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線上のウルフィエナ ―プレリュード―

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線上のウルフィエナ ―プレリュード―

10 - 第四章 旅立ち、ルルーブ森林(Ⅱ)

♥

32

2023年08月05日

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ぐぅ、と腹が鳴る。

 移動を開始して既に三時間。太陽は輝きを増し、真上を見上げれば眼を細めたくなるほど眩しい。

 音の発生源はどこだ? もちろん、ここには二人しかいないのだから、両者共、顔を見合わせて小さく笑う。


「ここらでお昼にしよっかー」

「はい。実は、けっこうヘトヘトです……」


 エルディアとウイルは土色の道から少し外れ、緑色のカーペットにそっと腰を下ろす。


(思ってた通り、けっこうがんばれる子だなー)


 傭兵は背負い鞄からせっせと昼食を取り出しながら、ちらっと隣の少年を盗み見る。

 身長差からくる歩幅の違いから、歩くペースはエルディアが上だ。ゆえに、普段よりもゆっくりと歩き、ウイルに合わせる。

 出発からここまで休憩することなく、昼食の時間が訪れた。

 普通なら一回くらいは弱音を吐いて、小休憩を主張してもおかしくはない。ウイルがそうしなかった理由を彼女は精神論で片付けるも、実際のところは半分しか正しくない。

 初めての遠征。

 それが新鮮ゆえに、疲労困憊の少年に無茶をさせた。体力はすり減り、ぐったりと座り込む。


「はぁ~……」


 ウイルは腹の底から溜息を吐きつつも、右手は鞄の中でパンを探している。

 足の裏がズキズキと痛むばかりか、ふくらはぎも痙攣しかけており、限界は近い。それでも目的地を目指して進むしかなく、昼食休憩というわずかな間で、コンディションを整えるしかない。


「何食べるのー? 私はこれ! サンドイッチ!」


 ニコニコ笑顔を振りまきながら、エルディアは両手で持ち切れぬほどのサンドイッチを披露する。卵や野菜、肉を挟んだ白いパン達が多数整列しており、作りたててではないものの、まだまだ美味しそうだ。


「僕は……、黒パンと干し肉にしました」


 一方、少年は質素に済ます。量も質も彼女に見劣りするが、お金は有限ゆえ、散財するわけにはいかない。


「干し肉は正義だしねー。ところで、今更なんだけど、荷物それだけで大丈夫? もぐもぐ」


 早速サンドイッチを一枚頬張りながら、エルディアは薄赤色のこじんまりとした鞄を見つめる。

 本来の色は綺麗な赤だったが、今ではすっかり色あせている。汚れてはいないがあちこちが萎れており、見た目通りの年季を感じさせる。


「はい。色々買い揃えたので、多分大丈夫だと思います。旅に必要なものをカバー出来ているかはわかりませんけど……」

「へー、収納上手なんだ。私なんか最低限の着替えと食べ物突っ込んだらこのありさま。調理器具とか持ち運べたら、少しくらいは自炊するんだけどねー」


 彼女の言う通り、琥珀色の鞄はサンドイッチを取り出してもなお、ぱんぱんに膨張している。元のサイズからして大きく、子供程度なら全身のほとんどを収納出来そうだ。


「一応、まな板と食器を何個か持ってきてます。包丁の代わりはこれで」


 ウイルは座りながら左腰をポンと叩く。そこに装着された短剣が包丁の代わりだ。もっとも、自身は料理などしたことがなく、まな板に関しては勢いで買っただけだ。


「もぐもぐ。ちゃんと考えてるねー。ルルーブ森林に着く頃には、あそこの羊を食べることになるだろうから、助かるー」

「あ、飲み水も一応、言われた量の倍くらいは用意しておきました。足りなくなったら言ってくださいね」

「……それって本当に収まってる? というか、すごい力持ちさん?」


 エルディアはこのタイミングで不自然さに気づく。水は見た目よりも重く、皮製の容器に詰められているのだが、数本でもそこそこの体積を占める。十本以上となれば、小さな鞄に入りきらないばかりか、仮に押し込めたとしても子供にはかなりの負担だ。


「力持ちじゃないですけど……。あ、お茶も買っておきましたので、どうぞ」


 ウイルは涼しい顔で、手元の鞄から小瓶を二つ取り出す。

 その行為には、さすがの傭兵も驚きを隠せない。

 瓶自体は無色透明で、中には薄茶色の液体で満たされている。大きさもこじんまりとしていて、これだけで一日を過ごすとなると心もとない。

 だが、それが二本、ポンと出てきたことがおかしい。ガラス瓶は変形しないため、小さいなりにかさばってしまう。ましてや、その鞄にはまだまだ多数の荷物が収まっているはずだ。

 どう考えてもおかしい。サイズに対して、明らかに荷物が多すぎる。


「あ、ありがと……。試しにさ、まな板出してみて……」

「あ、はい。これです」


 指示の理由まではわからなかったが、少年は言われるがまま、新品のまな板をぐいっと取り出す。

 長方形のそれはやや小ぶりながらも、きちんとした調理器具ゆえ、持ち運ぶとなると少々邪魔だ。体積的にも面積的にも、小さなその鞄にギリギリ入るが、裏を返すと余裕はない。

