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ながおけんと.
22
第一章 血の雨の中に立つ少年
深夜十二時三十七分。
山奥へ続く旧黒影トンネルの周囲では、嵐が狂ったように暴れていた。
空を切り裂く雷鳴。
滝のような豪雨。
崖下へ吹き荒れる冷たい風。
そして次の瞬間――
黒い高級車がガードレールを突き破り、トンネル入口近くの岩壁へ激突した。
爆発音が山全体に響き渡る。
炎が闇を赤く染めた。
車体は潰れ、ガラス片が雨の中へ飛び散る。
燃え上がる煙の向こうで、一人の少年がゆっくり立ち上がった。
白いシャツは血で染まり、額から流れる赤い雫が顎を伝って落ちていく。
少年は何も言わなかった。
ただ静かに、壊れた銀色のロケットを握り締めていた。
そこには奇妙な紋章が刻まれていた。
誰も見たことのない印。
雨が彼の黒髪を濡らす。
長い睫毛の奥にある瞳は、異様なほど静かだった。
まるで――感情を失っているように。
その時。
遠くから警笛の音が聞こえ始めた。
少年はゆっくり振り返る。
炎の中。
車内にはまだ誰かがいるように見えた。
だが彼は助けを呼ばなかった。
助けようともしなかった。
ただ静かに、その場を離れた。
まるで何かから逃げるように。
いや――
何かを諦めた人間のように。
翌朝。
その映像は瞬く間に全国へ広がった。
『山奥で発生した謎の事故』
『血まみれの少年』
『殺人事件か』
『被害者は身元不明』
誰かが撮影した短い映像。
炎の前に立つ少年。
その無表情な姿。
血だらけの手。
人々は好き勝手に言葉を投げつけた。
『絶対に犯人だ』
『目が怖すぎる』
『危険な人間だ』
『あんな顔をする高校生なんて異常だ』
数時間後。
少年の名前が明らかになる。
――ダンナー・シン。
しかし、それ以上の情報は存在しなかった。
家族構成。
出身地。
過去の記録。
学校歴。
すべてが空白だった。
まるで最初からこの世界に存在していなかったかのように。
その不可解さが、さらに人々の恐怖を煽った。
そして三日後。
ダンナー・シンは国内最高峰の名門校、白銀学院へ転入してきた。
校門前には朝から大量の生徒が集まっていた。
「あいつ、本当に来るの?」
「怖すぎるんだけど」
「人殺しって噂、本当かな」
不安と好奇心が入り混じった空気。
その中を、一台の黒い車が静かに止まった。
扉が開く。
ダンナー・シンが姿を現した。
空気が凍った。
誰も声を出せない。
黒髪。
鋭い目元。
感情を閉ざしたような表情。
そして左手には、包帯が巻かれていた。
生徒たちは本能的に彼を避けた。
誰も近づかない。
教師ですら目を合わせようとしなかった。
だがダンナーは何も気にしないように歩き出す。
その姿に、一人の少女だけが目を止めていた。
ルクマニ・カウル。
学院でも有名な優等生だった。
長い黒髪と静かな瞳を持つ彼女は、周囲の騒ぎとは違う感情を抱いていた。
怖い。
けれど――
なぜか目を離せなかった。
その時。
後ろから派手な声が響く。
「見てよ、あれ。本当に気味悪い」
ヴィシャーカだった。
美しく華やかな少女。
だがその笑みには棘がある。
「どう見ても危険人物でしょ。なんで学院が受け入れたの?」
周囲の生徒たちも同調する。
「絶対関わりたくない」
「目が怖い」
「いつか誰か刺しそう」
だがダンナーは振り返らない。
何も言わない。
反論もしない。
ただ静かに歩き続けた。
その背中は、奇妙なほど孤独だった。
教室へ入った瞬間。
空気がさらに重くなる。
担任教師はぎこちなく咳払いした。
「今日から転入してくるダンナー・シンだ。皆、仲良く――」
最後まで言えなかった。
誰も歓迎していないからだ。
教室の後ろの席。
そこだけが空いていた。
ダンナーは静かに座る。
窓際。
雨が降り続いている。
クラス中の視線が彼へ突き刺さった。
しかし彼は外を見つめたまま動かなかった。
まるで世界そのものに興味がないように。
昼休み。
誰も彼へ近づかなかった。
机の周囲だけ、不自然に空間が空いている。
ダンナーは一人でパンを食べていた。
その時だった。
廊下で小さな騒ぎが起こる。
清掃員の老人が荷物を落としてしまったのだ。
教科書や掃除道具が床へ散らばる。
だが生徒たちは笑うだけだった。
「邪魔なんだけど」
「早く片付けてよ」
老人は震える手で謝り続ける。
その瞬間。
静かに立ち上がった人物がいた。
ダンナーだった。
彼は無言で床にしゃがみ込み、散らばった荷物を拾い始める。
老人は驚いた顔をする。
