「⋯⋯天使に⋯⋯殺される⋯⋯っ!!」
指令室の床に膝をつき
汗と血に塗れながら
譫言を繰り返していた陸軍少将が
突如として立ち上がった。
目は焦点を失い
口は裂けるほど開いていた。
「殺されるッ⋯⋯ッ
天使に殺されるううううっ!!」
金属ブーツが床を打つ。
銃声でも、爆発音でもない──
狂乱した人間の
理性の音が崩れ落ちる瞬間だった。
彼の叫びは
伝承の〝あの青年〟と同じだった。
かつて呪いの丘で
血塗れになりながら街を駆け抜けた
あの若者と──
この軍人は同じ目を、今、していた。
「止めろ!おい、誰か抑えろ──!」
叫びが飛ぶが
誰も近寄ろうとはしなかった。
彼女の〝視線〟を受けた者は
皆、触れることさえも恐れた。
通信士の頭が機器に叩きつけられ
画面に血が飛び散る。
システムエンジニアが
自らのネクタイで首を絞め始め
警備隊長が
自分の拳銃を抜いてこめかみに発砲した。
「避難命令発令!
繰り返す、全員直ちに施設から──ッ!?」
その時だった。
警報音が、唐突に止まった。
モニターの映像も、音も、照明も
一斉に〝沈黙〟した。
ただひとつ──
施設中央広場の屋上カメラだけが
動いていた。
そこには、立つ彼女。
アリア。
黄金の光を纏った長い髪が
風も無いのに揺れた。
深紅の瞳が、静かに閉じられる。
そして──
翼が、広げられた。
「────ッ!?」
屋内にいた一人が
直感で〝何か〟を察したその時
視界全体が、真紅の光に満たされた。
⸻
外部監視衛星・第42衛星軌道群。
管制オペレーターが
異常を告げる警報に目を見開いた。
「第十二戦略拠点、反応消失。
地表座標上から
熱源・通信・構造物情報⋯⋯
全て消失しました!」
「座標地点が⋯⋯空白に⋯⋯!?
それは、施設ごと⋯⋯?」
「⋯⋯地形ごと、抜け落ちています!
光学、赤外線、地中振動すら反応なし⋯⋯
そこに〝何もない〟!」
⸻
地表──
そこには、何もなかった。
元・施設跡地。
地下複合施設、複数の地上棟、装甲車群
レーダー塔、通信衛星アンテナ──
それらすべてが
痕跡もなく消え去っていた。
土は抉れ、岩盤は滑らかに蒸発し
まるで
〝熱で削られたような空洞〟だけが
残されていた。
生き残りなど、いない。
記録も、物証も、遺体も
一片の塵すら残されていなかった。
ただ、数百メートル離れた林の木々に
風で運ばれた一片の桜の花弁が
静かに舞い落ちていた。
──それが唯一
彼女の存在を知る〝証拠〟であった。
⸻
荒野には、静寂が満ちていた。
先ほどまでそこにあったはずの軍施設は
地図の上からも、現実の空間からも
跡形もなく消えていた。
大地は抉れ、空気は焼け
空さえも震えていた。
そこに残されていたのは、ただ一人。
アリア。
白い肌に、金の髪が風に揺れ
背の紅蓮の翼だけが静かに脈動している。
その瞳には何も映っていなかった。
だが
怒りが終わっていないことだけは
誰の目にも明らかだった。
焼き払われた地面に
何の痕跡も残っていないはずなのに
彼女の足元には──
一片の桜の花弁が、舞い落ちた。
視線が、それに吸い寄せられる。
その瞬間、アリアの脳裏に──
あの夜の、時也の姿が過った。
薄橙の灯りの下
彼の膝の上で静かに抱かれながら
背中越しに見下ろしていた、あの着物。
深い藍色の布地に、細く鋭く走った裂け目。
まるで
極細の刃か
ピアノ線のようなものに
引き裂かれたような痕。
そして乾いた、血の染み。
その夜、時也は何も言わなかった。
疑念を抱いていたにもかかわらず
記憶の霧が彼の思考を曇らせていた。
アリアは知らない。
──彼の記憶が
誰かによって、操作されたことなど。
だが、見ただけで分かった。
あの着物は、戦闘で破れたものではない。
誰かが、彼に手をかけた証だ。
それも
本人に気づかせないほどに巧妙に──
裏から、静かに、狡猾に。
「⋯⋯赦さない」
その言葉は、唇から零れたというより
魂の奥底から噴き出した静かな断罪だった。
彼女の背で、翼がふたたび
ゆっくりと大きく広がる。
燃え上がるような紅蓮の光が
彼女の全身を包み、空気を揺らす。
「私の桜に仇なすものは⋯⋯無にせねば」
空に向かって、アリアは静かに羽ばたいた。
その影が一陣の風となり
焼け野原に桜の香りを残す。
──それは、死の香りだった。
その瞳には
もう怒りしか残っていなかった。
誰かが時也に触れた。
その着物の裂け目が、その証拠だった。
そして、その者は──
未だ、この地に居ない。
つまり、逃げ延びたということ。
「⋯⋯必ず、見つけ出す」
月光が静かに照らす高空の中
紅の翼が空を裂いていく。
その空の彼方に
やがて待ち受けるべき存在──
彼女の怒りの矛先である
〝時也を傷つけた者〟の元へと
アリアは向かっていく。
それが、誰であろうとも。
たとえどんなに遠くに隠れようとも。
その全てを──
無に還すために。
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護るため、刃を迎え撃つ。 巨龍と刃の達人、そして命を賭した小さな守護者。 交錯する誇りと狂気の中、 蒼穹に散る血の花が、静かに夜を染めた──