 にも関わらず、ウイルは簡単そうに取り出し、今も中身を気にせず、テキパキとしまってしまった。


「なんで……、入るの?」

「ん? あ、これ、実はマジックバッグです。す、すごいでしょ……。なんちゃって……」


 口を開けて固まるエルディア。

 冗談を言っておきながら、照れるウイル。

 そして、この場の空気が凍り付くも、彼女の叫び声がいっきに解凍してくれる。


「それが噂のー⁉ は、初めて見た……。すご~い……」


 歴戦の傭兵であろうと、この状況には平常心を失う。マジックバッグはそれほどまでに珍しく、傭兵にこそ必要な鞄なのだが、実際に所有しているものはウイルを除いて皆無だ。

 その理由は金額も去ることながら、その希少性に起因する。つまりは、ほとんど流通しておらず、所有者は貴族のような特権階級に限る。


「家を出る際に親から譲り受けたんです。お古ですけど、だからこそ、大事に使わないと……」


 ウイルは大事そうに色あせた鞄を撫でる。

 母からある意味では強奪してしまったこれは、新品ではないものの非常に値打ちがある。もし売ろうものなら、中古品であろうと百万イールは余裕で超える。そもそも相場などないのだから、その十倍でも買い手が現れるかもしれない。

 そうであろうと、ウイルに売却の二文字は思いつかない。ひ弱な自分にはこれが必須だとわかっている。ましてや母の愛用していた大事な鞄だ。壊れてしまうその瞬間まで、使い続けたいと考えている。


「さ、触ってみても……いい?」

「え、どうぞ……。別に普通ですけど……」


 許可が下りたのだから、エルディアは四つん這いで移動し、マジックバッグにおそるおそる触れてみる。


「うん! 普通だ!」

「そうですって……。この口以上に大きな物は入れられないんですけど、小物ならいくらでも入るので、荷物は僕が運びますね」


 マジックバッグの弱点は、少年の言う通り、巨大な荷物には対応していないことだ。もっとも、それは普通の鞄にも言えることであり、それの利便性が損なわれることはない。


「ほ~……。びっくりした……。ねえねえ、限界ってあるの?」

「はい。たしか……、見た目の八十倍まで……、だったと思います」

「それでもすごい……。欲張りだねー」

(時々、エルディアさんの言い回しについていけないな……。傭兵特有の文化なのかな?)


 その後も他愛無い話題で会話は弾み、結果、昼食の時間も長引いてしまったが、おかげでウイルの体調も幾分回復する。

 腹は膨れ、喉の渇きも解消されたのだから、目的地を目指して再出発だ。


「きつかったら言ってねー」

「あ、はい」


 エルディアの気遣いは非常にありがたい。

 ウイルの体力は未だに子供の水準だ。圧縮錬磨によって多数の魔物を葬ったが、その成果は今のところ見られない。

 それでも己を鼓舞して歩く。

 ルルーブ森林はまだまだ遠く、このペースだと今日一日かけても半分にすら届かない。


(エルディアさんはどれくらいで着けると思ってるのかな? いや、聞いたところでわかるはずないか……。僕がどれだけ歩けるかにかかってるんだから……)


 その通りだ。彼女も傭兵ゆえに予定を立てているが、それでもどの程度の遅延が発生するかはやってみないとわからない。

 具体的にはウイルが何度、休憩を求めるか。朝の何時に出発して、夜の何時まで歩けるかは、この少年の体調次第だからだ。

 エルディア一人なら、もっと短期間で済む。旅の予定もしっかりと遵守出来るだろう。

 だが、今回は二人旅だ。そして、その内の一人は単なる子供だ。傭兵にはなれたが自力では何も出来ず、体力も人並み以下なのだから、予定の遅れは必然とさえ言える。

 午後は一変して、両者の口数が減少する。話題が枯れたからではなく、会話による体力の消耗を考慮しての結果だ。

 それでも、壮大なマリアーヌ段丘を歩いていれば、自ずと独り言のように話しかけてしまう。


「案外、草原ウサギって少ないんですね」

「そだねー。それでも時折事故は起こっちゃうから、行き来する人には用心して欲しいというか、傭兵を雇って欲しいんだけど……。そういう依頼はすっかりなくなっちゃったねー」


 草原ウサギ。見た目こそ普通のうさぎに近いが、二倍近くの大きさを誇る。後ろ足だけで跳ねるように移動するため、魔物でありながら鈍足だ。


「銃の発明は画期的だったみたいですね。僕の生まれる前の話ですけど……」

「私もまだ生まれてないかなぁ。何年前だっけ?」

「たしか……、九百九十四年だから、十七年前ですね」

(う、生まれてるー! 黙っておこ……)

(エルディアさんって二十歳くらいに見えるけど……、つっこまないでおこう)


 銃。火薬の炸裂によって弾丸を発射させる、携帯可能な殺傷兵器だ。弓やクロスボウガンよりも扱いやすく、持ち運びのし易さも支持され、富裕層に普及する。

 また、イダンリネア王国と南の村々を行き来する商人も、多少無理をしてでも購入する傾向にあり、その結果、傭兵を雇う必要がなくなるのだから、時間はかかれど元は取れる算段だ。

 そう。銃の登場により、傭兵はその仕事をかなり奪われる。

 力を持たぬ庶民でさえ、銃を使えば草原ウサギ程度ならあっさりと狩猟可能だ。

 拳銃のような小型な種類でさえ、威力は十分だ。高額な弾丸を都度補充出来るのなら、もはや傭兵に頼る必要はない。


(コールオブフレイムがあれば、なんとかなると思ってたけど……。僕に必要だったのは銃だったのかも。でも、今の手持ちじゃ買えないなぁ……)


