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別れ話『君を守る為に最後のキスを』~a×s~
Side佐久間
はじめてしたキスは緊張で震えていた。
練習室で二人きりになった時、阿部ちゃんがそっと近づいてきて、
「佐久間、目を閉じて」
と優しく言った。唇が触れ合った瞬間、心臓が飛び出しそうなくらいドキドキして、思わず「あ、阿部ちゃん…」と小さく呟いた。
「大丈夫?」
「うん、ただびっくりしただけ」
「佐久間がよかったら、また…」
あの日、おれたちは恋人になった。
阿部ちゃんの温かい手に包まれて、これまで感じたことのない安心感に包まれた。
二度目のキスは甘かった。
コンビニで買ったいちごのガムを噛んでいた阿部ちゃんの唇は、甘くて優しくて、おれは夢中になってしまった。
「佐久間の好きな味にしたんだ」
「覚えててくれたの?」
「佐久間のこと、全部覚えたいから」
そんな阿部ちゃんの言葉に、胸がきゅんとなった。こんなにも大切にされているんだと思うと、嬉しくて涙が出そうになった。
それから、数え切れないほどキスをした。
レッスン後の空っぽのスタジオで。
お互いの部屋で猫たちと過ごしながら。
移動車の後部座席でそっと手を繋いだ時。
散歩道で夕焼けを見上げながら。どんな時でも、おれたちは愛を確かめ合うようにキスを重ねてきた。
――――――――――――そして、最後のキスは…
「こんなことになるなんて、ね…」
小さく呟いた声は、阿部ちゃんには聞こえない。
いつものように、おれの腕の中で穏やかに眠っているから。
今夜もおれに甘えるように寄り添って、「佐久間」って名前を何度も呟いていた。
「ん…佐久間…好き…」
熱い腕に抱かれながら、眠りながらもおれの名前を呼んでくれる。
こんなにも愛されている証を、この身体に刻みつけておきたかった。
愛している、いや、『愛していた』という過去になってしまう前に。
眠る阿部ちゃんの顔を愛しげに撫でる。
普段の真面目な表情とは違う、安らかで無防備な寝顔。
優しい瞳の奥に見えるいつもの温かさを思い出して、おれは静かに目を閉じた。
長いまつげに隠れた瞳から、また明日も笑顔を向けてもらえるはずだった。
でも、それはもう叶わない。
こんなにも信頼してくれている阿部ちゃんを、おれは裏切ろうとしている。
最低だな、気づくのが遅すぎた…。
まぶたの裏に、昨日のやりとりが思い出される。
事務所のスタッフから、個別に呼び出しを受けた時点で気づくべきだったのかもしれない。
会議室で単刀直入に言われた。
『佐久間さん、阿部さんとの関係について相談があります。ファンの方々から、心配の声が寄せられています。グループの今後を考えると、プライベートでの交際は控えていただいた方が…』
椅子に座ったまま固まっているおれの前に、スタッフは資料を広げた。ネット上の声を集めたものもあった。
『佐久間くんが阿部ちゃんにひっつきすぎて心配』
『阿部ちゃん騙されてない?』
『純粋な阿部ちゃんを守りたい』
…匿名の心配する声が並んでいる。
『阿部さんを心配するファンの声です。皆さん、阿部さんが変わってしまうことを恐れているんです。このまま続けば、佐久間さん自身にも悪い影響が出る可能性があります』
そして、追加の資料。
『更に佐久間さんには今まで通り、純粋で可愛らしいキャラクターでいてほしいという声が多数寄せられています。恋愛によってそれが失われることを、ファンの方々は危惧しています。阿部さんには何も言いません。佐久間さんから自然に距離を置いてもらえれば、阿部さんも気づかないでしょう』
スタッフの冷たい声が、会議室に響いた。
おれは何も言えずに座り続けていた。
ファンのみんなが心配してくれているという現実を突きつけられると、言葉が出てこなかった。
『もちろん、仕事に支障をきたすようなことは避けてください。でも、プライベートでは一切関わらないように。これはファンの皆さんの声を受けた、正式な要請です』
資料の厚さが、おれたちの関係の重さを物語っているようで、悲しいというより、やっぱりこうなるんだなという諦めの方が強くこみ上げてきた。
(阿部ちゃんがファンに愛されてるってことかな…。おれなんかと付き合ってたら、阿部ちゃんに迷惑かけちゃう)
