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その日、花斗を寝かせ、一人皿洗いをしていた夜。
「ただいま~」
と、同居している姉が、声を弾ませて帰ってきた。彼女の顔の周りには、幸せオーラが浮かんでいる。
「お姉、どうしたの? やけに嬉しそう」
「うふふ、聞いちゃう~?」
姉はバックをソファにそっと置くと、頬を綻ばせたままそこに静かに腰かけた。
花斗が寝ていることを知っているから、そうしてくれたのだろう。
それから、姉はちょいちょいと私に手招きする。私は洗い物の手を止め、姉の隣に座った。
すると、姉はこちらに前のめりになり話し出す。
「ついに、新居が見つかりました~!」
「ええ!? おめでとう!」
姉は恋人の榎田龍翼さんと付き合い初めて五年。今は婚約者になった彼と、一緒に暮らす愛の巣を探していたのだ。
「……おめでとうって、言ってくれるんだ」
先ほどまで幸せいっぱいの笑みを浮かべていた姉は、急に眉を八の字にした。
ああ、憎い。幸せいっぱいの姉を、こんな顔にさせてしまう自分の存在が。
それで、私はため息交じりに、口を開いた。
「ごめん……」
「わわ、愛音に謝らせたかった訳じゃないの! こっちこそ、ごめん」
姉は顔の前でブンブンと手の平をこちらに向けて振り、謝ってきた。
謝る必要なんて、まったくないのに。
「それでね、引越なんだけど……急がなくていいからね」
姉は言いながら、優しい笑みをこちらに向けてくれた。
「私も引越は少しずつするつもりだし、この部屋の更新まではまだ一ヶ月あるから、それまでは住んでいてくれて構わないから」
姉は言いにくそうにしながらも、言葉を紡ぐ。それで、再びため息がこぼれた。
この部屋は、姉の契約している物件。私と花斗は、居候させてもらっているだけだ。
妊娠を告げた際に親に実家を追い出されたのが原因で、今の職場からほど近い姉の家に置いてもらった。
生活費は折半、しかし家賃は姉の全持ちだ。シングルマザーで時短勤務をしている分、給与が少ないからという姉の好意に、今まで甘えてきてしまった。
引越費用は痛い出費だ。花斗の未来のためにと毎月少しずつ貯めた貯金を、崩さないといけない。かといって、ここに住み続けるには家賃が高すぎる。
「いい加減、部屋探さないと」
ぽつりとこぼすと、姉はバツが悪そうな顔をした。
「竜翼にも、同居提案してみようか?」
「やめてやめて、それは勘弁!」
結婚間近な二人の愛の巣に、子連れの妹が入り込むなんて野暮すぎる。
「でもさ、これでも責任感じてるんだよ?」
「え?」
はっとして姉を見ると、困惑したような笑みを浮かべていた。
「愛音を妊娠させた相手、私が勧めたマッチングアプリで出会った人なんでしょ?」
「う……」
「だからさ――」
言いかけた姉の言葉を、私は慌てて遮った。
「お姉は悪くないよ! 実際、お姉はあのアプリで竜翼さんと出会えた訳だし。悪いのは、あの日彼に体を許してしまった、私」
「そうは言っても、ねぇ……」
「いいの! お姉がうまくいっていて、私は嬉しいよ?」
言いながら、笑顔を張り付け姉に向けた。その言葉は本心だったし、後ろめたさを感じている姉に申し訳なかったのだ。
「……ありがとう。愛音は良い妹だ!」
姉はそう言うと、複雑そうに笑う。だけど、気持ちをすぐに切り替えるかのように「さて、と」と立ち上がる。
「皿洗い、残りは私がやっておくよ。愛音はもう寝な~」
姉は言いながら腕捲りをして、シンクの前に向かう。
今度は私が複雑な笑みを浮かべて、姉に「ありがとう」と声をかけた。
*
花斗を起こさないように、そうっと寝室のドアを開ける。もっとも、ここは私と花斗の部屋になってしまったのだが。
スヤスヤと眠る花斗を踏まないように気を付けて、床に敷いた布団に寝転ぶ。
今日は珍しく花斗の寝相が良い。私の寝るスペースが空いている。
はだけてしまったブランケットを花斗の上に掛け、私は夏用の薄い布団をかぶった。
暦の上ではまだ春だけど、このごろはすっかり暑い。けれど、夜は冷える。
風邪でも引いてしまったら、職場にも姉にも迷惑をかけてしまう。
「おやすみ、花斗」
隣で寝息を立てる息子に声をかけると、ふと枕元に置いてあった花斗のおもちゃが目に入った。
「ちゃんと片付けなさいって言ったのに」
手に取った飛行機のおもちゃは、今日、壱月が拾ってくれたものだ。
「壱月……」
連絡先をもらったにもかかわらず、私は何もできていない。言いたいことが多すぎて、何をどう伝えたらいいのか分からなくなってしまったのだ。
息子の相手をしながら家事をすれば、壱月に連絡する暇なんて無い。
そう自分に言い訳をして、今日は連絡するのをやめてしまった。
そもそもあの時、壱月は私のことをどう思っていたんだろう。何を考えていたんだろう。今はどう考えているんだろう。
それを聞くのも、ちょっと怖い。
彼との別れは、いつも最悪だったから。
コメント
1件
あ、この話……めっちゃ胸にくるわ。姉の新居が決まって嬉しい反面、居候の身としての引っ越しのプレッシャーとか、謝らせてしまった罪悪感とか、愛音の抱えるものがひしひしと伝わってきた。特に「お姉は悪くない」って笑顔張り付けて言うところ、ぐっときたな。あと最後の壱月のところで「別れはいつも最悪だった」って一文がすごく刺さる。続き気になる……!