 銃の弱点は金額だ。しかも、買って終わりではなく、使用する度に失った分の弾丸を買い直す必要がある。

 ゆえに、庶民や傭兵にとっては高嶺の花であり、所有者は必然的に限られる。


「あ、私、軍にいた頃、一度だけ試射したことあるよ。あれって音うるさいよねー」

「そういえば、エルディアさんって軍人さんだったんですよね?」

「うん、一年くらいだけどねー」

「その時に強くなって、今があるんですか?」

「どだろー? あの頃は毎日ジョギングとか筋トレとかで、すっごいつまんなかったからなぁ……。たまーにある実践訓練が唯一の楽しみだった! あはは」


 話題がガラッと変わったが、彼女の表情もコロコロと変化する。


(エルディアさんの土台は、一年間の軍人時代に固められたのかな? 強いわけだ)


 ウイルは可能性の高そうな予想をたてるも、彼女自身によってあっさりと覆される。


「傭兵になって、魔物いっぱい倒してたら、気が付いたら力がついてた……、ってイメージなんだけど」

「なるほど……。エルディアさんらしいですね」

「うん。あれ……、今、なんか……、軽くあしらわれたような……」


 彼女の強さについて何かわかれば、それを参考に己も強くなれるかもしれない。そんな目論見は、愚直な回答によって霧散する。ならば、この話題も打ち切りだ。

 もっとも、それではエルディアとしてもおもしろくない。食い下がるように、過去の記憶から自慢出来そうな切り口を発掘する。


「あ! 思い出した! 私こう見えても、光剣守備隊に勧誘された!」

「え……。確か、王族を守護するエリート部隊……ですよね?」


 イダンリネア王国の軍事組織は大きく四つに分類される。

 国土を守る最後の要、王国防衛軍。

 ジレット大森林等の僻地にて魔物の様子を伺う先制防衛軍。

 巨人族を滅ぼすため、外征する遠征討伐軍。

 そして、王族警護に特化した光剣守備隊。


「まぁ、筆記試験があまりにダメだったから、立ち消えたらしい。傭兵になるつもりだったから、どっちでもいいけどねー」

「そこって、他の部隊で認められて初めて選出されるって習ったような……。エルディアさんって実技の方はどうだったんですか?」

「うん? 同期の中では一番だったよー。模擬戦とかは負け知らず! あ、いや、隊長にはコテンパンにされたけど……」


 彼女の返答から、少年は覆せない格差を思い知る。

 つまりは、エルディア・リンゼーという女性は生まれ持った才能にあふれ、軍役の時点で相当な実力を発揮していた。

 対して自分はどうだ? 旅の一日目にして既に両脚は悲鳴を上げている。足裏はズキズキと痛み、気づけば歩幅が狭まっている。足を前へ運ぶ速度も遅れだし、当然エルディアも気づいているが、二人のペースは午前と比べると減速してしまった。

 戦いに関する才覚がなく、体力もない。

 肥満気味な上、背も低い。


(ほんと……、無鉄砲だったんだなぁ。魔法の習得で天狗になってただけ……。仕方なかったとは言え、無様だな……)


 浅はかな己を静かに笑う。

 いじめから逃げるため、そして母を助けるため、藁にもすがる思いでこの選択肢を選んだ。そのことに後悔はないが、叶わぬ夢に現実逃避しただけだと気づかされ、結果、様々な感情が脳内を駆け巡る。

 恥ずかしい。

 呆れてしまう。

 情けない。

 諦め。


(絶対に……、絶対に一人じゃ迷いの森にたどり着けない。エルディアさんのおかげで試験に合格出来たとしても、一人旅なんて絶対に無理だ)


 本来ならば、計画を立てる段階で気づくべきことだ。それが出来なかった理由は、それほどまでに視野が狭まっていたことと、一刻も早く現状から逃げ出したかったからだ。

 頭の良いウイルなら、造作もないはずだった。

 しかし、極限状態まで追い詰められていたことが正常な思考を妨げ、このような状況を作り出す。


(どうしよう……。いや、考えるまでもない。頼むしか……。いや、傭兵らしく、依頼するしか……)


 今はある意味冷静だ。己の限界を知り、目的の難易度もぼんやりとだが想像出来ている。

 一人では無理だ。ならばどうする?

 現状のように、頼るしかない。

 手伝ってもらう他ない。

 エルディアでなくとも、よいのかもしれない。

 もっと適正のある傭兵が見つかるかもしれない。

 それでも今は、彼女以外に思い当たらない。


「あの……、この旅が終わって、無事昇級出来たら……」

「んー?」


 勇気を出して、言葉を紡ぐ。

 足取りは重く、頭上から押さえつけられているかのように、もしくは下から引っ張られているのか、その両方なのか、それほどまでに全身がだるい。それでも歩みを止めず、前だけを見据えながら身勝手な願望を口にする。


「お金を……、報酬を支払いますので……、迷いの森まで同行してもらえませんか?」


 安全な旅路のために雇うのだから、同行というよりは護衛の方が正しいのかもしれない。

 なんにせよ、今はすがるように求める。

 エルディアの助力がなければ、三か月以内に母へ薬を届けることなど、夢のまた夢だ。


「最初からそのつもりだったよ。お金も気にしないでー」

「え、い、いいんですか……?」

「もちろん。あ、せっかくだから、ご飯だけお願いしちゃおうかなー。荷物もかさばらないし助かるわー」


 彼女はさも当然のように言い切る。

 ありがたい返答ではあるものの、見返りを要求しないその態度が少年を困惑させる。


「なんで……、僕なんかのために、そこまでしてくれるんですか?」


 率直な疑問をぶつけてしまう。先に感謝の気持ちを伝えるべきなのだが、反射的に口が動いてしまう。


「だって、おもしろそー。だから、ついてくよー」

「ありがとう、ございます……」


 エルディアの屈託ない回答に、ウイルは俯きながら静かに涙する。

 何度も救ってくれる彼女には、この先、何を返せば良いのか? それすらも思いつかぬほど、今は喜びを噛みしめる。

 もし、平常心でいられたのなら、ウイルは気づけていたかもしれない。

 エルディアの言動から、彼女の行動原理を探る絶好のチャンスだった。それを知ったところで両者の関係に変わりはないが、それでもその深淵を覗けるのなら知っておいて損はない。