「す、すみません……」
ダンナーは何も言わない。
ただ最後まで丁寧に荷物をまとめた。
その光景に、ルクマニは目を見開く。
人殺しだと言われている少年。
だが今、彼は誰よりも優しかった。
ヴィシャーカは不機嫌そうに顔を歪めた。
「偽善者っぽい」
だがルクマニは答えられなかった。
なぜなら彼女自身、混乱していたからだ。
本当に危険な人間なら。
あんな目をするだろうか。
その日の夜。
学院から離れた古い寺院。
雨はまだ止んでいなかった。
暗い本堂の片隅。
ダンナー・シンは一人で座っていた。
濡れた制服のまま。
静かに目を閉じている。
そして小さな声で祈り始めた。
「ワヘグル……ワヘグル……」
繰り返される祈り。
その声は、どこか悲しかった。
まるで壊れそうな心を必死に繋ぎ止めているように。
やがて。
一筋の涙が彼の頬を伝った。
「……ごめんなさい」
震える声。
「守れなかった……」
誰に向けた言葉なのか。
何を失ったのか。
その時だった。
寺院の外で、小さな足音が止まる。
ルクマニ・カウルだった。
彼女は偶然、帰宅途中にここを通りかかったのだ。
だが――
彼女は見てしまった。
誰よりも冷たく見えた少年が。
誰よりも孤独に泣いている姿を。
第二章 白銀グループの怪物
白銀学院――。
国内最高峰の若者育成機関。
政治家の子供。
巨大企業の後継者。
芸能界のスター。
未来の支配者たちが集まる場所。
その学院を裏から支配しているのが、巨大財閥「白銀グループ」だった。
莫大な資産。
政界への影響力。
世界中に張り巡らされた情報網。
表向きは慈善活動で有名な企業。
しかし裏では、“人間の価値”を選別しているという噂が絶えなかった。
そんな学院に、血の事故映像で全国的に有名になった少年が通い始めたことで、生徒たちは異常な熱狂を見せていた。
「見た? 昨日の記事」
「完全に危険人物じゃん」
「精神不安定って書いてあった」
「人殺したって本当かな」
昼休みの食堂。
大型画面には、またダンナー・シンのニュースが流れていた。
『暴力的傾向を持つ危険な少年』
『専門家が語る異常心理』
『事故の真相はいまだ不明』
悪意だらけの記事。
だが証拠は何一つない。
それでも人々は信じた。
なぜなら、“怖そうに見える人間”を悪者にする方が簡単だからだ。
窓際の席。
ダンナーは静かに食事をしていた。
誰とも目を合わせない。
誰にも近づかない。
その孤立した姿が、逆に周囲の恐怖を刺激していた。
その時。
ヒールの音が食堂に響く。
ヴィシャーカだった。
彼女の周囲には、いつもの裕福な生徒たちが集まっている。
「ねぇ」
彼女はダンナーの机を指で軽く叩いた。
「ここ、空気悪いんだけど」
周囲が笑う。
ダンナーは反応しない。
ヴィシャーカは机へ身を乗り出した。
「無視?」
彼女の目には苛立ちが浮かんでいた。
なぜなら。
普通の男子なら、自分に注目されれば必ず反応する。
だがダンナーだけは違った。
まるで自分に興味がない。
その事実が、彼女の自尊心を刺激していた。
「聞こえてる?」
その瞬間。
後ろの男子生徒が水の入ったコップを持ち上げた。
「こういう奴にはさ――」
バシャッ。
冷たい水がダンナーの制服にかかる。
食堂が静まり返った。
誰も止めない。
むしろ楽しそうに見ている。
ダンナーはゆっくり顔を上げた。
その目を見た瞬間。
水をかけた男子生徒は一歩後退した。
恐ろしかったのだ。
怒っているわけではない。
叫んでいるわけでもない。
なのに、その静けさが異様だった。
まるで深い闇を覗き込んでいるような感覚。
だが次の瞬間。
ダンナーは何も言わず、濡れた制服を軽く払っただけだった。
反撃しない。
怒鳴らない。
ヴィシャーカは逆に苛立つ。
「気味悪い……」
その時だった。
食堂入口で、小さな悲鳴が聞こえた。
年配の清掃員が、重い箱を落としてしまったのだ。
中に入っていた食器が床へ散乱する。
ガシャーンッ。
周囲の生徒たちは露骨に顔をしかめた。
「最悪……」
「汚いんだけど」
「早く片付けてよ」
老人は何度も頭を下げる。
「申し訳ありません……本当に……」
その姿を見て、誰も助けようとしなかった。
高級ブランドの制服を汚したくないから。
自分には関係ないから。
しかし。
一人だけ立ち上がる人物がいた。
ダンナーだった。
彼は静かに老人の前へしゃがみ込む。
割れた皿を丁寧に拾い集め始めた。
老人は驚いた顔をする。
「だ、大丈夫です……!」
ダンナーは何も言わない。
ただ黙って掃除を続けた。
その手は、さっき水をかけられたばかりなのに震えていなかった。
