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テラスから校舎に入り、そのまま体育館のトイレに駆け込む。体育の授業や部活動がなければ、人っ子一人いない体育館トイレ。昼休みの今もやはり人の気配はない。典晶はホッと息をつくと洗面台にバックを置いた。
「おい!」
ファスナーを開けてイナリを取り出す。イナリは口元に付いている牛乳をペロリと細い舌で拭った。狐の表情が人間のように変化するのか分からないが、イナリの顔からは反省の色は見られない。それどころか、物珍しそうに男子トイレをビー玉のような丸い瞳で見渡していた。
イラッとした典晶は力任せにイナリを振ると、こちらに注意を向けた。
「約束しただろう、学校に連れて行く代わりに勝手な行動はしないって!」
コクリとイナリは頷く。やはり表情の変化は読み取れない。
「頼むぜ~。ヘタにお前のことを詮索されたら、色々と厄介なんだよ」
田舎の高校生は基本暇人が多いのだ。もし、典晶が学校にイナリを連れてきたとしたら、何かしらの騒ぎになりかねない。騒ぎが大きくなれば、当然教師の目にも触れるし、下手をすれば停学になるかもしれない。
子犬のように細い声で鳴くイナリを洗面台に置いた。
イナリは申し訳なさそうに頭と尻尾を下げ、上目遣いにこちらを見上げてくる。縋るようなイナリの視線を受けると、小動物を苛めているかのような罪悪感に苛まれる。
「確かに、ずっとこのバックにいるってのも酷な話だよな。かといって、学校で野放しにはできないし」
高校生といえどまだまだ子供だ。イナリのような子狐を見てイタズラをするヤツがいるかも知れない。可哀想だからと言って、ここで放すわけにもいかないだろう。それに、通報でもされて保健所に連れて行かれたら、それこそ大事になる。やはり家に置いてくるのが一番だったかも知れない。
「コンッ!」
物思いに耽っていると、突然イナリが一声鳴いた。狭いトイレに、甲高いイナリの鳴き声が響き渡る。
「コラ! 止めろ!」
イナリの口を慌てて押さえた典晶。ふと目の前の鏡を見た典晶の動きが止まった。鏡越しに老人と目が合う。
「うわぁぁぁぁぁー!」
今度は典晶の絶叫がトイレに響き渡った。慌てて振り返った典晶の鼻先には、逆さまになった老人の顔があった。
「アワ……アワワワ………!」
逃げ場のない典晶は、イナリを抱きかかえると逃げるように洗面台に上がった。それでも、老人との距離は一メートルと開かない。
丸い顔をした老人は、逆さまの顔を一八〇度回転させたが、それでも異様さは何一つ解消されない。逆さまの顔もそうだが、何よりも老人の手足は長すぎた。右手を床に、左手を天井に付けた老人は、小さな体を天井に張り付かせていた。
「初めまして」
老人の口から飛び出した流暢な日本語に、典晶は再び叫びそうになる口を押さえた。鼻で息を吸い、落ち着いて老人を見つめる。
「コンッ♪」
抱きしめたイナリが嬉しそうに鳴いた。初めましてとでも言っているのだろうか。何と言っているのか分からないが、少なくともイナリはこの老人を敵だと認識していないことは確かだった。
「私は逆さ爺。蜘蛛爺とも呼ばれています」
「よ……妖怪……?」
「はい、その通りで御座います」
老人はスルスルと地面に降りてきた。腕だけが異様に長い小柄な老人だ。体のサイズは一メートルと少し。小学低学年ほどのサイズしかない。痩せ細った体にはボロボロの衣服を纏っている。
「私の住処に高貴なお方の気配を感じたので、挨拶をしに参った次第です」
「住処、高貴な方?」
イナリが再び鳴いた。高貴な方というのはイナリのことか。ここが住処と言う事は、逆さ爺はこの校舎に住み着いているのだろう。
「……美穂子の言っていた逆さまのお爺さんって、逆さ爺のことか」
なるほど、そのまんまのネーミングだ。
「はい。我ら妖怪は、普段は姿を隠していますが、夜になると少し人を脅かしたくなるもので……。時折、こうして姿を現して脅かしているのです」
典晶は息を整え、洗面台から降りた。突然の出現に少々驚いてしまったが、こうして話をしている分にはさほど悪い奴には思えない。