 エルディアがウイルを手伝う理由は、おもしろそうだから。照れ隠しのような言い回しだが、実は紛れもない本心だ。

 もちろん、助けてあげたいという良心もわずかに作用しているのだが、興味本位が理由の半分近くを占める。

 そう。それでも半分だ。残りがエルディア・リンゼーという女性の根幹でもあるのだが、ウイルがそれを知る時期はまだまだ先になる。

 青々と広がる空。

 そこを流れる薄雲が、二人を見下ろしながらゆっくりと追い抜いていく。

 東から吹く湿った風と西から流れ込む乾いた風がぶつかり、混ざり合うここはマリアーヌ段丘。

 目的地はまだまだ遠い。



 ◆



「あなた~」

「ん? どうしたんだい?」


 病室にしては豪華な部屋で、二つのベッドの一つを占有する女性。寝たままの状態でまぶたも閉じ、つぶやくように夫へ声をかける。

 変色病に感染したマチルダ・エヴィ。ウイルの母親だ。

 病人ではあるが、灰色の長い髪はその美しさを失っておらず、その顔もやつれることなく健在だ。

 資産に恵まれた貴族ゆえに、寝室の家具も贅沢品が多い。キャビネットや小さなテーブル、それと椅子の類ゆえ、決して無駄な出費ではなく、最低限の必需品を買い揃えている。

 二つの窓の一つをわずかに開けて、空気の流れを作り出す。

 陽射しも暖かく、男はそれを背中に受けながら、愛する妻を看病している最中だ。

 ハーロン・エヴィ。ウイルの父であり、エヴィ家の家長。国が国であるために必要な仕事を一つ任されており、本来ならば休暇予定日ではないのだが、緊急事態ゆえに、部下に無理を言って連休を取得している。


「あの子、今日はついにマリアーヌ段丘の遠くまで行ってしまったわ。もう、私の力の及ばないところまで……」


 今なお高熱にうなされながら、マチルダは息子の遠征を夫に報告する。

 彼女には特別な能力が備わっている。それは感知能力であり、離れていてもウイルの現在地が手に取るようにわかる。

 息子限定という摩訶不思議なものだが、実はもう一人、正しくはもう一体、そのセンサーは感知し続けていた。

 それが何なのかは彼女自身もわかっておらず、息子の現在地がわかればそれで充分だったため、今もさして気にしてはいない。


「遠く……か。おそらくは本格的に旅立ったのだろう。魔法が使えるようになったとはいえ、道のりは決して楽ではないはずだ。無事を祈りつつ、今は待つしかあるまい」

「ええ。でも、不思議~。あの子を感じ取れないなんて今までなかったから、少しだけ落ち着かないわ。そわそわ」


 マチルダはエヴィ家に嫁ぎ、ウイルを出産するのだが、それ以降、彼女は息子限定のセンサーを身につける。

 以降、十二年の間、常に息子の居場所を把握出来ていたのだが、今日、ついにそんな日常が破られてしまう。


「私も気持ちは同じさ」


 ハーロンとて、ウイルがいなくなったことには寂しさを感じている。実は誰よりも息子を寵愛しており、だからこそ、現金だけでなく、妻の愛用するマジックバッグを気前よく、それこそマチルダに断りもなくプレゼントしてしまった。


「え⁉ あなたもシエスタちゃんにご飯あーんしてもらいたいの⁉」

「違う。え? そんなことを楽しみにしてたのか……。まぁ、寝たきりだし、仕方ないか。あの子も落ち込んでるんだから、あまりからかんじゃないぞ」

「わかってるって~」


 シエスタ。この家で働くメイドの一人だ。母のサリィと共に親子共々住み込みで家事や雑務に励んでおり、無口ではあるが愛想は悪くなく、エヴィ家の夫婦からは娘のようにかわいがられている。


「どうやら感染する病気ではなさそうだから、明日からは君のことをサリィさん達に任せるけど、大丈夫かい?」

「もちろん。お仕事頑張って」

「ああ。それ以外に二つ、やるべきこともあるしな……。残業続きが目に見えるよ」


 エヴィ家の長が看病に専念するのは今日で終わりだ。放棄ではなく、二人の家政婦に任せても問題ないと判断したためだ。


「二つって~?」

「一つは……、ライノル先生の件だ……」

「あぁ、未だに信じられない……。なんて痛ましい……」

「二つ目は……、まぁ、こちらはその時が来たら話すよ。実現するかどうかも不明瞭な上、なにより時間がかかるからな。見込みでは、数年といったところか……」

「ふ~ん、もったいぶっちゃって。あ~、あの子がどこにいるかわからないと、むずむずしてくる~」


 彼女の日常もまた、非日常へ変わってしまう。もっとも、そのタイミングは変色病に罹患した時なのかもしれない。


「そういうものなのかい? 魔法も戦技も天技も使えない私にはわからない感覚だ」

「あなたにはあなたにしか出来ないお仕事があるじゃない。私、貸借対照表とか、ちんぷんかんぷん」

(何度も教えたはずなのだが……)