周囲の生徒たちは困惑する。
「なんであいつ……」
「演技じゃない?」
「でも……」
ルクマニは黙ってその光景を見ていた。
彼女の胸の中で、何かが崩れ始めていた。
怖い人間。
危険な存在。
そう思い込もうとしていた。
なのに。
目の前のダンナーは、誰よりも静かに他人を助けていた。
しかも。
自分が傷つけられた直後に。
ルクマニは理解できなかった。
どうして。
どうしてこの少年は、こんなにも孤独なのに優しくできるのか。
放課後。
学院の特別授業が始まる。
白銀学院では、生徒たちの能力を徹底的に測定する特殊試験が存在していた。
知能。
判断力。
反射速度。
危機管理能力。
巨大な電子画面が教室に浮かび上がる。
担当教師が冷たく言った。
「今日の試験は実戦型思考分析です」
生徒たちはざわめいた。
この試験は難易度が極端に高いことで有名だった。
問題が表示される。
複雑な戦略計算。
瞬間判断。
通常なら数十分かかる内容。
だが。
開始からわずか三十秒後。
ピコン。
終了音が鳴った。
教室が静まり返る。
全員の視線が一点へ向いた。
ダンナーだった。
教師が眉をひそめる。
「……もう終わったのか?」
結果が表示される。
満点。
しかも歴代最高速度。
教室が騒然となる。
「ありえない……」
「不正?」
「化け物じゃん……」
ヴィシャーカも言葉を失った。
教師は動揺しながらデータを見る。
だが異常はない。
完全な正解だった。
その瞬間。
ダンナーは小さく目を細めた。
教室の外。
廊下の角に立っていた警備員が、微かに右手を動かしたのだ。
普通なら気づかないほど小さな動き。
しかしダンナーの視線は瞬時にそこへ向く。
警備員も驚いた顔をした。
“気づいたのか?”
その表情。
次の瞬間。
警備員はすぐ立ち去った。
ルクマニはそのやり取りを見逃さなかった。
彼女は感じ始めていた。
この少年は、ただの転校生ではない。
何かが違う。
何か危険な秘密を抱えている。
夜。
学院の外れ。
古びた寺院へ続く石段。
雨上がりの空気は冷たかった。
ダンナーは静かに歩いていた。
その時。
暗闇の中から、一人の老人が現れる。
白髪。
深い皺。
高級そうな黒い服。
普通の老人には見えなかった。
老人はダンナーの前まで来ると、ゆっくり頭を下げた。
いや――
それは頭を下げる程度ではなかった。
まるで王へ忠誠を誓うように、深く膝を折ったのだ。
「お帰りなさいませ……若様」
ダンナーの目が静かに揺れる。
「……誰だ」
老人は顔を上げない。
「ずっとお待ちしておりました」
風が吹く。
寺院の鐘が小さく鳴った。
ダンナーの握る銀のロケットが微かに光る。
老人は低い声で続けた。
「皆、あなたが死んだと思っていました」
その言葉に。
ダンナーの表情が初めて僅かに変わる。
遠くで雷が鳴った。
その直後。
ダンナーの携帯端末が震える。
知らない番号からの短い文章。
『学院の誰も信じるな』
ダンナーの瞳が暗く染まった。
第三章 彼を見つめ始めた少女
白銀学院では、ダンナー・シンに関する噂が毎日のように増え続けていた。
「山奥の事故で人を殺したらしい」
「裏社会と関係がある」
「財閥の隠し子だって聞いた」
「絶対に普通じゃない」
だが奇妙なことに、誰も“真実”を知らなかった。
それでも人々は決めつける。
恐怖は、いつだって事実より速く広がる。
教室の窓際。
ダンナーは今日も一人で座っていた。
周囲の笑い声から切り離されたように、静かに本を読んでいる。
誰とも話さない。
誰も彼に話しかけない。
その姿を、ルクマニ・カウルは無意識に見つめていた。
あの日、寺院で見た涙。
あの孤独な背中。
どうしても頭から離れなかった。
「……本当に危険な人なの?」
小さく呟く。
だが答えは出ない。
だから彼女は、少しずつダンナーを観察するようになった。
最初はただの好奇心だった。
しかし、それは日に日に変わっていく。
昼休み。
生徒たちは友人同士で賑やかに昼食を囲んでいた。
だがダンナーだけは、いつも校舎裏の古いベンチで一人だった。
彼は高価な食事を持ってこない。
質素なパンと水だけ。
静かに食べ終えると、残ったパンを校門前の野良犬へ与えていた。
その犬は最初、怯えて近づかなかった。
だがダンナーは無理に触れようとしない。
ただ静かに座って待っていた。
やがて犬は少しずつ近づき、彼の手からパンを食べ始める。
その時だけ。
ほんの少しだけ。
ダンナーの表情が柔らかくなった。
その姿を遠くから見ていたルクマニは、胸の奥が妙に苦しくなった。
なