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私は気がつけば、高杉家を出て実家にいた。
高杉家から走れば二十分くらいの距離だ。
木造平屋建ての小さな家は、私が生まれた時にはもう古かった。
庭は父が生きている時までは、母が家庭菜園を楽しんでいたが今は雑草が生え放題だ。
通夜の後の会食の最中、私がいなくなった事で騒ぎになっているだろうか。
散々、実家に帰りたいと義母にお願いしても許されなかった。
それなのに、多くの人が出入りする高杉家を抜け出し実家に戻るのは簡単。
高杉家から逃げ出したいと思いながらも、実家の母とも向き合いたくなかった気持ちと私は向き合う。
母は体調不良という事で実家で臥せっていて、告別式だけ来る予定だった。
私が持ち歩いている鍵で扉を開けると、いつもより顔色の良い母がエプロン姿のままでボーッと窓の外を見て座っていた。
周りにはゴミが散乱していて、母を一人にしてしまった事への罪悪感が波のように押し寄せる。
アラフィフには見えない若々しさをしていた母は父と共に消えた。
そこにいるのは、髪はボサボサで艶がなく、唇もカサカサの老婆だ。
顔色は良いが目も虚ろで、今、私が頼って良い相手ではないと分かっている。
でも、辛い時にやはり母の顔が浮かんで私は自然とここに来ていた。
「お母さん、私⋯⋯。逃げてきちゃった。海斗が愛子と浮気していて⋯⋯」
私が口を開くと、母が私をチラリと見る。
瞬間、倉庫で見た光景が甦り、吐き気を催し洗面所に走った。
今日も朝から何も食べていないから、黄色い胃液しか出てこない。
「⋯⋯そう。だから、お父さんは海斗さんと別れた方が良いって言ってたのね」
母の呟きにヒリヒリする喉を抑えながら、目を見開く。
母は先程までの虚な感じは一切なく、鋭い眼差しで私を見ていた。
「お父さんが、海斗とは別れろって? そんな話、聞いた事ない!」
私は母に詰め寄った。
掴んだ母の肩はトランプのように薄くなっていて、一瞬血の気が引く。
「お父さんは浮気の事実知ってたんじゃないかしら?」
母の推理が確かなら、海斗は結婚前から愛子と浮気していたと言うことだ。
部活も一緒で親友と呼べる愛子だが、私は彼女を煩わしく思うことが多かった。
何故か彼女は私の持ち物を真似したり、私が他の子と話すのをよく思わない。
いわゆる独占欲の強い女子だが、海斗に対して彼女が特別な感情を持っていた感じはない。
海斗も恋人の親友に手を出すような男には見えなかった。
でも、教育実習をしていたクラスの子であった私に手を出しているのだから、常識的ではない。
同年代の子が幼く見える中で大人な彼に恋をして、教育実習の終わりと共に告白された。
初めての恋、初めての彼氏に周りが見えなくなっていたかもしれない。
海斗がどんな人だったか、結婚してからの彼が最悪過ぎて思い出せなくなっていく。
「結婚なんて、しなきゃよかった。地獄だよ」
私の言葉に母がすっとキッチンから包丁を出して来た。
「じゃあ、一緒に死にましょう。二人でお父さんのところに行くの」
母の目が潤んでいる。結婚してから一度も会いに来ていなくて、便りも殆ど出せなかった。
やっと現れた娘は豚のように太って、今が「地獄」だと言う。
「お母さん、ごめん。私、まだ死にたくない。お母さんにも死んで欲しくない」
私は母から包丁を取り上げる。
「生きてやりたい事なんてないでしょ。私にはないわ。もう、何もないの」
頭を抱えて泣き叫ぶ母に私は涙が溢れた。
どうして「今が幸せ」だと笑顔で実家に帰って来れなかったのだろう。
何一つ親孝行のできなかった私にとって、幸せな姿を見せることがせめてもの親孝行だったのに⋯⋯。
「お父さん、何で死んじゃったの」
思わず漏れた言葉に私は子供のように涙がポロポロ溢れる。
「今から、海斗さんを殺しに行こう! きっと、アイツがお父さんを轢き殺したんだよ」
私は母のとんでもない妄想に心臓が止まりそうになった。
いくら何でも近所の海斗が父を轢いていたら露見するだろう。
そもそも海斗が人を轢いて平然とその娘と結婚する男とは思いたくない。