 病人でありながら、マチルダはその明るさを失わない。

 ハーロンもそれによって救われているが、夫として真相は見抜いている。


「ふぅ、ちょっと疲れたから少し眠るわ。エッチなことしないでねん」

「はいはい。私もサリィさんと打ち合わせしよう」


 つまりは、彼女のそれは空元気に近い。無理をしているといっても過言ではなく、性分から無意識にそうしてしまうのだが、ハーロンはそのことを理解しており、不必要な我慢を強要させるつもりはない。

 わずかに荒い呼吸。

 それを見守りながら、家長は立ち上がり窓を閉める。

 気分転換も兼ねた夫婦のコミュニケーションは一旦終わりだ。

 薬が届くまで、二人は二人のすべきことに努める。

 ハーロンは病の進行を遅らせるため、栄養豊かな食材を調達し、メイド達に食事を作らせる。

 マチルダは体力の消耗を抑えるため、暇であろうとベッドの中で大人しく待ち続ける。

 どちらの行為も、時間稼ぎでしかない。

 真の解決方法は一つ。ウイルが持ち帰る薬だけだ。

 それをわかっているからこそ、夫婦は待ち続ける。

 そして、信じ続ける。

 薬の到着と、息子の帰還を。

 二つは同じことを意味する。もちろん、どちらかだけが叶う可能性はあるのだが、そのような状況は想定したくない。

 答え合わせは三か月以内に済まされるのだから、焦る必要もない。

 父と母は託す。

 自分達の息子ならやり遂げてくれる。心の底からそう信じているのだから。



 ◆



 静まり返った空間に、パチパチと小さな音が鳴り響く。焚火が爆ぜる、暖かな騒音だ。

 周囲は黒色に塗り替えられ、夜空の欠けた月程度では太陽の代わりは務まらない。

 ここはまだマリアーヌ段丘。傾斜が多い草原地帯ゆえ、遠方まで眺められるか否かは場所に左右される。

 日が沈もうと、雨天でさえなければさほど冷え込みはせず、この少年のように何も羽織らずとも安眠は可能だ。

 とは言え、二つの要因が意識をゆっくりと覚醒させる。


「んん……?」

「あ、起きたー? そろそろ晩御飯食べない?」

(……え?)


 寝ぼけた頭はまだ霧がかったままだ。状況は飲み込めず、それでも涎を誘う刺激的な匂いとそれを引き立てる空腹が、寝ぐせそのままにウイルをもそもそと座らせる。


「あ……、ぼ、僕……、寝ちゃっ……てた?」

「うん、爆睡してたよー」


 その事実が、即座に驚きへ変換される。


(え? え? いつ? 確か、午後もずっと歩いてた……はず……なのに)


 ウイルとエルディアは、昼食後もルルーブ森林を目指して進み続けた。それ自体は間違いないのだが、気が付いたら夜もふけ、今に至っては夕食の準備が整っている。

 わからない。意識の連続性が確認出来ない。

 いつ寝てしまったのか?

 どのくらい眠り続けたのか?

 振り返ろうと、手がかりすら見当たらない。


「今朝買っておいたパエリア温まったよー。あ、こっちは現地調達のステーキね」


 肉料理ばかりだが、仕方ない。彼女の好みということもあるが、周囲には草原ウサギしか生息していないのだから、必然的に献立は狭まってしまう。

 肉汁溢れる肉の焼けた匂いと、それに香辛料の香りが混ざり合い、寝起きであってもウイルは唾液を我慢しきれない。

 だが、食事の前に少年は別の意味で口を開く。問わずにはいられないからだ。


「あの……! 僕っていつ寝てしまったんですか?」

「ん~……、時刻までは確認しなかったけど、多分、二時とかそれくらいかな? ふらふらしてるなぁって思ってたら、倒れこむようにすっと寝ちゃうんだもん。しかも、かわいい寝顔で。ごめんだけど、少しだけ笑っちゃったゼ」


 その返答に、ウイルはぎょっと目を見開く。エルディアはおもしろおかしく説明してくれたが、この旅路においてこの居眠りはどうしようもない失態だ。

 当初の計画にはなかった遠征なのだから、急がなければならない。

 にも関わらず、初日からこのありさまでは先が思いやられる。眩暈さえ覚えるほどだ。


「う、恥ずかしい限りです……。あ……」


 少年は己のミスを嘆く。足を引っ張り続けている現状に顔は朱色に染まり、追い打ちをかけるように腹部までグゥと食事を要求しだす。


「お、食べよ食べよ! まぁ、抱っこしていっきに進んでおいたから気にしないでー。ルルーブ森林との境界付近までは辿り着けてるよ」

「……え? え? い、意味が……、わからないです……」


 当然だ。彼女の発言は非常識かつ非現実的だ。教養のある人間なら、首を傾げるに決まっている。教育機関に通っていた貴族ならなお当然だ。

 出発地点のイダンリネア王国から目的地のルルーブ森林まで、ウイル達のペースではおよそ五日前後はかかってしまう。体力のある大人なら三日にまで短縮可能だが、どちらにせよ、かなりの遠距離だ。

 今朝、出発して以降、数時間は歩き続けたが、たいした距離は稼げていない。

 だが、二人の現在地はゴール手前らしい。それが何を意味するのか、寝起きの頭では整理出来るはずもなかった。


「もぐもぐ。んとねー」


 エルディアが口にしている料理は、羊肉のパエリアだ。羊に分類される魔物の肉とシーフードを具材に使う混ぜご飯であり、今は紙製の大皿にデカデカと盛られている。彼女が作ったわけではなく、今朝、ギルド会館にて購入した。

