「対人対応班、展開準備急げ!
広場に接近してはならない。
目視も避けろ!
後方より音声通信のみで対応する」
地下第二通信区画。
警報と共に赤く点滅する表示灯が
司令室を照らし続ける。
各部署に配置された将校たちは
次々と鳴り響く通話チャンネルと
モニターからの映像に追われていた。
「対外通信、遮断完了。
映像・音声データは暗号化して
上層部報告用に分岐中」
「状況を知らない小隊の動きが
崩れ始めています。
〝あれ〟を見てしまった隊員が
複数、過呼吸と錯乱を起こしています!」
「衛生班は分隊で待機!
精神安定薬の使用を許可!
現場指揮権は現在、中隊長代理に一時移譲!」
中枢に据えられたメインスクリーンには
ドローンが捉えたアリアの姿が
拡大されたままフリーズしていた。
画面に映る彼女は
静止画のように一歩も動いていない。
しかし
その〝変わらぬ姿〟が
兵たちの神経を確実に削っていた。
「このままでは指揮系統が保たない。
司令、退避を──」
「⋯⋯待て」
司令官席に座る、四十代半ばの男が
低く、重く声を出す。
顔面には汗が滲んでいたが
表情はまだ崩れていない。
「このまま撤退すれば
我々は〝壊滅した〟と判断される。
ただの侵入ではない。
あの女は、我々を見ている。
彼女が何者であろうと
ここでの対応如何で、軍の未来が変わる!」
司令官は立ち上がると
部下に指示を出した。
「広報対策班を準備、映像を再編集しろ!
現場で〝局地的な兵器事故〟が
起きたように偽装する。
記録は全て内部用
一般流出は絶対に阻止しろ!」
「⋯⋯しかし、司令。
我々の兵士は
確実に〝彼女に殺されて〟います。
あれは事故では──」
「死因の検証は我々がする。
医務班に命じろ。
〝内部破裂による脳出血と火傷〟
──その形に合わせて
火器暴発事故として処理する」
重々しい沈黙の後、部下達は無言で頷いた。
それがこの場所での〝現実〟だった。
原因不明の死。
未知の存在。
説明不能な恐怖。
だが
軍とは、それを記録しないことで
〝存在を保つ〟組織でもある。
別棟、監視班控室。
ガラス越しに
広場の様子を映し出す
サブモニターが並ぶ部屋で
若い中尉が
震える指でコーヒーカップを
持ち上げようとしたが──
カップは、手から滑り落ち
床に叩きつけられた。
「⋯⋯動いてない⋯⋯
本当に、一歩も動いてないんですよ⋯⋯」
隣にいた古参の下士官が
苦い顔で口を開く。
「だが殺された。
あれは⋯⋯ただ〝立っていた〟だけで
狙撃手を、吹き飛ばした。
銃も、何も使わずに、だ」
「人じゃ⋯⋯ないですよね。あんなの」
「黙ってろ。
目立つと〝次〟はお前かもしれん」
中尉は凍りついたように黙り込み
モニターの彼女の姿を、再び見つめた。
彼女は立っている。
ただ、それだけ。
だが──
それが〝軍〟という
武装した秩序にとって
最も恐ろしい現象だった。
そして
上層指揮網ではすでに
〝あの女の処理〟を巡って
密かな分断と衝突が始まりつつあった。
一部は
〝未知の災厄〟として完全排除を主張し
一部は
〝利用可能な資源〟として
情報収集と接触を目論む。
だが、誰もが理解していた。
彼女が動いた時が
終わりの始まりなのだ──と。
⸻
通信中枢・監視制御室。
壁一面に並んだ高精細モニター群には
上空からのドローン映像
広場周囲の固定カメラ映像
屋内からの望遠レンズ映像など
同時に15以上の視角から
〝彼女〟の姿が映し出されていた。
アリア。
未確認の女。
災厄のような存在。
そのすべての映像が、何の前触れもなく──
一つに収束した。
「──っ!?
なんだ、映像が固定されてるぞ!?」
「切り替え不能!
各中継カメラは正常反応⋯⋯
なのに、映像信号が
全部、勝手に重なっていく⋯⋯っ!」
「おい、これは──!」
次の瞬間
メインモニターに大写しになった彼女の顔。
金の髪が風に揺れ、光に溶けるように
唇だけが──ゆっくりと動いていた。
その口が、何かを繰り返している。
通信管制士が音声抽出をかけ
モニターの右下にリアルタイムで
口の動きから解析された字幕
が表示され始めた。
『⋯⋯お前達は私の〝桜〟を傷付けた⋯⋯』
『⋯⋯死の翼に、触れよ⋯⋯』
『⋯⋯死の翼に、触れよ』
『死の翼に⋯⋯触れよ』
それは
録音音声でも
声量を上げた発言でもなかった。
ただ、唇だけが動いていた。
だが、聞こえた⋯⋯
全員の耳に──
「⋯⋯死の、翼⋯⋯?」
「ちょ、待て⋯⋯この言葉⋯⋯!」
映像前列に座っていた一人の中年軍人が
顔を青ざめさせながら震えた。
その軍服の階級章には、陸軍少将の文字。
「⋯⋯呪いの丘の⋯伝承の⋯⋯っ
は、〝春を呼ぶ者〟の──⋯っ!」
震える唇から漏れたその言葉が
周囲に不吉な静寂を落とす。
そして、モニターが切り替わった。
いや、切り替えさせられた。
彼女の瞳だけが、画面一杯に映された。
深紅の瞳。
まるで
灼熱の業火がその奥に燃えているかのような
見た者の心を抉るような
存在そのものを無意味にする──
〝死に導く視線〟
「や、やめろ⋯⋯
見るな、目を逸らせ──ッ!」
誰かが叫んだが、遅かった。
それを見た者たちは
一様に頭を押さえ、呻き始めた。
「ッぐああああああああああ!!」
「熱い、脳が、燃えて⋯⋯
やめ、やめろぉ!!」
「いやだ、殺される!
まだ見てる、こっちを⋯⋯っ
こっちを見てるぅぅぅッ!!」
悲鳴が、爆発のように上がった。
指令室の半数が
目の奥に焼き付いた炎を拭おうと目を抉り
額を壁に打ちつける者
両耳を裂くように叫ぶ者
口から泡を吹いて痙攣を起こす者まで出た。
「鎮静班を呼べ!!鎮静剤を持てぇ!!」
「だめだ!
もう常軌を逸している!
精神科班、全員投入しろ!
ストレッチャー急げ!!」
「映像切れ!今すぐモニターを落とせ!!」
指令室全体が
火の中に放り込まれたような
錯乱状態だった。
蛍光灯の明かりがチカチカと明滅し
足元を血と倒れた軍人の身体が
埋め尽くす中で
ただ一つの映像──
アリアの深紅の瞳だけが
今もモニター越しに〝見ていた〟
それはもう〝映像〟ではなかった。
存在を越えて
意思そのものが
画面からこちらに侵蝕してくるような──
その場にいた者、全員が理解してしまった。
あれは
目を合わせてはならない〝何か〟だ。
軍という、組織という、常識という概念が
あの存在の前では通用しない。
そして
それを知る誰もが、もう一度──
あの伝承を思い出していた。
『死の翼に、触れよ』
呪いの丘。
その桜を汚した時、やって来る災厄の女。
その伝承は、今や現実だった。
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静かに怒りを燃やす紅蓮の翼。 愛する者を傷つけた罪に、赦しはない。 無に還る世界を背に、彼女はただ── 静かに、断罪の空へと飛び立った。