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いつまでも洸ちゃんが出ていった扉を見つめたまま、璃空は動かない。
今にも駆け出してしまいたいはずなのに、机の上で強く拳を握り締めて耐えているのが分かる。璃空の心の悲鳴を隠すように、拳が震えている。
その姿に僕の方が泣きたくなる。
どうして我慢するの。自分の気持ちに素直になってもいいんだ、って教えてくれたのは璃空なのに。どうしてそれを自分に当てはめないの。でももしも、この疑問を璃空にぶつけてもきっと答えはこうだ。
――洸を困らせたくないんだ。それ以上に、一緒にいられなくなる方が嫌だ。
胸のもっと奥が痛かった。
いつも自信に満ち溢れているように見える璃空は、本当に大切なものに対してだけ、ほんの少しだけ臆病になる。それを目の当たりにした時、ああ彼も僕と同じ人間なんだな、と僕たちが恋人じゃなくなった高二の冬の日に初めて知った。
だからこそ、璃空の背中を押してあげたいのだ。
洸ちゃんに想いを伝えたとしても、きっと洸ちゃんは受け取ってくれる。同じ想いを返してくれなかったとしても。それの所為で態度を変えたりするような人じゃない。さっきだってそうだった。そんなに話したこともない筈の女の子の告白をちゃんと受け止めて、相手のことをしっかりと慮れる。
そんな洸ちゃんが、璃空を拒絶して一緒に過ごすことをやめるなんて、考えられない。
でも人というのは近くに居すぎると、そういうことも見えなくなることがある。
人によって理由は様々だけれど、璃空の場合は、洸ちゃんをあまりにも大切に思うが故だ。
だったらここは僕が、璃空の一歩を踏み出させてあげたい。
その一心で、喉を動かした。
「本当に、よかったの?」
ぴくりと体を揺らした璃空は、それでも黙ったままだった。
知っている。璃空が洸ちゃんを好きなこと。
高二の時、別れようと言われる前から、ずっと知っている。
洸ちゃんと出逢った璃空は、少しずつ変わっていったのをすぐ近くで見ていたから。
洸ちゃんと関わるようになってから、璃空のいつも浮かべていた当たり障りのない笑顔が、心の底からの笑顔に変わった。年相応に大きな口を開けて笑うようになった。
その笑顔を見た時から、覚悟していた。
きっと遠くない未来に、僕は璃空の恋人じゃなくなる、と。
でも何故だろう。不思議と悲しくはなかった。
璃空みたいに優しい人が心の底から笑えるようになったのが、嬉しい気持ちが一番大きかったから。その相手が洸ちゃんだという事実が、よりその気持ちを大きくさせたように思う。
洸ちゃんが、僕たちを受け入れてくれた初めての人だったから。
あの夕暮れの、キスを見られた日。
暗い海の底で苦しくて藻掻く僕たち二人の手を、洸ちゃんが強く掴んで救い上げてくれた。
少なくとも僕にとってはそうだった。同性を好きなことは悪いことだ、と自分自身に言い聞かせていた僕に、別に悪いことはしてないだろ、と否定してくれた。洸ちゃんは当然のように言ったけれど、僕は本当にあの言葉に救われたのだ。
みんなが言う『普通』じゃなくたっていい。僕は僕で良い。
そう自分を肯定できたのは、洸ちゃんのおかげだった。
だから、これは僕の勝手な願いなのは知っているけれど、璃空と洸ちゃんが恋人同士になってほしいのだ。
璃空が一番璃空らしくいられるのは、洸ちゃんの隣だと、はっきり言える。
ずっと見てきたから。
だから璃空にも、自分の心に嘘を吐いてほしくなかった。
「今ならまだ間に合うよ」
ぐっと璃空が奥歯を噛み締めたのが、顔のこわばりで分かった。
必死に自分の中の衝動を抑え込んでいるのだ。今すぐにでも洸ちゃんの元に行きたいはずなのに、自分勝手な想いをぶつけたくない、その一心で抑え込んでいる。
その意地を壊したくて、僕はさらに追い打ちをかける。
「他の人に、洸ちゃんを取られちゃって、本当にいいの?」
顔を下げた璃空の顔が、前髪で見えなくなる。
少しの沈黙の後、ふ、と机に乗っていた拳から力が抜けた。ゆっくりと顔を上げた璃空は、僕へと向き直る。眉を下げて笑っていた。ずきりと胸の奥が痛くなる。
「俺は、洸がしあわせならそれで良いんだ」
噛み締めるように、璃空は言った。僕は何も言えなかった。
「あいつが嬉しそうなのが一番嬉しいんだ。その相手が俺じゃなくても、あいつが嬉しいならそれで良いんだ」
その言葉は、まるで璃空が自分自身に言い聞かせるようだった。
こんな言葉で自分を納得させられるのなら、僕たちは苦労しない。こんな言葉で相手への気持ちをなかったことに出来るなら、もっと僕たちは楽しい毎日を送れる。
璃空の本当の願いは、自分が恋人として洸ちゃんの隣にいて、同じ時間を過ごして、泣いたり笑ったりすることのはずなのに。それでも璃空は、その選択肢を最初からないものとして扱う。
どうして、と思う。
自分の想いを押し殺して隣にいるのは、辛いはずなのに。
それを初恋の時に痛いほど経験したって言っていたのに。
苦しくて耐えがたいことを選んでしまうなんて。
でも、これが璃空の覚悟であり、結論だから。
それなら、僕にこれ以上できることはない。背中を押してあげることも、寄り添ってあげることも出来ない。だから、これだけは言わせて欲しい。
「本当に璃空ってばかだよ。正真正銘の、ばかやろうだよ」
滲んでしまった視界と声を隠すように下を向いた。
うん、知ってる、と言った声は僕と同じように滲んでいた。
どうか、と願う。
璃空の想いが、いつか報われますように。
報われないのなら、優しく溶けて彼の糧になりますように。
大事な友だちが、これ以上苦しい思いをしませんように。
存在しているかもわからない神様に、そう願うことしか僕には出来なかった。