 それを飲み込み、スプーンを置いて右腕を自由にする。


「君をこうやって抱っこして、ダッシュ! 暗くなったからここに陣取って、うさぎ倒してさばいた! その肉がこれね。もぐもぐ。ちゃんと焼けてる、美味しい!」


 エルディアは満足そうに食事を再開する。そのための時間であり、彼女の態度は正しいと言える。

 一方のウイルは茫然としたまま、眼前の料理に手を伸ばせずにいる。空腹ではあるが、状況把握が完了しないと次に進めないからだ。


(嘘を言うような人じゃない。本当にここは手前なんだ。だとしたら……)


 明るい場所はここだけであり、周囲は暗闇に支配されている。自然の摂理に従い、夜は大地を黒く塗り替えてしまう。ゆえに遠方の景色など見えるはずもなく、聞き及んだ内容から自分達の現在地を推測、もしくは受け入れるしかない。


(えっと、地理学で習った……。確か、ルルーブ森林までおおよそ百キロメートル、だったはず……。時速十キロで走ったとしても十時間はかかる計算。それを、数時間程度で?)


 ありえない。なぜなら、エルディアは傭兵らしく武装している。軽鎧とはいえ、胸部を守るスチールアーマーはそれだけでも子供では持てないほどに重い。さらには、幅広の刃を誇る両手剣とパンパンに膨れた鞄を背負っているのだから、大人であろうと直立は困難だ。

 そして、最後の荷物が決定的と言える。眠っているウイルがそれであり、十二歳には見えないほど低身長だが、全身に贅肉を蓄えている。

 そんな少年を抱えながら、走れる人間などいるだろうか。

 総重量が自身の体重を易々と超えるにも関わらず、彼女は何時間も走り、そのついでに魔物をさばいて夕食の準備まで完了させた。

 傭兵だから可能なのか。

 エルディアが異常なのか。

 どちらにせよ、ウイルの常識は再び、破壊される。


(すごい……。本当に……。こんなことは出来るなんて……。いつか、いつか……、僕もそれくらい強くなれるのかな?)


 そう願わずにはいられない。


「ほらー、食べないとなくなっちゃうよー。パエリア美味しいよー」

「あ、いただきます。そうだ、パインジュース飲みます? 二本買ってありますよ」

「うわ、すごい! 一度でいいから飲んでみたかった!」


 ここからは楽しい夕食の時間だ。

 ウイルが鞄から二本の小瓶を取り出すと、容器の中は美味しそうな黄色の液体で満たされている。

 一本二千イールの高価な果汁ジュースだ。パインという甘酸っぱいフルーツを絞っただけのシンプルな飲み物だが、パインそのものが高級食材に分類されるため、庶民はおいそれと手が出せない。今のウイルなら一食を五百イールに抑えられるため、この小瓶一本で食事四回分の値打ちがある。


(こういうのを毎日のように食べてたんだよなぁ。そう考えると、貴族ってやっぱり普通じゃないんだな……)


 この少年が太っている理由はひとえに、食後のデザートが欠かさず提供されたことに起因する。ケーキや果物を前にすれば、満腹であってもなぜか完食出来てしまう。己の意志で食べなければ済む話ではあるが、子供にそれを望むのは酷な話だ。


「おぉー、これがパインジュース……。甘さと酸っぱさが合体しててとってもフルーティー。喉越しも最高。今は亡き……、いや、死んでないけど。所属するユニティのリーダーがこれ好きだったんだよねー。高いから滅多に飲めなかったみたいだけど」

「ユニティ……? エルディアさんも所属されてるんですね」


 ユニティ。傭兵が結成、運営する集団を意味する。志を共通とする者同士が集まり、依頼や魔物討伐に挑む際は協力しあうことで効率を高める。当然、一人よりも複数人の方が戦力面でも向上するのだから、ユニティに所属出来るか否かでその後の傭兵稼業は大きく左右される。


「うん。リーダーはもう引退しちゃったから、私ともう一人の小さなユニティだけどねー。ほら、これ」


 エルディアは左手で髪をさっとどかしながら、耳たぶを披露する。

 そこで輝く小さなピアス。黄色のそれはただ張り付いているだけだが、簡単には取れない。


「ユニティピアスですね。かなり高価なはずですけど、傭兵組合って変なところで太っ腹ですよね」

「へ~、これって高いんだ。もらったっきりだから、そこらへんのことは知らないなー」


 ユニティピアス。ユニティを結成する際はギルド会館の窓口に申し込むのだが、その際に支払う十万イールは手続き費用だけではなく、このピアス代も含まれる。最初に二個支給され、三個目以降はその都度十万イールを要求される。


「そんなサイズでも、通話機能を実現してるんですから、驚きです」

「だねー。最近は話し相手いないから使ってないけど、昔はリーダーとの待ち合わせとかで重宝したなぁ」


 ユニティピアスの大きさは、米粒より一回り大きい程度だ。外す際はなくさないよう注意しなければならない。

 極小のピアスではあるが、その機能は現存する魔道具の中でも至高の一つに数えられる。

 これ以外の道具を使わずに、離れた位置の他者と会話が行える。相手は同じユニティの仲間に限るが、それはそういう制御をかけているからであり、所属する傭兵にとってはそうでなければ不便きわまりない。

 最初に支給される二個は特価だが、三個目からの十万イールもありえないほどに破格だ。本来なら百万イール以上の値打ちがあり、それを安値で傭兵に売っている理由は、彼らがイダンリネア王国にとって欠かせない存在だからだ。