結局全ての要求を飲んだ。
その代わり、阿部ちゃんには絶対に迷惑をかけないという約束を交わし、その足で今まで一緒に過ごしていた時間も全て封印することになった。
あの時、おれは何を考えていたのだろう。
阿部ちゃんのためと思っていたが、本当はただ逃げたかっただけかもしれない。
現実と向き合うのが怖くて、一人で決めてしまった。
そう、本当にこの腕以外、全部が阿部ちゃんの傍からはもう、無いのだ。
「優しすぎる人…、これから一人で抱え込まないでよ…」
そっと笑いながら、それでも阿部ちゃんを撫でる手だけは止まらない。
優しくて、真面目。
どうしようもなく思いやりがあって、時々見せる天然なところが可愛くて。
猫への愛情も、メンバーへの思いやりも、ファンを大切に思う気持ちも。全部が愛おしくて、どうしようもなく惹かれていた。
でも、おれはそんな阿部ちゃんを。どうしようも無いほど。
「好きだよ…阿部ちゃん…」
小さな呟きと共に、僅かに開いている唇をふさいだ。
静かにベッドから離れ、パーカーを身につける。
阿部ちゃんの香りが充満する部屋から、足早に出口へと向かった。
もう、ここには来ない。
扉に手を掛けながら、もう一度ベッドの方を振り返る。
人型に盛り上がるシーツに、鼻の奥がツンと痛くなった。
未練なんて、溢れるくらいある。
今だって、出来ることなら眠る阿部ちゃんをたたき起こして全てをぶちまけてやりたい。
『佐久間、どうしたの?』
『実は事務所から言われたんだ。阿部ちゃんとは距離を置けって』
『そんなの関係ない。佐久間とおれは佐久間とおれだ』
そんな会話を想像してしまう。
きっと阿部ちゃんはそう言ってくれるだろう。
でも、それが阿部ちゃんを苦しめることになる。
おれ一人が我慢すれば済むことなら、それでいい。
けど、それではダメなのだ。
そうすれば、阿部ちゃんは例のスタッフに激怒するだろう。
距離を置くように指示されたのは事務所の上層部だろうから、下手をすれば阿部ちゃんの立場にまで影響するかも知れない。
そんなことになったら、一番傷つくのは阿部ちゃんだ。
穏やかに笑っていながら、その実ひどく繊細で傷つきやすい人だから、おれには「大丈夫だよ」と笑いながら、部屋で一人になれば眠ることすら忘れてひたすら苦悩し続けるだろう。
そんな阿部ちゃんを見るくらいなら、おれから終わりにしてやる。
ポケットから、携帯を取りだした。
この携帯に入っている阿部ちゃんとの思い出を、今夜中に全部消そう。
0時丁度。その瞬間、この携帯と共に阿部ちゃんとおれをつなぐ全てが、消える。
二人で撮った写真、何気ないやりとりのメッセージ、『おやすみ』の言葉。全部が愛おしくて、消すのが辛かった。でも、これも阿部ちゃんのため。
そう自分に言い聞かせる。
「はあ…バカだなおれ…」
おれが居なくなった後、阿部ちゃんはおれを探すだろうか。
たとえ探したとしても、あのスタッフがいる限り二度とプライベートでは会えないだろう。
どうか、恋人だったおれのことは忘れて欲しい。
一時の夢だったのだと。
そうして、ファンに愛されるアイドルとして幸せになってくれれば。
陳腐な恋物語のようなことを、何度も考えた。
その度に、胸は針金を差し込まれたようにキリキリと痛んだ。
胸の奥の扉の向こう。
泣き叫ぶおれが居た。
好きなんだ。
阿部ちゃんだけが好きなんだ。
もう本当に、どうしようも無いほど。
理性が必死になって扉に鍵を掛けたけど、聞こえてくる声はナイフのように胸を抉った。
「もう…どうしようも、無いってのに…っ」
パーカーの上から胸を押さえる。
痛みは、より一層ひどくなった。
携帯の画面が最後の瞬間を告げる。
滲んで見えるそれに笑みをうかべながら、力を抜いた右手から携帯を置いた。
これで、全て、終わった。
「元気でね…恋人の阿部ちゃん…」
吐息のような声が部屋に落ちる頃、おれの姿はそこになかった。
はじめてしたキスは緊張で震えていた。
二度目のキスは甘かった。
繰り返したキスの分だけ、この身体には阿部ちゃんの愛が詰まっている。
「あっ…はあっ…う、うぁ…っ」
パーカーで誤魔化そうにも、瞳から溢れ出る想いは止まらない。
「あっ…あぁっ…っ!!」
最後のキスは…