「死にに、きたんだ。」
その呟きを聞いた瞬間、僕は咄嗟に彼の異様に冷たい手を掴んでいた。夏の初めだというのに、冬の夜のような冷たさの大きな手。
彼は驚いたように僕を数秒見つめたが、すぐに我に返ったように僕の手を振り払った。
それでも、拒絶されても、僕の口は勝手に言葉を紡ぎ出す。
「だめ、だめだよ。だめに、決まってる。」
あぁ、死にたい人間が何を言っているのだろう。誰よりも深い絶望の底に、いるつもりだったのに。だから、死にたい心理も消えたい心理も理解しているつもりだったのに。
「…………………なんで?なんで、ほぼ初対面の君に止められなきゃいけないの?」
絶望の深い谷の淵に足をかけたような薄っぺらい微笑みを浮かべて、彼は静かな声でそう言った。
息をのむ。
あれだけ騒々しかったセミの鳴き声も、今はやけに早い鼓動だけが鼓膜を支配していて聞こえない。
「…………………………今、じゃなくても」
心臓を直接触られているような、そんな気味の悪い感覚がした。どうして僕はこんな必死に他人の死を止めているのだろう。
死が怖いわけじゃない、はずだ。
「今じゃなきゃ、駄目なんだ。今死にたいから死ぬんだよ。」
そんな、簡単な理由で。
「………………………………………なんで、死にたいの?理由、聞かせて。」
僕は彼の群青の双眸を、真剣に、じっと見つめた。鼓動の音だけが、その沈黙を埋める。
そのうち根負けしたのか、彼はゆっくりと口を開いて一言言った。
「勉強がつらい」
あまりに簡潔で、僕からすればあまりにくだらない理由で、僕の頭にはその一言が何度も浮かんでは消えた。
有り得ない。そんなに簡単に命を終わらせてしまいたいなんて、僕には到底信じられない。ふつふつと湧き上がる怒りに、僕は嘔吐感を覚えた。
「………………逃げればいいじゃん!!!!! そんなの、そんな、簡単な、簡単なことで死のうとするなよ!!!!!!!!」
気付けば声を張り上げて叫んでいた。久しぶりに大声を出したからか、喉の奥から血の味がした。耳鳴りもする。
あれ、なんで僕はこんなに怒っているんだろうか。
「僕より……………僕なんかより、ずっと幸せな環境にいるくせに」
勉強がつらいと思えるくらい、勉強が出来る環境があるくせに。つらいと思えるくらいに、勉強出来る能力があるくせに。
つらいと思える気持ちが、あるくせに。
ああそうだ、僕は君に死んで欲しくないわけじゃない。
僕より先に、僕より幸せなヤツが死ぬのが許せないのだ。
「僕は君より、ずっとずっと不幸なんだから。」