五月になった。
登校の支度を終えた私は、いつものように、自分の部屋の窓際に置いてあるいくつものミニ鉢に霧吹きで水をやる。そして、スマホを手に取り、SNSを開いて、優花ちゃんたちが好きなアイドルグループのニュースや、プチプラ新作コスメのチェックをはじめた。これはもう、日課になっている。
「今夜、新曲初披露? 絶対この話で盛り上がるだろうな」
「へぇ、このうるるんリップ、限定かぁ」
正直言って、あまり興味はない。
でも、こういう話題についていけないと、グループ内ではたちまちつまらない人間になってしまうのだ。
リップの発売日を確認するために机の横の壁にかけているカレンダーを見ると、まだ四月のままだった。ピンク色だったいちばん上の一枚をミシン目に沿って切り取り、ぐしゃぐしゃに丸めてゴミ箱に捨てる。
すると、新緑を思わせる黄緑色の五月のページが現れた。
「ん?」
ふと、5月7日のところに何か書いてあることに気づく。
最初、何かの祝日かと思ったけれど、ちがうようだ。顔を近づけて、確認してみる。
【5月7日 「接近する日」】
「……何これ」
私の字じゃない。きれいな字で、もともと印字されていたようにも見える。
このカレンダーをつくった人の遊び心だろうか?
不思議に思いながらも、学校に遅れそうだと急いで部屋をあとにした。
学校に着き、昇降口で会った優花ちゃんにあいさつをする。
「おはよう、優花ちゃん」
「おはよー、千奈美ちゃん。あ、春菜も来た。おはよー」
「おはよ! ふたりとも」
三人ともくつ箱で上履きに履き替えたタイミングで、クラスが同じ女子が昇降口に入ってきた。クラスの女子のなかでいちばん身長が高くて細身の彼女は、肩下の黒髪をひとつに結び、ぱっつん前髪は睫毛にかかるほどの長さだ。目が合い、私は、
「おはよう、藤間さん」
と言ってくつ箱の場所を空ける。
「おはよう」
藤間さんはすばやく履き替え、すぐに階段をのぼっていった。
その後ろ姿が見えなくなると、優花ちゃんが春菜ちゃんに目配せをし、私に尋ねてくる。
「千奈美ちゃんて、藤間さんと仲がいいの?」
「仲がいいっていうわけじゃないけど……同じバド部だから」
ひそひそ話の声色に、私も同じトーンで返すと、ふたりとも「ふーん」と言って小刻みにうなずく。
一年では違うクラスだったけれど、部活の時にはあいさつをしたり、必要な声をかけ合ったりする仲だ。あまりおしゃべりするタイプじゃないらしくて、必要最小限な会話しかしたことがないけれど。
「ちょっと感じ悪いよね。今も、千奈美ちゃんにだけあいさつして、私たちにはしなかったじゃん?」
「教室で話しかけても愛想がないし、ノリが悪いっていうか……千奈美ちゃんもそう思わない?」
えーと、あいさつしなかったのは、優花ちゃん春菜ちゃんも同じじゃないかな。それに……。
「そんなこと……」
〝ないと思うけど〟と言いかけて、ハッとする。そして
「えーと……ハハ、たしかに近寄りがたい雰囲気はあるよね」
と言い直した。
嘘ではない。クラス内での藤間さんは、休み時間はいつも本を読んでいて、それをじゃまされたくないのか、そっけない態度に見える。部活の時も、みんなでワイワイするよりも、ひとりで黙々と基礎練習に励んでいる印象だ。
でも、あいさつしたらちゃんと返してくれたり、一年の時にも私のクラスまで部活の伝達事項を伝えに来てくれたりして、感じが悪いと思ったことはない。それも本当だ。
ただ、それをここで言ったところで「ふーん」で終わり、また微妙な空気になるだけだろう。
だから私は、うなずきながら愛想笑いに徹した。
ゴールデンウィーク明けの火曜日、放課後に部活のため体育館へ向かう。
週三日練習のバドミントン部は、先月まで外部体育館で練習していたけれど、補修工事の関係で、今月から一時的に学校の体育館で練習することになった。
バレー、バスケ、バドミントンの三部活が重なるので少し窮屈だけれど、他の部活の様子が見られるのは新鮮だ。
着くとすでに、網で仕切られた隣のコートではバスケ部の練習がはじまっていて、ダンッダンッとバスケットボールが弾む音や、キュッキュッとシューズの音が体育館に響いていた。今まであまり聞いてこなかった音だから、ちょっとソワソワするし、バスケ部は男子だけだから、身長も高くて威圧感がある。