イナリはうなり声などを交えながら何かを言っている。逆さ爺はイナリの鳴き声に耳を傾けながら、コクコクと頷いている。彼女たちにしか分からない特別な言語でもあるのだろうか。
「なるほど、宝魂石を集めているのですね。少し前まで、此処には沢山の霊がいましたが、今は凶霊が暴れている為、皆怖がって隠れてしまってます」
申し訳なさそうに逆さ爺は頭を掻いた。
「凶霊?」
「はい、とても強い力を持った凶霊で御座います。此処は学校である為、多くの生徒が出入りします。妖怪は、学校に陣取ってその生徒に付いてくる霊から宝魂石を奪い取り生きているのですが、今は凶霊が他の霊を取り込み、どんどん力を増しているのです。何人かの妖怪が勝負を挑みましたが、逆にやられてしまいました」
「ウゲ……そんなに強いの? それって、どんな奴?」
「あなたと同じように、学生服を着た凶霊です。昨年、この学校で首を吊った霊が強い怨念で凶霊に転じました」
「それ、さっき聞いた黒井か……」
喉の奥で典晶は呻く。美穂子の言った通り、黒井の幽霊がこの学園を彷徨っているのだ。
「はい。今では殆どの妖怪が学園から逃げ去り、残ったのは僅かばかりの妖怪だけ。奴は今もこの学校の何処かを彷徨っているはずです。とてもとても恐ろしい奴です。くれぐれも、近づかぬように」
「……ああ、忠告ありがとう……」
典晶が頷くのと、昼休み終了のベルが同時だった。一瞬、ベルに気を取られて天井のスピーカーを見上げた典晶が視線を戻すと、逆さ爺の姿は見えなくなっていた。
「やっぱり、妖怪っているんだな。ま、神様がいるんだから、当然と言えば当然か」
それに母である歌蝶は、宇迦や八意の様な神様ではなく、どちらかというと妖怪に近いのかも知れない。先ほどは驚いてしまったが、もしかすると神様よりも妖怪の方が人間にとって余程身近な存在なのだろう。
極度の緊張で凝り固まった肩を解すように、典晶は首を回した。それを見たイナリが、一声コンッと鳴いた。狐の表情に変化はないが、その声は笑っているように感じた。
典晶と文也は連れだって高天原商店街を訪れていた。相変わらず閑古鳥が飛び回っているアーケードを抜け、神々が住まう別の高天原商店街に入った。
「美穂子の協力を取り付けたか。これで、宝魂石集めもはかどるな」
「美穂子は、ダンス部があるから、がっつり手伝うって訳にはいかないって言ってたけどね」
「別にいいんじゃね? 今の俺たちに足りないのは情報だし。俺と典晶で宝魂石を集めに走り回れば良いだけだ。まずはプールからか」
「そうなんだけどさ、それよりも気になる事があってさ」
「ああ、黒井か。それで、此処に来たわけか?」
「うん。時間を潰すついでに八意に相談しようと思ってね」
時刻は午後五時。
高校の室内プールは現在部活動中の為、典晶達部外者が入ることはできない。そこで、部活動が終わる夜までアマノイワドで時間を潰す事になった。
「凶霊って何なのか、俺はそれも知らないから。イナリは知ってるんだろうけど、これじゃね」
典晶は胸に抱いたイナリを見る。イナリは二人の視線を受けると、申し訳なさそうに頭を垂れる。
「だな。人に害をなすような幽霊が歩いているようじゃ、オチオチ勉強もできないぜ」
「良く言うよ、凶霊が居ようが居まいが勉強なんてしないくせに」
「アハハハ、そこはお前と同じだな。俺も勉強大嫌いだから」
「『も』をつけるな、『も』を。俺は勉強は嫌いじゃないぞ。ただ、できないだけだ」
「余計タチが悪いっつーの!」
まるで早朝の森の中を歩くような、清浄な空気が満ちている坂道。幅三メートルほどしかない道の両脇には、古い日本家屋が整然と建っている。そのどれもに怪しげな看板が下がっており、外から見ただけでは何を扱っている店なのか窺い知ることはできない。何を売っているのか無性に気になるが、中に入る勇気は持てなかった。所々にある脇道を覗くと、そこは怪しげなネオンが灯るお店が軒を連ねている。
「あっ」
アマノイワドの看板が見えてきたとき、文也が不意に声を上げた。胸に抱いたイナリもぴくんと耳を立て、腕の中で首を伸ばす。
長い階段から降りてくる一人の人物がいた。黒い水干に朱色の長袴を身につけた女性が、ゆっくりとした足取りで降りてくる。