 傭兵がいなければ、王国民の暮らしは今の水準を保てない。

 食卓に肉を並べるためにも。

 薬の材料を揃えるためにも。

 清潔な衣服を着るためにも。

 傭兵は必要だ。銃が発明された昨今であっても、この事実は揺るがない。もちろん、傭兵の人口は減少せざるをえなかったが、腕の立つ者だけが生き残ったとも言える。


「え? でも、エルディアさん以外にもう一人いらっしゃるんですよね?」

「うん。その子は……、私が言うのもあれなんだけど、神出鬼没というか、基本一人で活動してるから、滅多に見かけないのよねー。あ、仲が悪いとかじゃないよ? リーダーがいた頃からそうだったしね」

「なるほど……。ところで、ユニティの名前は何て言うんですか?」


 傭兵組合に届け出る際、ユニティの名前を決めなければならない。組織であるのだから当然であり、エルディアの所属するそれにもユニティ名は存在する。


「オムレツサンド」

「え?」

「オムレツサンド」


 ウイルは後に知るのだが、ユニティ作成者の好きな料理がそのまま名前となった。傭兵らしいシンプルな動機だ。

 楽しい夕食が終われば、自室に戻ってベッドで横になりたい。だが、ここは野ざらしの大地ゆえ、屋根すら存在しない。ましてやエルディア一人に押し付けるわけにはいかず、ウイルは生まれて初めて食後の片づけを手伝う。

 当然、ノウハウはおろかやり方さえわからず、一つ一つ教えてもらいながら生ゴミを捨て、皿をしまっていく。


(ふぅ、さて……と)


 腹は膨れ、体力もいくらか回復した。ならばやるべきことは一つだ。

 焚火のそばで地図を見ているエルディアをよそに、ウイルはその場から少しだけ離れ、ブロンズダガーをすっと構える。

 わずかに腰を落とし、右足を半歩前へ進ませたら準備完了だ。


「お。素振りー? 偉いねー」


 彼女の綺麗な瞳が、少年の姿を捉える。暗闇の中で黙々と短剣を振り続ける様子は滑稽かもしれないが、それが鍛錬だと知っていれば話は別だ。


「はい。食後の運動は色々と効果的なので。きついトレーニングは微妙なんですけど、まぁ、これくらいなら……」


 満腹ゆえに本来ならば動きたくないのだが、そんな甘い考えはつい先ほど捨て去った。

 強くなるために。

 体力を強化するために。

 エルディアに少しでも近づくために。

 そして、母の病を治すために。

 現状維持ではダメだと気づかされた。疲労が溜まっていたとは言え、長旅の初日からばててしまったばかりか、気絶するように眠ってしまったのだから、自身の在り方を根底から否定しなければならない。

 ゆえに、ウイルは思考そのものを変化させる。

 そう。もはや他者に憧れるだけで終わりにはしたくない。エルディアの異常な身体能力に羨望の眼差しを向け、己の弱さを嘆いたところで進展などないのだから、今後はその先へ進む。

 つまりは、物事への捉え方を変える。自分の周囲で起こった出来事に対し、精神的な負荷とするか自分の糧とするか。

 今までは前者だった。

 エルディアの強さに驚き、自分の弱さを再認識して落ち込んだ。

 草原ウサギにすら勝てず、絶望するだけで終わっていた。

 だが、今後は違う。

 エルディアの強さに驚きつつも、自分に足りない部分を探す手がかりとする。

 草原ウサギにすら勝てないのだから、どうすれば勝てるか考える。

 彼女の傭兵としての実力は本物だ。お手本として優れているかどうかは今後も見極める必要があるが、部分的には参考に出来るかもしれない。

 自分の何倍、何十倍の速さで走れる脚力。

 無尽蔵なスタミナ。

 ウイルに足りない部分であり、これからの旅には必要不可欠だ。

 今のままでは、旅の完遂は夢物語で終わる。エルディアのおかげでそう気づけたのだから、少年は食事の間考え抜き、この境地に至る。


「食後の運動かー。そういうのって誰に教わるの?」

「僕の場合、アーカム学校で……、あ……」


 アーカム学校。イダンリネア王国に存在する唯一の教育機関。そこに通える子供はほんの一握りだ。貴族や優秀な軍人、金持ちの子供に限られる。

 庶民の中には学校そのものを知らない者も少なくなく、教養の圧倒的な格差が上流階級とそうでない者との差を永遠に埋めさせない。


「学校かぁ。軍学校だとそういうこと教えてもらえなかったなー。まぁ、私が忘れてるだけかも!」


 ガハハと笑うその顔は作り笑顔ではない。

 そもそも軍人用の学校は魔物との戦闘ないし祖国防衛に特化した機関ゆえ、教養や知識が身につくはずもない。

 少年の失言を聞き流し、彼女は手元の地図に視線を向ける。


(ふぅ、スルーしてもらえた。それとも、もう気づいてるのかな……?)


