」
「じゃあ…」
母が、少し柔らかい声で言った。
「家事…手伝ってもらえる…?」
「はい…喜んで。」
その返事は、即答だった。
「料理、洗濯、掃除。」
「心得ております。」
弟が、ぽつりと言う。
「すげえ…
時代劇の人みたい。」
俺は、思わず笑いそうになった。
その夜。
お七は、台所で母と並んで、
味噌汁を作っていた。
「包丁…上手ね。」
「ほ、奉公で…いえ、施設で鍛えられました。」
その光景を見ながら、
俺は思った。
もう、隠さなくていい。
嘘は、ついた。
でも、それは、守るための嘘だ。
父は、最後に俺に言った。
「ともき…責任…ちゃんと取れよ」
俺は、はっきり頷いた。
「取るよ。」
それが、
俺の人生で、
一番、重くて、
一番、真っ直ぐな言葉だった。
お七は、夕飯の前に、
そっと俺に言った。
「ともき様…」
「なに…?」
「この世に…
居場所を与えてくださり
ありがとうございます。」
「こちらこそ…。」
押し入れから始まった関係は、
今、
同じ家の中で、
同じ食卓を囲もうとしている。
物語は、もう後戻りできないところまで来ていた。
その朝、
俺が目を覚ましたときには、
すでに家の中が静かに動いていた。
台所から、
包丁がまな板に当たる、規則正しい音。
「……?」
時計を見ると、朝五時半。
——早すぎないか。
俺は布団の中で目を擦りながら、
そっと様子をうかがった。
台所には、お七がいた。
着物ではなく、
すっかり慣れた母のエプロン姿。
鍋で煮物を作り、
隣で卵焼きを巻き、
小さな弁当箱が、次々と並んでいく。
「…」
その手つきは、迷いがない。
「父上様には…
少し味を濃く。」
小さく独り言を言いながら、
ご飯を詰める。
——奉公の経験って、すげえ。
やがて、父と母が起きてきた。
「あら…?」
母が、台所を見て立ち止まる。
「お七ちゃん?」
「おはようございます。」
深く、丁寧なお辞儀。
父も、弁当を見て目を丸くした。
「これは…。」
「本日のお弁当に…ございます。」
父は、しばらく弁当を眺めてから、
一言。
「立派だ」
母も、感心したように頷く。
「朝から…こんなに
助かるわ。」
お七は、少し照れたように微笑んだ。
「務めにございます。」
その様子を、
寝ぼけ眼で見ていた俺に、
母の視線が飛んできた。
「智樹」
「なに?」
「あんたも
見習いなさい」
嫌な予感。
「お七ちゃん…
こんなに頑張ってるのに。」
「は、はい…。」
「あんたも…
早くバイト行きなさい!」
ドヤァ。
完全に、正論パンチ。
「わかりました。」
父は、苦笑いして言った。
「まぁ
頑張れよ。」
俺は、何も言い返せなかった。
家族が出勤し、
再び家は静かになった。
お七は、台所を片付け、
丁寧に布巾を畳んでいる。
「お疲れ」
「いえ…
当たり前にございます。」
俺は、自室に戻った。
——さて。
部屋にこもり、
棚の奥から雑誌を取り出す。
「…」
ページをめくると、
自然と、口元が緩んだ。
「へへ」
そのとき。
「ともき様?」
背後から声。
「うわっ…!!」
俺は、雑誌を伏せた。
「な、なに!?」
お七は、不思議そうに首を傾げる。
「先ほどより…
楽しそうなお顔を。」
「気のせい。」
視線が、雑誌に落ちる。
「それは
読み物…でございますか?」
「えっと…
まあ。」
お七は、
俺の手元を覗き込み、
もう一冊、隣にあった雑誌を手に取った。
「?」
ぱらり。
一瞬。
「っ…。」
顔が、みるみる赤くなる。
「こ、これは!」
ページを閉じる音が、
やけに大きい。
「な、なんという…
絵巻!!」
「ち、違う…
それは…現代の。」
言い訳になっていない。
お七は、耳まで真っ赤になり、
視線を彷徨わせた。
「男女が
このように…
描かれるとは。」
「えっと…
そういう…雑誌。」
「!!」
両手で顔を覆う。
「破廉恥に…ございます!」
部屋に、
重たい沈黙が落ちた。
「あの
ごめん…。」
「い、いえ…
知らぬとは…
恐ろしき。」
しばらくして、
お七は、そっと言った。
「けれど…。」
「?」
「男女の
情…というもの
今も…変わらぬのですね。」
その言葉に、
なぜか、胸が少し軽くなった。
「まあ…
そうかもな?」
お七は、深呼吸して、
照れ笑いした。
