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記憶喪失『毎朝俺を忘れる恋人は、今日も俺に一目惚れする』~m×a~
side目黒
阿部ちゃんに「初めまして」と言うのは、今日で百二十一回目だった。
朝の八時。秒針が真上に重なったのを見てから、俺はインターホンを押した。
三秒。五秒。十秒。
扉の向こうでスリッパを引きずる音がする。その頼りない足音だけで、眠そうな顔まで思い浮かべられた。寝起きの阿部ちゃんは髪が右側だけ跳ねる。冷蔵庫の水を一口飲んで、玄関の鏡を見て、それでも直すのを諦めてから扉を開ける。
俺はそれを百二十回見てきた。
けれど、今日の阿部ちゃんは一度も知らない。
鍵が回り、細く開いた扉の隙間から、オレンジ色の髪と片方だけの目が覗く。
「……どちら様ですか?」
喉の奥がいつもと同じように痛んだ。
それでも笑う。怖がらせない角度も、声の高さも、もう体が覚えている。
「初めまして、阿部ちゃん。俺は君の恋人だった人です」
阿部ちゃんはしばらく瞬きをしなかった。
知らない男に恋人だったと言われれば、当然の反応だ。俺は紙袋を胸の前に持ち上げた。中には、阿部ちゃんの好きなクロワッサンと、砂糖を一つだけ入れたカフェラテがある。毎朝同じ店で買い、同じ温度になるよう、同じ道を歩いてくる。
「これ、朝ごはん。玄関に置いて帰ってもいい」
「いや、ちょっと待って。俺の名前、どうして知ってるの?」
「部屋の中に昨日の君が書いた手紙があるはず」
阿部ちゃんの視線が俺から背後の部屋へ動く。リビングのテーブルには、昨夜の阿部ちゃんが青いマグカップの下に挟んだ便箋がある。そこに何が書かれているのか、俺は知らない。阿部ちゃんは「明日の俺に書くものだから、めめは見ちゃだめ」と、一度も読ませてくれなかった。
その約束だけは、毎日守っている。
「勝手に入らないよね?」
「入らない。合鍵は持ってるけど、君が開けてくれない日は使わない」
「合鍵まで持ってるの?」
警戒しているはずなのに、阿部ちゃんは扉を閉めなかった。
俺の顔を見上げ、首を傾げる。視線が目元から鼻先へ、口元へとゆっくり下がっていく。その頬がほんの少し赤くなる瞬間を、俺は知っている。
今日も来るだろうか。
胸の内側で祈りながら、何も知らないふりをした。
「……君、本当に俺の恋人なの?」
「昨日までは」
「昨日まで?」
「今日の君にまで、そう思えとは言えないから」
阿部ちゃんの眉が困ったように下がる。それから、なぜか悔しそうに唇を尖らせた。
「何それ。そんなこと言われたら、余計に気になるよ」
扉がもう少し開く。
「とりあえず、入る?」
「いいの?」
「まだ分からない。でも、君が帰ったら後悔する気がする」
阿部ちゃんはそこまで言ってから、急に目を逸らした。
「変なこと言うけど、笑わないでね」
「笑わないよ」
「俺……たぶん、君に一目惚れしたみたい」
百二十一回目の告白だった。
最初の頃は、言われるたびに嬉しくて仕方がなかった。記憶が消えても阿部ちゃんの心には俺が残っているのだと、何度も救われた。
今はその言葉を聞くたび、明日のことを考える。
百二十二回目も同じとは限らない。
明日の扉が開いた時、阿部ちゃんの頬が赤くならなかったら。俺を見ても胸が動かなかったら。「帰って」と言われたら。
今日まで積み重ねた百二十一日分の恋は、いったいどこへ行くのだろう。
「めめ?」
阿部ちゃんの声で我に返った。
昨日までの俺は恋人だったらしい、と書かれた手紙を読んだのだろう。阿部ちゃんはもう俺をその呼び名で呼んでいた。
「どうして泣きそうな顔してるの?」
「してないよ」
「してる。俺、一目惚れした相手の顔くらい分かるよ」
冗談めかして笑い、阿部ちゃんは俺の手から紙袋を取った。
指先が触れた。ただそれだけで、ひどく懐かしい。
阿部ちゃんにとっては初めての温度なのに、俺にとっては、もう数えきれないほど握った手だった。
「朝ごはん、一緒に食べよう」
「うん」
部屋へ入る前、俺は小さく息を吐いた。
今日も選ばれた。
その安堵を喜びと呼ぶには、俺は明日を怖がりすぎていた。
―――阿部ちゃんの一日は、朝八時に始まる。
正確にはもっと早く起きているけれど、俺がインターホンを押すまで、阿部ちゃんは手紙と部屋の中の証拠を確認して過ごす。
壁のカレンダー。携帯の日付。二年分増えた写真。見覚えのない服。戸棚の薬。
そして、青いマグカップの下に置かれた昨日の自分からの手紙。
俺は毎朝、扉の外で阿部ちゃんが現実を受け入れるのを待った。