「浮気する奴は人も平気で殺すよ」
母が私の肩に掴み掛かってくる。
精神科で母は統合失調症の診断されていたが、それによる被害者妄想、誇大妄想だろう。
「お母さん、落ち着いて。流石にそれはないよ」
母が興奮しているので、私は逆に落ち着いて来た。
「この辺で悪い事やって揉み消せるなんて、高杉家くらいだろ」
母の言葉に少しの真実味があって怖くなる。
この辺りは観光地ではないから、他所の車など殆ど来ない。
人を轢いて破損しただろう車はどこに行ったのだろう。
防犯カメラも不鮮明でナンバーが確認できないと警察は言っていたが本当だろうか。
私は首がもげそうなくらい首を振った。
私が父を殺した殺人犯と結婚したなんて可能性あってはいけない。
警察はきっと轢き逃げの犯人を探してくれている。
今は生きている私と母が前を向いて進まなければいけない。
深呼吸して、今までのことを思い返す。
私は何がやりたかったのか。
お父さんが死ななかったら、今頃、大学生になって教師を目指していた。
「お母さん、私、大学に行きたい」
私の言葉に母の目に光が宿ったのが分かったが、すぐに前言撤回した。
「なんて、何言ってるんだろ。今のなし」
「なしじゃない。行きなさい! まだ今年度の試験まで時間はあるわ」
確かに今年度の大学受験までは四ヶ月ほど時間があった。
「でも、私、高杉家の嫁なんだよ。お金だって⋯⋯」
「お金なら出すから⋯⋯。お願い、自分の人生をやり直して!」
母の目に力があるのはいつぐらいだろうか。
ずっと会っていなかたのに、最高に不幸せだと現れた娘。
「私に気を遣わないでね。私はもう入院しようと思うの」
「入院? まだ介護施設に入るのは早過ぎるよ」
「介護施設? 私は精神病棟に入るのよ。自分でも分かってるの、もうどこかおかしい。放っておけば自殺の危険があるからすぐ入院できるわ」
母がいつになく冷静で私は鳥肌がたった。
これは父が死ぬ前にいつも冷静沈着だった母の姿だ。
「精神病棟って⋯⋯お金なんてどこにあるの?」
「私のヘソクリ! ふふっ、美香、お父さんの遺産が少なくてびっくりしたでしょ。あの人も外で色々してたの。あんな事がなくても、私はお父さんの定年退職と同時に離婚するつもりだったのよ」
「な、何言って!?」
言葉が続かない。
私の目から見て私の両親は仲睦まじい夫婦に見ていた。
母の今の言葉は精神症による虚言? 父を失ったのが苦しすぎておかしな妄想をしている?
でも、母はいつになくしっかりした目で私を見ている。
「美香、覚えなさい。この世界は騙し騙されの繰り返しなの。この人なら騙されても良いと思える人が現れない限り結婚はしない方が良いかもしれないわね」
母が昔のように笑いながら快活に言った言葉は私を混乱させた。
結婚? しない方が良い?
私はそもそも高杉海斗を完全に信用した状態で結婚した訳ではない。
初めてを捧げた人だけれども、偶に連絡がつかない時や態度がおかしい時は随分前からあった。
それなのに、私は自分自身を彼を愛し信用していると思い込ませた。
今、いつになく母がしっかりした口調で私を見定めて大切な事を言っている。
「離婚したい。本当は海斗が変だってずっと前から気が付いてたよ⋯⋯」
喉はカラカラでも言葉を紡ぐ。
私が弱みを見せれる唯一の存在である母。
こんなに弱ってボロボロの彼女に私は縋った。
母親は偉大。何故なら私の記憶には、いつも私を導いてくれた母の姿が焼き付いている。
ガラッと開きぱなしになっていた扉が開く。
そこには私たちに見下すような視線を浴びせる海斗が立っていた。
コメント
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みぅです🖤🤍 第5話、一気に引き込まれました……。実家に逃げ帰った美香と、ボロボロになりながらも鋭さを失ってないお母さんの対比が切なすぎる。「一緒に死のう」って包丁を出すシーン、心臓が止まるかと思った。でも「死にたくない」って言えた美香、そこから「大学に行きたい」って前を向き始めたのが尊い。最後の海斗の登場、ゾッとした……続きが気になって仕方ないです🥀