お母さん、本当にごめんなさい。
あなたがいつも丁寧に洗濯してくれている制服ですが、青く染められた水に塗られてしまいました。
青シャツになってしまいました。
暑い暑い夏の日。
クーラーがきいている美術室には、俺と同学年の女子の2人きりだった。
ただでさえ幽霊部員が多い美術部。夏休みにわざわざ来る人はほぼほぼいないだろう。
俺がここに居る理由も、「冷房代がかかるから外出してろ」という母からのお達しなわけで。
だから俺はまともに部活動をしていない。しかし彼女はそうではなくて。
毎日毎日、俺が行った日は必ずいる。多分俺が居ない日もいる。
真面目に、黙々と描き進める彼女をチラ見するのは、なんとなく心地が良かった。
まぁそれはバレてたみたいだけど。
「ねぇ。」と、突然声をかけられる。
「な、なんでしょう?」
声が裏返る。俺は思った以上に驚いていたみたいだ。
「暇ならさ、水捨てて汲んできてくれない。」
某色塗るゲームでよく見る感じのバケツを指差してこっちすら見ずにそう言った。
それがなんだか感じ悪くて、「い、嫌です」って、つい返してしまった。
「は?私の事チラチラ見るぐらい明らかに暇なのに?」
「そ、それは…」
「いいから、持ってってよ」
バケツを持って、彼女は俺に近づいてくる。
「い、いや、そこまで来たら自分で行けばいいじゃないすか!!」
「うるさいな、いいから黙って…わっ!?」
彼女は目の前でつまづき、持っていたバケツの中の水が、高波のように俺に覆い被さる。
ただの水なら良かった。
その水は青に染まっていたのだ。
「ご、ごめん…」
「俺の…俺の制服が…」
いや、制服どころか、俺の髪やなんやら、全て濡れてしまった。
「う、うちで洗濯するから…脱いで…」
「は!?いやいや、帰れなくなっちゃうって!ジャージ持ってきてないし!」
「あ、そうだよね…ごめん…」
濡れた床を2人で拭く。なんだか物理的距離は縮まったのに、なんだか精神的距離は前より遠ざかっていた気がした。
あんなに強気にでてた彼女が、今はこんなにしおらしくなって。
なんだか逆に申し訳なくなった。
「じゃ、じゃあ俺…帰るから…」
「う、うん…」
なるべくカバンを身体につけないように慎重に持ち上げて、そのまま美術室から出ていこうとした、その時だった。
「…ま、待って!!!」
「え?」
ものすごい大きな声で呼び止められる。さっきの表情と一転して、なんだか興奮したような顔。目もキラキラ輝いていた。
「いいから!!そこで待ってて!!」
何かと思うと、急いで絵を描く準備を始めている。
「あの…」
「そこに突っ立ってて。いいよって言うまで動かないで。」
ものすごい勢いで描き始める。
そしてそのまま3時間ぐらい立たされたままだった。
「出来た…」
「あの…もう…」
「いいよ。ありがとう。」
俺は疲れきってその場に座り込む。
「ね、見て見て。」
「はい…?」
見てみると、そこには…
青い光の中で佇む、なんだか虚しく、そしてなんだか懐かしいような姿をした、”俺”がいた。
いや、俺なのかは分からない。顔は描かれていない。
彼女が描いた絵を何度か見たことがある、でもその中でダントツで、その絵が綺麗に見えた。
「…ありがとう」と、自然と口から出た。
「え、なんで?」
「いや…なんとなく」
「ふーん…」
本当に理由なんてなかった。でも、俺にも見えてない俺の内面を見透かしたような顔をしていた。
「もう夕方だし、帰ろ?」
まるで今まで一緒に帰っていたかのような口振りで、彼女は言う。
「え、一緒に?」とは、言わなかった。これを言ったら、多分俺を置いてさっさと行ってしまうと思ったから。
そのまま途中まで一緒に帰った。
家に帰るまでなんとも思っていなかったが、急に全身を真っ青に濡らされた上に3時間も立たされたことを思い出す。
ムカついたが、なんだかあの絵が頭から離れない。だから、許すことにした。
もちろん服のことについては、俺の顔も真っ青になるほど怒られた。
あれから十数年。
彼女とは、あの一件以降話していない。
というのも、あれからお盆休みに入り、学校に行く必要が無くなり、夏休み中は行かなくなった。
そこから時間が経ったからなのか、あの時のことがなかったかのように、全く喋らなくなった。
そんなこともとっくに忘れ、俺は同窓会に来ていた。
あの時仲良かった友達、ちょっと話したことある女子とも、他愛のない会話をする。
トイレに行ったあとも、そんな会話の続きをしようと、戻ろうとした。
「…あっ」
後ろからそんな声が聞こえた。振り返ってみると
「…あっ…」
あの、彼女だった。
「…久しぶり」
「うん、久しぶり」
彼女は学生時代の頃の姿と想像がつかないくらい、とても大人っぽくなっていた。
なんとなく話したくなり、隣の席に移動した。
「…本当久しぶり…だね」
「そうだね」
わざわざ行ったのに、何を話していいか分からなかった。
「…今、仕事は何をしてるの?」
そんな俺に気を使ってか、話題を振ってくれる。
「まぁ…しがない会社員だよ、そっちは?」
「私?今、イラストレーターやってる」
「そうなんだ…」
今でも絵に熱中していると知り、なんだか嬉しくなる。
「…昔から、誰よりも真剣に描いてたもんな」
「そう?」
「うん、びしょ濡れの人を3時間立たさせるくらい。」
なんだかあの時のことを話題にしたくて、いじりっぽく返す。
「…あっ!あの時はごめんって!!」
「はは、いいよ別に」
「俺、あの絵…今でも思い出すぐらい気に入ってんだ…」
酔いが回っているのか、なんとなくテンションが上がったのか、言うつもり無かったのに、そんなことを口走る。
「…ありがとう…嬉しい」
心底嬉しそうな顔をされて、ついついドキッと。
この時なんだか自覚した。俺、この子のことが…
「…あの、さ、今から…」
なんて、声に出した途端、あることに気がつく。
「どうしたの?」
彼女の左の薬指には、指輪があった。
「なんでもないよ。」
その後何を話したか分からない、ひたすらに頭がぼーっとして、気づいたら家に帰っていた。
そういえば青い服着てたなとか、ピアス青かったなとか、彼女の青い部分をひたすら思い出す。
でもあの絵以上に綺麗な青は、見当たらなかった。
あの頃の青に囚われたまま、俺は眠りについた。
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