逆に、バドミントン部は八割方女子だ。いつもとちがい、手鏡でやたらと髪を整えている子や、普段すっぴんなのにうっすら化粧をしている子もいる。バスケ部男子を意識してのことだろう。異性がいるというだけで、全然ちがう。
「ごめん、ボールそっち行った」
それは、バドミントン部が休憩中の時だった。
仕切り網のすきまからバスケットボールが転がってきて、バスケ部の男子がそのボールを追いかけて声をかけてきた。
すぐに立ち上がってボールを取りにいった私は、
「はい」
と言いながら振り返ってはじめて、網をくぐって近くまで来ていたその男子を見る。
と同時に、ひゅっと息を飲んだ。
「……っ!」
えっ、芝崎くん⁉
前髪が汗で濡れてキラキラしている彼は、同じクラスの芝崎くんだった。
バスケ部だったとは全然知らず、しかもこんなに間近で見たのはひさしぶりで、ぎょっとしてしまった。
「サンキュ」
汗を腕でぬぐいながら片手でボールを受け取った芝崎くんは、私を見てかすかに口の端を上げる。
教室ではあまり笑った顔を見ないから、めずらしい。
「バド部、休憩多くない?」
「じょ、女子が多いし、男子バスケ部の体力とはちがうんだよ」
とっさに返したけれど、ちょっと緊張してしまった。
なぜなら、芝崎くんと話すのは、同じクラスだった中学三年の時以来だからだ。
しかも、その時より、かなり身長が高くなっている。もう少しで一八〇センチくらいになるんじゃないだろうか。大人の男性と話しているみたいでどぎまぎしてしまう。
「おい、芝崎、ボールボール」
網の向こうから、もうひとり男子が来た。宗田くんだ。
そういえば、春菜ちゃんが宗田くんはバスケ部だと言っていたなと思い出す。
「あれ? えっと、同じクラスの真鍋さん! バド部なんだ?」
「……うん」
宗田くんが私のことを認識していたことにおどろき、返事が遅れた。
なるほど、笑顔がさわやかで、人あたりがよくて、これはモテるだろう。
「これから、教室でも体育館でも一緒だね! よろしく」
宗田くんがこちらに手を振ると、芝崎くんが網をあちらへとくぐり、ふたりで練習に戻っていった。
びっくりしたー……。
宗田くんにもだけれど、何より芝崎くんにおどろいた。
中3の2学期から、あんなにぎくしゃくしていたのに、それ以来今の今までずっと話せなかったのに、あんなに自然に会話できるなんて思わなかった。
「…………」
中三の夏休みのできごとを思い出すと、今でも苦い気持ちがよみがえってくる。
そのせいで、ずっと気まずかったから……。
*
『え? みんな来れない? 芝崎くんだけ? なんで?』
祭囃子や人々の笑い声や話し声でごった返しのなか、私はスマホに耳をぴったりとくっつけながら大声で聞き返していた。
中3の夏休みの終わりにあった夏祭り。仲良しだった男女グループ5人で一緒に行こうと約束していたのに、なぜか3人も来られなくなったのだ。
私の横には、ジーンズに白いTシャツ姿の芝崎くんが立っていて、スマホ画面をスクロールしている。
彼もさっき男友だちに連絡をして、同じことを言われていた。
『あのね、これ、芝崎くんには内緒なんだけど、実はみんなで作戦立てたんだ。芝崎くん、千奈美のこと好きみたいだし、ふたりともお似合いだし、夏祭りでいい雰囲気にさせてつき合わせようって』
『ええっ?』
信じられないことを言われて、私は心の底から声を出した。
何それ? 私は芝崎くんのことをそういう気持ちで見たことないし、なんで勝手にこういうことするんだろう。
『そういうことだから、がんばって! 今度どうだったか聞かせてね』
『ちょっ……』
切れてしまったスマホ画面に目を落とし、モヤモヤした気持ちが最高潮になる。
女子3人で花柄の浴衣を着ていこうって約束したから、この紫陽花もようの浴衣をわざわざ買ってもらって着てきたのに。
5人でワイワイ楽しく出店をまわるの、本当に楽しみにしてたのに。
作戦なんて知らない。裏切られた気分だ。
『とりあえず……店、まわる?』
芝崎くんに声をかけられ、私は彼の後ろを歩きながらずっとうつむいていた。
まわりのライトもまぶしいし、にぎやかであればあるほど、無言で縦に並んで歩いている私たちが場ちがいな気がして、どんどんみじめな気持ちになっていく。
途中、りんご飴をひとつずつ買ったは買ったけれど、私は一度も口にせず、手に持ったままだった。
『あれ、芝崎じゃん! あと……真鍋さん?』
花火がはじまる間際、綿菓子屋の前で、同級生の男子集団に見つかった。お面を横にかぶった男子にニヤニヤされて冷やかされ、芝崎くんは否定してくれたけれど、本当に嫌だった。嫌でたまらなかった。