「勉強に…なりました。」
—ならなくていい。
俺は、雑誌を棚の奥に戻し、
心に誓った。
もう、
一人の時間じゃない。
この家には、
江戸から来た、
真面目で、
少し無防備な女性がいる。
「ちゃんと…
しないとな。」
誰にともなく、
そう呟いた。
その日は、珍しく、
俺がリビングでテレビをつけていた。
特に理由はない。
ただ、バイトまで時間があった。
画面には、見慣れた音楽。
刀を差した男たち。
瓦屋根の町並み。
「時代劇か」
再放送らしい。
「ともき様?」
背後から、控えめな声。
振り返ると、
お七が、廊下に立っていた。
「どうした…?」
「その
音と…光は?」
視線は、
テレビに釘付けだ。
「ああ
これ…テレビ。」
「てれび」
一歩、また一歩と近づく。
「箱の…中に…
人がおります。」
「映ってるだけ
本物じゃない…。」
「!」
画面の中で、
役者が刀を抜く。
「ひっ!」
お七は、思わず俺の袖を掴んだ。
「大丈夫…
出てこない」
「本当に…?」
「本当に。」
しばらくして、
お七は、正座して画面を見つめていた。
町人の着物。
奉行所。
長屋。
「これは」
「?」
「わたくしの
生きていた…
世に…よく似ております。」
「ああ
この時代設定…
ちょうど
お七の頃…だと思うよ。」
「…」
画面の中で、
女中が頭を下げる。
「奉公…。」
小さく、呟いた。
「皆…
生きて…働いて。」
その横顔は、
どこか、遠かった。
「変だよな…」
俺は、少し照れながら言った。
「本当の時代を…
生きてた人が
その時代のドラマ…見ているなんて。」
お七は、少しだけ、笑った。
「役者とは…
不思議な…お仕事ですね。」
「そうかもね」
沈黙。
画面の音だけが、
部屋に流れる。
突然、お七が言った。
「ともき様…」
「なに?」
「わたくし。」
少し、間を置く。
「いつか…
元の時代へ
帰りとうございます。」
胸が、きゅっと鳴った。
「そう…だよな。」
否定できない。
「この世は
あまりにも
眩しすぎて。」
テレビの光が、
お七の顔を照らす。
「けれど…
わたくしの
居場所は
本来…
あの時代に。」
声は、震えていない。
覚悟の、音だった。
俺は、
すぐに返事ができなかった。
「俺…さ。」
何か言おうとして、
言葉が、詰まる。
——帰ってほしくない。
でも、
それは、俺の都合だ。
「今は…
方法わからない。」
「はい」
お七は、頷いた。
「それでも…
よいのです。」
「?」
「ここで…
生きることを
学びながら
帰る日を
待ちます。」
その言葉が、
優しくて、
残酷だった。
二人で、
またテレビを見る。
斬り合いの音。
三味線。
「…」
「ともき様…。」
「ん?」
「この世で
あなた様に…
出会えたこと
悔いては…おりませぬ。」
「…」
俺は、画面を見たまま言った。
「俺も…。」
それ以上は、
言えなかった。
テレビの中の江戸は、
作り物で、
安全で、
戻れない。
でも、
俺の隣にいる江戸の娘は、
本物で、
ここにいて、
いつか、去る。
その事実が、
胸の奥で、
静かに、
重く、沈んでいた。
夜。
家族が寝静まり、
家の中が一番静かになる時間。
俺は、一人で風呂場にいた。
「はぁ。」
湯船に浸かり、
今日一日を思い返す。
弁当。
時代劇。
「帰りたい」という言葉。
頭が、少し疲れていた。
そのとき。
「ともき様?」
風呂場の戸の向こうから、
聞き慣れた声。
「え?」
ガラッ。
——開いた。
「な…。」
言葉が、出なかった。
「?」
お七が、そこに立っていた。
「?」
俺は、湯船で固まった。
「な、なんで!!」
「お風呂…
ご一緒するものと。」
——江戸の感覚。
「いやいやいや…!!」
俺は、慌てて湯気の向こうに身を沈めた。
「今は…
そういうの
違うから!」
お七は、首を傾げる。
「背を…
お流しいたしましょうか?」
「い、いい!!」
即答。
「なぜ…?」
「恥ずかしい…!!」
湯気の中でも、
顔が熱いのがわかる。
「…」
お七は、少し残念そうだった。
「奉公では…
よく…。」
「今は…
しなくていいです!」
「そう…ですか。」
しゅん、とするのが、
声で分かった。
——悪いことしたかも。
沈黙が、少し続く。
「あのさ…」
「はい?」
「今は
