コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
アベルとフェーデが客間につくとガヌロンともう一人、金髪の少女が座っていた。
「鶏鳴卿、ようこそおいでくださいました」
そうして座るアベルの言葉にガヌロンが微笑み、頭を下げる。
「いや、先触れもなく。急に顔を出して申し訳ない」
父が、頭を下げる?
アベルの隣に座ったフェーデが困惑する。
それはこれまで見ようともしなかった父の側面、その物語に目をこらすと急に胸が痛んだ。
凍り付き、砕けた心。
ぼろ切れのような表紙。ページはところどころ破れて失われている。
なぜこれで動いているのかわからない。
壊れているはずの物語が壊れたままに動いているのだ。
戦場で何度となく耳にしたガヌロンという男を、この日アベルは初めて見た。
歳は壮年、大柄な体躯で、顔には皺が刻まれつつあった。
アベルとの年の差は二十はあるかもしれない。
フェーデを虐待し、戦場で数々の友を殺した最大の敵は穏やかに微笑んでいる。
警戒するアベルにガヌロンが続けた。
「私がガヌロン・ヴィドール、こちらが娘のアンナ・ヴィドールです」
「よ、よ、よろしくお願いします」
金髪に翡翠の瞳のアンナがガタガタと震えている。
フェーデから聞いていた自信に溢れた義姉の姿からはかけ離れていた。
高いドレスで着飾ってはいるものの、その容姿はどちらかというと村娘に近い。
城にやってきた当初の死んだような瞳をしていたフェーデとは対照的に瞳は揺れ、手の震えを隠せていない。これはアンナの精神が未熟であるというよりも、恐怖の鮮度が高いからだ。
諦観による心の防御が間に合わず、壊れかけている。
平和な生活を送っていた者が突然窮地に立たされるとこのようになるのだ。
明らかにガヌロンに何かされているのだが、指摘できない。
「道中、エピスリ通りを通って来たのですがまことに盛況ですな。商人達の声の飛び交う活気、我がヴィドール領にも分けてもらいたいものです」
「お褒めにあずかり光栄です。鶏鳴卿」
「はっはっは、どうぞ気軽にガヌロンとお呼びください。お義父さんでもいいですよ」
丁寧な言葉遣い、礼儀のある応答。
おかしな言動は何もない。
裏で振るわれる暴力がどれだけ匂い立っていても、誰もそれを指摘できない。
ああ、悪が悪らしく振る舞ってくれたなら、どれだけ楽か。
この男はアベルが生きてきた時間よりも長く領地を運営してきたのだと思い知らされた。
対してアベルは平民から王子になったばかりである。
(なるほど。アベルが元は平民の魔法使いというのは事実らしい)
(正しい言動、正しい感情、正しい礼儀。正しいだけのつまらぬ凡夫よ)
僅かなやりとりでアベルを測ったガヌロンが、カードを切る。
「実はお恥ずかしながら、ひとつ取り違いがありまして」
立ち上がり、大柄な両手でアンナの細い両肩を押さえ込む。
アンナの翡翠の瞳が絶望に染まった。
「アベル殿下にお贈りする娘はこちらのアンナ。フェーデでは御座いません」
は、何を言って。
あまりのことにアベルとフェーデが固まった。
取り違えた。取り違えたと言ったか?
父親が、娘を、間違える。赤子ならばともかく十歳と十四歳の娘を?
そんなことがあるわけが。
「誠に申し訳ない。あの日は急いでいたもので、顔も似ていますからね。ほら、そっくりでしょう?」
アベルは知っている、アンナは連れ子だ。
フェーデとは血のつながりもなく、顔だってそこまで似ていない。
だが、似ていないと言えば礼儀を失する。
そのようなことを言えるわけがない、まして本人の前では。
ガヌロンは口では何度も謝っているが、まるで誠意を感じなかった。
それもそのはず。
これは謝罪ではなく、攻撃なのだ。
そうだ。戦場のガヌロンとはそういう男だった。
人間の道徳心を利用し、わかりきった嘘で混乱させ、すべてを奪い去っていく。
「今日は娘の交換に参りました」
先ほどと同じ穏やかな顔で、しかしおどけるようにガヌロンが言った。
何をぬけぬけと。
怒りが、憎しみが、心を混濁させていく。
おそらく、それすらもガヌロンは折込み済みなのだ。
道徳を嗤い、心を操るものに狂わされまいと、アベルは自身を強く持つ。
一振りの剣もなく、一滴の血も流れない。
言葉の戦場がそこにあった。