白い肌に、赤いアイシャドウを入れた切れ長の瞳。血を吸ったように鮮やかな真紅の紅を差した唇は細く、ストレートの髪は身につける水干よりも遙かに黒く艶やかだった。首には緑色の曲玉を連ねたネックレスをしている。
彼女は胸に抱えた大きな紙袋の中身を気にしており、こちらの存在に気がついていないようだった。
アマノイワドの前で足を止めていた典晶と文也。ちょうど、女性もアマノイワドの前で足を止めた。ようやく典晶達の存在に気がついた女性は、こちらを見て細い目を僅かに見開く。
「貴方達は人間? もしかして、ここに用があるの?」
小さいが、良く響く声だった。
「え……、ええ」
真っ赤な顔をして文也が頷く。
「そう、じゃあ、お入り」
ニコリと笑う女性は、先にアマノイワドへ入った。
「有名な神様かな?」
典晶の問いに、イナリが大きく頷く。
名前は分からないが、雰囲気から察するにきっと高名な神様なのだろう。女性の後に続こうとした典晶の手を、文也が掴んだ。彼は心此処にあらずと言った感じで、ボンヤリと上気した顔でこちらを見つめている。
「どうした?」
明らかに様子のおかしい文也に、典晶は訝しがるように尋ねる。
「……惚れた」
「は?」
「だから、惚れた……。これは恋だ……。イヤ、愛だ! L・O・V・E、ラヴだ!」
「惚れたって、さっきの人に?」
「ああ! そうだ! 連絡先を聞いてくる!」
そう言って、文也はアマノイワドに入っていった。
「聞いてくるって、俺も行くよ!」
典晶も文也の後を追ってアマノイワドに入る。
「いっっっっっっったぁぁぁぁぁぁぁぁ~~~~~!」
整然と並ぶPCの間を悲鳴が突き抜ける。
「なぁ~~~にをするのじゃ! もちっと、優しくせい!」
「ったく、たまには呼べって言ったから呼んでやったのに、いちいち五月蠅いヤツだな」
「なんじゃと~! それが神様に言うべきセリフか!? それよりも先に、儂の身を案じる言葉の一つや二つをじゃな……だぁ~かぁ~らぁ~~~~、痛いと言っておるだろう!」
キンキンと響き渡る怒声。声の主は店主である八意だった。彼女は番台の横に腰を下ろし、すり切れたほっぺたに消毒されていた。
「八意、静かになさい。お客さんが来たわよ」
水干の女性が八意に声を掛けるが、反応を示したのは八意ではなく、彼女を消毒している青年だった。
「客!?」
素っ頓狂な声を上げた青年は、水干の女性を手を振って退けると、入口に立つこちらを見て目を丸くした。
「客って、人間か……?」
何処からどう見ても同じ人間。擦り切れたデニムパンツに白いプリントTシャツ。カチューシャで長い髪をオールバックにした青年。年は典晶達と同じか少し上くらいだろうか。こちらを見つめる双眸は透き通っており、強い輝き、意志が見て取れる。
「ムッ……イケメン……」
水干の女性を前にした文也が、いけてる青年を見て無駄な対抗心を燃やす。
八意の頬に消毒された脱脂綿を押しつけて、青年は腰を上げる。
「君達、もしかして道に迷ったの?」
突如として頭上から降り注ぐ声。典晶は驚いて見上げると、すぐそこに白い翼を広げた女性が浮かんでいた。
「………天使?」
典晶と文也は一メートルほど頭上に浮かぶ天使を見て、巨大な『?』を浮かべる。
金髪碧眼の天使は、イメージ通りの白い翼を生やしているが、その衣装は何処からどう見ても女子高生だった。しかも、その制服は体のサイズに合っておらず、胸はパツンパツンで可愛いお臍が剥き出し。さらに極ミニのスカートからは今にもショーツが見えそうだった。
「ハロ! 降りろ! お前のバカみたいな恰好を見て困惑してる! 月読、すぐに彼らを人間界に帰す準備を」
慌てた様子で青年が駆けて来る。水干を身につけた女性を青年は「月読」と呼んだ。もしかすると、あの『月読命』なのだろうか。
「これ! 那由多! そいつ等は高天原に迷い込んだのではない! 自らの意志で来たのじゃ」
「え? マジで? そんな物好きがいるのか? ってか、本当に客なの? マジであり得ない!」
「那由多、人のこと言えないでしょう?」
ハロと呼ばれた天使が、優雅に翼を羽ばたかせヒラリと地面に降り立つ。何処からどう見ても天使、いや、女子高生か。