男女平等だから…。」
「?」
「そんなにさ、
かしこまらなくても。」
お七は、少し考えてから、
静かに言った。
「それでも…
わたくしは
このままで。」
「どうして?」
「ともき様は
年上…で
命の恩人。」
真面目な声。
「敬いを…
失いたくないのです。」
それ以上、
何も言えなかった。
「じゃ」
俺は、覚悟を決めた。
「背中…
だけ」
「よろしいのですね?」
「は、はい」
ちゃぷん。
水の音。
「失礼…いたします。」
手が、背中に触れる。
——近い。
「…」
何も言えない。
ただ、
心臓の音が、
うるさい。
「ともき様…
力加減
いかがでしょう。」
「だ、大丈夫」
洗う音が、
妙に現実的で、
余計に意識してしまう。
——ドキドキしすぎだろ、俺。
「ありがとうございました…。」
「こちらこそ。」
風呂から上がると、
急に、現実に戻る。
お七は、
きちんと頭を下げた。
「また…
お手伝いいたします。」
「いや
もう…大丈夫。」
俺は、苦笑いした。
——この人、
本当に、
悪気がない。
部屋に戻りながら、
胸の鼓動が、
なかなか、落ち着かなかった。
お七は、江戸から来た。
でも、
今、同じ家で、
同じ湯に浸かった。
それだけで、
距離は、
確実に、縮んでいる。
「これは…
危ないな」
そう思いながらも、
どこか、
嫌じゃなかった。
その夜は、
家全体が、深く眠っていた。
テレビの音もなく、
廊下の時計の秒針だけが、
規則正しく時を刻んでいる。
俺は、布団の中で、
なかなか眠れずにいた。
——風呂のこと。
——「帰りたい」という言葉。
——そして、今、この家にいる理由。
「…。」
静かに、起き上がる。
部屋の明かりは、
小さな豆電球だけ。
その淡い光の中で、
お七は、すでに眠っていた。
畳の上に敷いた布団。
規則正しい、静かな寝息。
「…」
俺は、無意識のうちに、
一歩、近づいていた。
「疲れたよな」
朝は早く起きて弁当を作り、
昼は家事をして、
夜は慣れない風呂。
この時代の一日は、
お七にとって、
どれほど情報量が多いのか。
「そりゃ
疲れるよな。」
しゃがみ込んで、
そっと顔を見る。
眠っているときは、
起きているときより、
年相応に見えた。
布団が、少しずれている。
着物の襟元が、
ほんのわずか、開いていた。
そこから見える、
白く、静かな肌。
「…あっ」
一瞬、
心臓が跳ねた。
——見るな。
——考えるな。
俺は、
視線を逸らそうとした。
「おい、俺…何やってんだ。」
心の中で、
強く言い聞かせる。
彼女は、
時代も、価値観も、
全部違う。
しかも、
頼ってくれている。
守るべき存在であって、
触れていい理由なんて、
どこにもない。
「最低だぞ!!」
自分に、
小さく、呟いた。
俺は、
そっと、布団を引き上げた。
起こさないように、
音を立てないように。
「…ふぬ。」
お七は、
小さく寝返りを打っただけで、
目は覚まさない。
その様子を見て、
胸の奥が、少し緩んだ。
「…うーん。」
俺は、立ち上がる。
——この人は、
この時代では、
何も持っていない。
戸籍も、
帰る場所も、
常識も。
あるのは、
真面目さと、
礼儀と、
信じる心だけだ。
「だから」
俺は、心の中で誓った。
——越えない。
——急がない。
——奪わない。
もし、
何かが生まれるとしても、
それは、
同じ時代を生きる者として、
ちゃんとした形で。
布団に戻り、
目を閉じる。
さっきより、
少しだけ、
心は静かだった。
襖一枚隔てた向こうで、
お七は、
何も知らずに眠っている。
「おやすみ」
声には、出さずに。
——これは、
恋か、
責任か、
それとも、
ただの情か。
まだ、
名前はつけない。
けれど、
この夜を境に、
俺の中で何かが、
確実に、変わり始めていた。
翌日。
午後の光が、
障子越しに部屋を柔らかく照らしていた。
家事を一段落させたお七は、
畳に正座して、針仕事をしている。
俺は、
なんとなく落ち着かず、
ゲームの電源も入れずに、
その様子を眺めていた。
——聞くなら、今かもしれない。
「なあ、お七。」
「はい?」
針を止めて、
こちらを見る。
「向こうの時代で…
好きな人いたの?」
言ってから、
少し後悔した。
——聞く必要、あったか?