 ウイルは安堵しつつも、素振りを継続する。

 以前の身分が彼女にばれたところで困ることなどないのだが、貴族という特権階級に偏見の眼差しを向ける者も少なくないため、可能なら伏せておきたいと思ってしまう。

 子供なりの自己防衛だ。

 その後、三十分ほどが経過したタイミングで、思わぬハプニングが発生する。


「そういえば鎧脱いでなかった。通りできついわけだ」

「ふっ、ふっ、ふっ……。エルディアさんくらい強かったら、このあたりだと不要では?」

「そなんだけどねー。持ち歩くのも邪魔だし」

(……確かにそうか)


 スチールアーマーは胸部の前半分を覆ってくれる。鞄に入れられる大きさではなく、持ち運ぶとなると少々邪魔だ。


「さーてと……」


 エルディアは両手をそれぞれの肩付近に運ぶ。この鎧はエプロンのように二本の肩紐で固定されているだけだ。正しくは魔物の皮で作られたベルトがその役割を担っているのだが、どちらにせよ、脱着は容易い。

 その様子を、ウイルは無意識に眺めてしまう。素振りの最中だが、微妙な年頃ゆえ、本能に引っ張られる。

 いやらしい行為ではないはずだ。それでも、その仕草に少年の胸は高鳴ってしまう。

 そんな事情などお構いなしに、エルディアは肩紐をずらして胸部アーマーを取り外す。

 その瞬間、盗み見る二つの瞳は大きく見開かれる。


(うわ……、え……?)


 目を疑わずにはいられない。

 スチールアーマーが外されたことで、エルディアの上半身は肌着のような黒色の薄着一枚になる。

 その結果、露になる胸の膨らみ。マリアーヌ段丘に点在する丘が平坦に見えるほど、二つの山脈は壮大だ。


(母様やサリィさんより、ずっと大きい……)


 経産婦と比べたくなるほど、彼女のそれらは大きい。だからこそ、十二歳の少年は魅了され、夜の鍛錬はあえなく中断する。

 今までは鎧によって隠され続けてきた。それが外されたことで、ついにお披露目だ。


「んん~、この解放感~。そーれじゃ、近くに水場ないから、拭き取りシートで我慢するかなー」


 鞄から白色のケースを取り出すと、エルディアは大きな胸を揺らしながらすっと立ち上がる。


「そ、それって便利ですよね……」


 そう言いながらも、ウイルの視線は固定されている。ゆえに、ほゆんと揺れた瞬間を見逃しはしない。


「だよねー。安いし、綺麗になった気がするし、スースーして気持ち良いし」

「エタノールやらなんやらが含まれているので、間違いなく肌の汚れは取り除かれますよ。保湿ケアにもなるようなので、母やメイ……、家族も汗かいたらちょいちょい使ってました」


 拭き取りシート。傭兵だけでなく、多くの国民に愛用されている体拭き用の厚手シートだ。汚れを完全に取り除くことは不可能だが、水浴びが出来ない際の代用としては十分と言える。発汗後に使えば、清涼感も相まって非常に快適だ。

 この製品が安く買える理由は二つ挙げられる。

 傭兵が積極的に材料を集めてくれること。

 大量生産が可能であり、事実そうしていること。

 その結果、発明当初は高価だったが、徐々に値下がっていき、今では庶民や傭兵でさえ、日常的に使い捨てている。


「これがなかった頃の傭兵ってどうしてたんだろねー? んじゃ、あっちで拭いてくる」

「ど、どうぞ……」


 拭き取りシートを片手に、エルディアは暗闇の中へ消えていく。この場で肌を晒すわけにもいかず、大人の女性としてそのあたりはわきまえる。


(たしか……、九百九十年に発売だったかな? 発明者は、天才錬金術師のアレーネ。テストの問題に出たからなんとなく覚えてる……)


 素振りを再開しつつも、少年は思考の海を泳ぐ。

 今から二十一年前まで遡る。拭き取りシートの発売が教科書に載るほど画期的だったわけではなく、それを作成した女性が偉大だったため、年表とセットで生徒は覚えることとなる。

 アレーネ。謎多き錬金術師であり、老婆でありながら次から次へと発明品を世に送り出す。

 傭兵に関わる物も少なくはなく、ギルドカード、ユニティピアス、そして銃も彼女によって作られた。

 銃を発明した翌年に病死したため、今では偉人として歴史の教科書に記載されている。


(それはさておき……)


 もっとも、歴史上の人物など今はどうでもよく、それよりもエルディアのことで頭がいっぱいだ。


(おっぱい……、すごかった……)


 思い返すだけで、鼻血が出そうなほど興奮してしまう。

 はちきれそうなほど、膨らんだ服。

 起き上がる際のボリューミーな揺れ。

 どちらも思春期の男の子には刺激が強すぎた。

 高まったボルテージを消耗する代替行為として、ウイルは素振りの速度を乱暴に加速させる。今すぐにでも発散させなければ、雄たけびの一つも上げてしまいそうだ。

 五分後、エルディアは戻ると同時に目撃する。鍛錬にしては汗だくなウイルが、それでもなお一心不乱にブロンズダガーを振り続けている様子を。


「熱心だねー」

「は、はい!」


 寝間着代わりの肌着姿はそれはそれで色っぽく、少年は疲れ果てるまで鍛錬を止められなかった。

 その後、二人は初日にして傭兵らしく、草原のベッドで眠りにつく。

 まだ出発から一日も経過していない。

 それでも、エルディアのおかげでマリアーヌ段丘をいっきに駆け抜けることが出来た。ウイルにとってはうれしい誤算だ。同時に、己の弱さを再認識させられた。

 だが、そのことを嘆きはしない。弱音を吐いても意味などないと悟れたのだから、今後は無力な自分と向き合い、その上で前進することを誓う。

 焚火が消され、二人の世界に静寂が訪れる。

 周囲は再び闇に飲み込まれ、欠けた月がこの世界を見守っている。

 ここはまだマリアーヌ段丘。

 されど目的地は目と鼻の先だ。

 心地よい疲労感が少年を包み込む。そう思える程度には、心に余裕が生じてくれた。

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