『もう……帰ろう? 芝崎くん』
だから、彼らが去ったあと、我慢できずにそう言ってしまったんだ。
『境内のほうは人が少ないし、花火、少しだけでも見て帰らない?』
芝崎くんに言われて最後に境内のほうへ行ったけれど、杉の木が境内を囲んでいて、そのすきまからちらほら見える低い花火に、私たちの空気が回復することはなかった。
『なんか、ごめん』
芝崎くんがそう言ったとたん、それまででいちばん高い花火が上がった。
薄暗かったこのエリアもパッと明るくなり、見上げた夜空に大輪が咲く。
一瞬遅れて、地響きのような重く大きな音。そして、大勢の歓声。
……謝らせてしまった。芝崎くんは何も悪くないのに。
悪いのは、ずっと不機嫌だった私なのに。
ううん、そもそも、頼まれてもいないのに勝手なことをした、あの3人なのに。
『こっちこそ……ごめん』
その後、ふたりとも別々の道を通って帰宅した。
浴衣をぎゅっと握ると、紫陽花がぐしゃりと歪む。歩道に響くカランカランという下駄の音も、ひどく耳障りだった。
そしてすぐにやってきた新学期、私は自分のモヤモヤした気持ちをぜんぶふたりの女友だちにぶつけた。
言わずにいられなかったんだ。
『なんで勝手にあんなことをしたの?』
『すごく嫌だったし、逆に雰囲気が悪くなった』
『私は芝崎くんのこと好きじゃないのに』
友だちだからこそ、わかってほしかった。正直に言うのが大事だと思った。それなのに……。
『ふたりとも教室で仲よさそうに話してたし、両想いだと思ってた』
『悪気はなかった』
『よかれと思ってやったのに』
『そこまで言うなんてひどい』
『じゃあ、帰ればよかったじゃん』
返ってきたのはそんな言葉の数々。そして、その日を境に避けられはじめ、私はひとりでいることが多くなった。
しかも、祭りで目撃されたからか、一部の人たちの間で、芝崎くんと交際後に私がすぐにフった、という噂まで流れた。ヒソヒソ声のなかに『最低』という言葉を聞いたこともある。もちろん、芝崎くんともぎくしゃくしたままで、中学校生活は終わった。
どうすることが正解だったのだろうか。
ニコニコして芝崎くんと祭りを楽しめばよかった?
自分の本音を友だちに伝えなければよかった?
ぜんぶ空気を読んで、まわりに合わせていたらよかった?
そしたら、まわりから人がいなくなるなんてことはなかったのだろうか。
*
そんな苦い思い出と葛藤に悩まされた、この2年間。
高校生になって、例の女子たちとは学校が離れたけれど、結局、腹を割って語り合えるような友だちはつくれないまま、高一も終わってしまった。
だからこそ高2になった今、新しくできた友だちを大切にしようと思っている。
でも、芝崎くんが普通に話しかけてくれたことは意外だった。もう、会話することはないだろうと思っていたから……。
『サンキュ』
バスケットボールを受け取り、ふわりと微笑んだ芝崎くんを思い返す。
まるで、中3のあのできごとがなかったかのようだ。以前の仲良くしゃべっていたころみたいに、とても自然だった。
もしかしたら、ずっと気にしてとらわれていたのは、私だけだったのかもしれない。
もう月日もたったし、あと1年して卒業したら別々の大学に行くだろうし、せっかくクラスメイトになったんだから、私も前みたいに話しかけてみようかな。
そんな決意を固めながら家に帰り着いた私は、自分の部屋に入ってバッグを置き、なんとなくカレンダーを見た。
「……あれ?」
【5月7日 「接近する日」】
5月7日は、今日だ。
そういえば、五月に入ったばかりの時に文字に気づいたけれど、今の今まで忘れていた。
「待って……増えてるんだけど」
しかも、同じような文字が他の日にも追加されていた。カレンダーを変えた時にはなかったはずだ。いつの間に?
【5月15日 「忘れ物を借りる日」】
【5月19日 「手を振る日」】
【5月24日 「手をつなぐ日」】
人差し指でそれぞれの部分をなぞる。
鉛筆でもペンでもないようなその字は、やはりもともと印刷されていたかのように美しい。
「……何これ。どういうこと?」
疲れているのかな? 少し怖くなってきた私は、首をひねりながら部屋をうろうろする。
そして、目頭を押さえてひと呼吸置いてから、もう一度カレンダーを確認した。
けれど、文字はたしかに書かれたままだった。