お七は、
一瞬、言葉を失った。
「好きな…お方」
視線が、
畳に落ちる。
「急に…
そのようなことを。」
戸惑いが、
はっきりと伝わってきた。
しばらくして、
お七は、静かに口を開いた。
「実は…
許嫁がおります。」
「そっか。」
胸の奥が、
きゅっと縮む。
——やっぱり、な。
時代を考えれば、
当たり前だ。
「親が
決めた相手。」
淡々とした声。
「幼き頃より…
決まっておりました。」
俺は、
何も言えなかった。
「ともき様」
「ん?」
「ですが…。」
お七は、
勇気を出すように、
顔を上げた。
「わたくし
そのお方を
愛してはおりませぬ。」
「え?」
「断ることも…
叶わず。」
指先が、
きゅっと握られる。
「女は…
家のため
嫁ぐもの」
その言葉が、
重く、胸に落ちた。
「それって」
俺は、言葉を選びながら、
ゆっくり言った。
「今なら
ありえない。」
「そうなのですか?」
「結婚は
本人の意思…が」
「…。」
お七は、
驚いたように目を見開いた。
「女が…
選べるのですか?」
「当たり前…だろ。」
そう言いながら、
俺は、
この言葉が、
どれだけ新鮮かを思い知る。
「…」
お七は、
しばらく黙ってから、
小さく笑った。
「それは…
夢のよう。」
その笑顔が、
胸に刺さった。
「向こうでは
男が…決め
女は従う」
「…」
「だから…
わたくし
川へ」
——逃げたんだ。
浪人から、
運命から。
俺は、
内心、少し安堵している自分に気づいた。
——愛してない。
でも、
それを喜ぶ資格は、
俺にはない。
「辛かったな」
「はい」
短い返事。
それだけで、
十分だった。
「今は」
俺は、少しだけ、
前のめりになった。
「ここでは
誰も
無理やり
決めない。」
「…」
「お七が
どう生きるか
どう選ぶか
自分で決めていい。」
お七は、
ゆっくり、頷いた。
「ともき様」
「なに…?」
「この世に
来られて
よかった。」
その言葉が、
静かに、
胸に染み込んだ。
その夜、
一人になってから、
俺は考えた。
——残念だった。
——でも、救われた。
——怒りもあった。
——過去の時代に。
男尊女卑。
家の都合。
本人の意思のない人生。
「同じ日本でも…
全然違うな。」
そして、
そんな時代を生きてきた彼女が、
今、
この部屋で笑っている。
それだけで、
俺は、
少しだけ、
この世界を誇らしく思った。
——まだ、答えは出ない。
でも、
この人の人生を、
もう一度、
誰かが決めることだけは、
絶対にさせない。
そう、
心の奥で、
静かに誓った。
その日、
俺はバイトの準備をしていた。
「俺の部屋…
片付けてくれたりする?」
「はい…
お任せください!!」
そう言って、
お七は、俺の部屋に入っていった。
——少し、嫌な予感がした。
でも、
口には出さなかった。
お七は、
畳に散らばった服を畳み、
机の上を拭き、
棚の中も、丁寧に整理していく。
「ともき様の…
お部屋」
小さく、呟く。
「物が…多うございますね。」
現代人ですから。
棚の奥。
ゲームソフトのケースに紛れて、
一枚のDVDケースがあった。
派手な色。
大きな文字。
人の写真。
「?」
お七は、首を傾げる。
「これは…
芝居の絵?」
裏表を、
じっと眺める。
「“大人向け”…18?」
意味は、
分からない。
家庭用ゲーム機。
お七は、
これまで、
「映る箱」として認識していた。
「これに
入れるので…しょうか。」
カチリ。
軽い音。
画面が、
切り替わる。
次の瞬間。
——音。
部屋に、
想像以上に、はっきりと。
「っ!?」
お七は、
飛び上がった。
画面を見る前に、
音だけで察してしまう。
「な、なんと…!!」
顔が、
一気に赤くなる。
「と、止めねば!」
