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第十一話 伝えたい5文字
あの日から、世界の色が少し変わって見える。
城の窓から見下ろす山々も、石造りの回廊も、侍女たちの足音も、どこかやわらかい。
理由なんて分かりきっているのに、私は気づかないふりをしていた。
気づいてしまったら、戻れなくなりそうだったから。
あれ以来、私はやたらとウラシェルを呼ぶようになった。
用事がなくても呼ぶ。
用事はあとから作る。
「お茶を淹れさせたの。あなたも飲みましょう」とか、「新しい織物が届いたのだけれど、どう思いますか?」とか、「今日の空、北の国と似ているかしら?」だとか。
今までの私なら、こんなことはしなかった。
必要のない会話は、必要のないものだったから。
でも今は違う。
声が聞きたい。
隣に立っていてほしい。
「……お呼びでしょうか」
いつもの足音。いつもの気配。
振り向かなくても分かるようになってしまった。
「ええ、少しだけ」
振り返ると、彼はいつも通り数歩後ろで止まる。
その距離が、やけに遠い。
「そこではなくて、こちらへ来てください」
「……ここで問題ありません」
問題があるのは私の胸の方だ。
「命令です」
そう言うと、ウラシェルは一瞬だけ目を細めて、それから一歩だけ近づいた。
たった一歩。それだけ。
それでも鼓動が速くなる自分が悔しい。
「このお茶、甘いの。嫌いじゃなければいいのだけれど……」
「いただきます」
指先がカップに触れる。
骨ばっていて、傷跡があって、綺麗とは言えない手。
でもあの日、その手は私を守った。
思い出すだけで胸が熱くなる。
「……ウラシェル」
「はい」
「あなたは、怖くなかったのですか?」
彼は少しだけ首を傾げた。
「何が、でしょうか」
「この前のこと。あの男」
間が空く。
ほんのわずかだけ視線が逸れた。
「慣れております」
それだけ。
強がりでも自慢でもなく、ただ事実を言った声。
胸がきゅっと痛んだ。
「慣れている、なんて……そんなの、良いことじゃないわ」
私の声の方が、なぜか震えていた。
ウラシェルは何も言わない。
否定もしないし、肯定もしない。
ただ静かに立っている。
思い出す。
あの時の背中。
低い声。
振り上げられた腕を止めた力。
「……あれは、当然のことをしただけです」
「違うわ」
即座に否定する。
「当然なんかじゃないでしょう。あんなこと、誰にでもできることではないのです」
ウラシェルは黙ったまま、私を見ない。
見てほしいのに。
「ねえ」
気づけば、私は立ち上がっていた。
「これ」
彼が私の部屋に置きっぱなし上着の袖を、そっとつまむ。
分厚いキルトの感触。
私が選んだもの。
「暖かかったですか?」
「……問題ありません」
またそれ。
「そうじゃなくて」
私は少しだけ笑う。
「嬉しい、ですか?」
その瞬間、ウラシェルの動きが止まった。
返事がない。
でも、腕にほんの少し力が入ったのが分かった。
「あなたのこと、もっと知りたい」
言ってしまってから、息が止まりそうになる。
でも止まらない。
「好きなものも、嫌いなものも、昔のことも」
沈黙が落ちる。
長い、長い沈黙。
「……知る必要はありません」
やっと落ちてきた言葉は、冷たかった。
手が、ゆっくり離れていく。
「そうね」
私は笑った。
うまく笑えていたかは分からない。
「でも私は、あなたの主人なだけじゃないのです」
彼が初めて、はっきりと私を見る。
その目は、困っているみたいだった。
「困らせたいわけじゃない……けれど」
小さく息を吐く。
「ただ、隣に立っている人のことを知らないままでいるのが、寂しいだけ……」
また沈黙。
でも今度の沈黙は、少しだけやわらかい。
「……北は、風が強い土地でした」
ぽつり、と。
こぼれるみたいに、彼が言った。
顔は背けたまま。
「雪より風が厄介です。骨の中まで冷える」
私は何も言わない。
壊れ物を扱うみたいに、静かに聞く。
「川が凍ると、足場が増えるので仕事は楽でした」
仕事。
その言葉の重さに、胸が締めつけられる。
「……寒さには、慣れています」
最後は、いつもの声に戻っていた。
でも、確かに一歩だけ近づいた気がした。
「ありがとう、ウラシェル」
彼は一礼をして部屋から出ていった。
夜、私は眠れずにいた。
窓から差し込む月の光がもどかしい。
私が伝えたい5文字。
おまじないの5文字は、伝えた。
けれど、これだけは伝えられなかった。
「あいしてる」
ポツリと呟き、なんだか恥ずかしくなって布を深く被る。
ウラシェルが、初めて自分のことを語ってくれた。
私の気持ちに、気づいてくれている?
応えてくれている?
……まさか。
今日も、5文字を心の中に閉まった。