最初の頃は、開くまでに二十分かかる日もあった。
七日目の阿部ちゃんは、チェーンをかけたまま俺を見た。
「昨日の俺が書いたからって、全部信じていいのかな」
「信じなくていいよ」
「恋人だった証拠、見せられる?」
俺は携帯の写真を一枚だけ見せた。
ソファで眠る阿部ちゃんと、その隣で阿部ちゃんの頬をつついている俺。写真の中の阿部ちゃんは嫌そうな顔をしながら、俺の腕を両手で抱えていた。
「……俺、すごく幸せそうだね」
「幸せだったと思う」
「めめは?」
「今も幸せだよ」
嘘ではなかった。
苦しくても、会えるだけで幸せだった。
阿部ちゃんはチェーンを外した。そして、玄関に入った俺をまじまじと眺めたあと、困ったように笑った。
「昨日の俺に負けたくないから、今日も好きになっていい?」
許可を求めるようなことではないのに、俺は頷くことしかできなかった。
十七日目は、朝から雨だった。
傘を持っていたのに、俺の右肩は濡れていた。紙袋を守るために傘を傾けて歩いたせいだ。
扉を開けた阿部ちゃんは、挨拶より先に俺の肩へ触れた。
「どうしてこんなに濡れてるの?」
「朝ごはんが濡れると嫌かなと思って」
「俺よりパンを守ったの?」
呆れた顔をした阿部ちゃんは、俺を洗面所まで引っ張り、タオルで髪を拭いた。
まだ恋人だと認めてもらう前だった。知らない人に触れる手つきではないことが、嬉しくて、悲しかった。
「ねえ、めめ」
「もう呼び方は決まったんだ」
「手紙にそう書いてあった。嫌なら変えるけど」
「変えないで」
阿部ちゃんは俺の髪を拭きながら、目を細めた。
「俺、こういう優しい人に弱いんだ」
「パンを守っただけだよ」
「俺の好きなものを守ってくれたんでしょ。それって、俺を大事にしてるのと同じだよね」
その日の一目惚れは、玄関を開けてから三分後だった。
二十八日目は、俺が熱を出した。
行かない方がいいと分かっていた。うつしたくなかった。それでも連絡だけでは、眠りから目覚めた阿部ちゃんに事情が伝わらない。俺はマスクをして、玄関の外から手紙を渡すだけのつもりで向かった。
扉を開けた阿部ちゃんは、顔色の悪い俺を見るなり眉を吊り上げた。
「病人が何しに来てるの」
「今日の君に俺が来ない理由だけ伝えようと思って」
「携帯に送ればいいのに」
「知らない相手から急に連絡が来ても、怖いでしょ」
阿部ちゃんは黙り込んだ。それから俺の腕をつかみ、部屋の中へ引き入れた。
「看病する」
「初対面の人を?」
「初対面だけど、放っておけない」
「うつるよ」
「じゃあ、離れたところから看病する」
ソファに寝かされ、額に冷たい布を載せられた。阿部ちゃんは台所で何度も鍋の蓋を落としながら、薄い雑炊を作った。
一口食べて、正直に「味がない」と言うと、阿部ちゃんは自分でも食べて顔をしかめた。
「本当だ。俺、料理が下手だった?」
「上手だよ。今日は緊張してるんじゃない?」
「初対面の男に雑炊を作って、味つけに失敗して、何してるんだろうね」
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R-18『大事にされすぎて焦ってた俺の初夜を聞いてください』
本編とはひと味違う、特別な一篇。↓
「あ゛あ゛あ゛っ!!♡♡あああぁっ……♡♡あつい、めめのあついぃっ……♡♡」
お腹の中がめめの熱で満たされていく。
その圧倒的な充足感とめめと完全に一つになれたという喜びに俺の目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。
俺の中にはまだめめのモノが挿さったままで動くたびにぐちゅっ♡と卑猥な音が鳴る。
それがまた俺の体を熱くさせる。
「……阿部ちゃん」
「うん……?」
「まだ抜きたくないんだけど……いい?」
「え……っ?」
めめの言葉に俺は目を丸くした。
まだ抜かない?ということはつまり……。
「阿部ちゃんの中すごく気持ちよくて……まだ出たくない」
※最初から最後まで甘く、濃く、容赦なく。読み応えたっぷりのR-18作品となっております。
コメント
1件
うわあ、めちゃくちゃ切ない……。毎朝「初めまして」から始まる恋、って設定だけで胸がぎゅっとなるのに、百二十一回目の「一目惚れしたみたい」でさらにやられた。めめの「今日も選ばれた」って安堵と、明日への怖さが同時にある感じ、すごく伝わってきた。雨の日にパンを濡らさないために自分が濡れるところとか、熱出した日も会いに行くところとか、日常の小さな選択に愛が詰まってるのも好き。構造が美しい。