リモコンを、
震える手で掴む。
「こ、ここ…?」
音が、
止まらない。
「っ…!」
焦る。
ようやく、
再生停止。
部屋に、
静寂が戻った。
「…」
お七は、
その場に、ぺたんと座り込んだ。
「これは
見てはならぬ…もの。」
耳まで、
真っ赤だった。
「あれ…?」
そのとき。
ガチャ。
部屋の扉が、
開いた。
「あ…。」
「お七…?」
視線が、
DVDケースに、
一瞬、落ちる。
理解。
「あー…」
空気が、
固まる。
「も、申し訳…ございませぬ!!」
お七は、
深く、頭を下げた。
「勝手に
触れて…しまい」
声が、
震えている。
俺は、
顔が熱くなるのを感じた。
「い、いや…。」
頭を掻く。
「俺の…管理が悪い」
——最悪だ。
「気にしなくて…いいよ。」
俺は、
できるだけ、
軽く言った。
「誰でも…
間違うし」
「ですが」
「ほんと」
DVDを、
さっと棚に戻す。
「見なかった
聞かなかった
それでいい。」
お七は、
おずおずと、
顔を上げた。
「ともき様…。」
「ん?」
「大人とは…
難しきものなのですね。
」
——違う意味で。
俺は、
苦笑いした。
「まあ…
そうかも」
その後、
部屋は、
見違えるほど綺麗になった。
机の上。
床。
棚。
「ありがとう」
「いえ」
お七は、
まだ少し、
頬が赤い。
俺は、
心の中で誓った。
——もう少し、
ちゃんと生きよう。
少なくとも、
この人の前では。
一人になってから、
俺は、天井を見つめた。
恥ずかしかった。
情けなかった。
でも。
謝ってくれて、
逃げずに向き合ってくれた。
それだけで、
この人が、
どれだけ真面目か、
改めて分かった。
「大人…か」
そう呟いて、
目を閉じた。
——まだ、俺は、
胸を張って名乗れない。
けれど、
少なくとも、
この人の信頼を、
壊さない大人でいたい。
そう、
強く思った夜だった。
その朝、
家は、驚くほど静かだった。
父と母は、数日前から旅行に出ている。
弟も、友達と泊まりがけで出かけた。
「……」
久しぶりに、
本当に、
誰もいない家。
俺は、自室で、
大学時代の友達とオンラインゲームをしていた。
ヘッドセット越しに、
聞き慣れた声。
「おーい、村山君、そこ行ってくれー!」
「無理無理、囲まれてる!」
指だけが忙しく動く。
リビングでは、
お七が、一人で座っていた
棚から引っ張り出したのは、
俺の高校時代の日本史の教科書。
少し色あせた表紙。
「日本…史」
ゆっくり、ページをめくる。
「?」
数行読んで、
ぴたりと止まる。
「この字…
読めませぬ」
漢字。
それも、
現代用に整理された、難しいもの。
「寛永…
何年?」
指でなぞりながら、
首を傾げる。
「昔の文字とは…
随分違う。」
眉が、
しゅん、と下がった。
俺は、
ふと、その様子に気づいた。
画面の中では、
仲間が叫んでいる。
「村山君? どうした?」
「ごめん…
ちょっと…抜ける。」
「え、今いいとこ!」
「すまん!!また…後で」
俺は、
コントローラーを置いた。
—今の方が、大事だ。
「お七」
「は、はい」
俺は、
教科書を覗き込む。
「どこ?」
「ここに…ございます。」
指差す先。
「ああ
それ“鎌倉”。」
「かま…くら。」
ゆっくり、
口に出す。
「なるほど」
「この字は
こう読む」
紙に、
簡単に書いてみせる。
「へんと…
つくり」
「!」
お七の目が、
ぱっと輝いた。
「なるほど…
意味が
分かり申す!!」
「昔の漢字と
少し…形が
変わってるだけ」
「この世の…文字
理に適っております。」
本気で、
感心している。
「もう一つ
教えていただけますか?」
「いいよ」
「こちら」
一文字、一文字、
丁寧に。
お七は、
何度も頷き、
何度も書く真似をする。
「楽しい」
ぽつり。
「?」
「学ぶこと
こんなにも
楽しいとは」
その顔は、
奉公の顔でも、
遠慮の顔でもなかった。
ただの、
二十歳の女性の顔だった。
「俺」
少し、
照れながら言う。
「教えるの
下手だけど」
「いいえ!!」
お七は、
真っ直ぐ言った。
「ともき様は
良き師に…ございます。」
その言葉が、
胸に、
すとん、と落ちた。
——誰かの役に立つ。
それは、
派遣でも、
フリーターでも、
ちゃんとできることなんだ。
二人で、
並んで座る。
教科書と、
メモ用紙。
外では、
風の音。
ゲームの勝敗なんて、
どうでもよかった。
「また…
教えていただけますか?」
「もちろん。」
この時間は、
どこか、
学校の放課後みたいで。
でも、
それ以上に、
大切なものに、
変わりつつあった。
夕暮れ。
窓の外が、ゆっくりと藍色に染まっていく。
今日は、
本当に二人きりだった。
食卓には、
智樹が作った簡単な夕食。
味噌汁と、焼き魚と、ご飯。
「いただきます」
「いただきます」
静かな声が、
重なる。
智樹は、
冷蔵庫から瓶を取り出した。
「今日は…
少し呑むぞ。」
「それは…
お酒ですか?」
「日本酒だよ」
「にほんしゅ…。」
興味深そうな目。
「少し…だけ
なら。」
「本当に…
少しだぞ。」
小さな盃に、
ほんのわずか。
お七は、
恐る恐る口をつける。
「…」
一瞬、目を見開き。
「あ…。」
「どう?」
「思いのほか…
甘く…ございます。」
少し、
嬉しそう。
「もう…一口」
「いや…
それ以上は。」
「大丈夫…にございます。」
——危ない。
でも、
もう少し酔いが回っていたのは、
俺も同じだった。
「ゆっくり…
な」
結局、
盃は、何度か満たされた。
「ともき…様。」
呼び方が、
少し、柔らかい。
「はい…?」
「この世の…
お酒は…
人を
正直に
いたしますね。」
頬が、
ほんのり赤い。
視線が、
近い。
「お七…
もう…飲むな。」
「はい…。」
でも、
すでに、遅かった。
言葉が、
途切れる。
沈黙が、
妙に心地いい。
智樹は、
無意識のうちに、
お七の手に触れていた。
「…」
お七は、
逃げなかった。
むしろ、
少しだけ、
身を寄せる。
「…」
心臓が、
うるさい。
——やめろ。
——やめなきゃ。
そう思うのに。
視線が、
絡む。
息が、
近い。
「お七」
名前を呼んだ、その瞬間。
智樹は、
衝動的に、
唇を重ねていた。
——熱い。
短く、
でも、確かな接吻。
時間が、
止まったようだった。
「あっ…。」
智樹は、
すぐに、離れた。
「ごめん…!!」
立ち上がり、
頭を抱える。
「俺…は
何…やって!!」
やってしまった。
完全に。
お七は、
しばらく、
黙っていた。
そして。
「…」
顔を、
両手で覆う。
「は…恥ずかし…。」
声が、
小さい。
でも。
指の隙間から見える表情は、
赤く、
柔らかく、
どこか、満ちていた。
「嫌…では
ございませぬ…。」
智樹は、
言葉を失った。
「ただ…。」
お七は、
少しだけ、真面目な声になる。
「心が…
驚いて…おります。」
「本当に…
ごめん。」
「…」
小さく、
首を振る。
「ともき様…
今宵は
良き…夢を。」
それ以上、
何も言わなかった。
二人は、
少し距離を置いて、
布団に入った。
眠れるはずもない。
唇の感触が、
まだ、残っている。
——越えてしまった。
でも、
後悔だけじゃない。
恥ずかしさと、
温かさと、
確かな想いが、
胸に残っていた。
これは、
もう、
元には戻れない。
けれど、
壊れてもいない。
ただ、
次の言葉が、
必要になっただけだ。
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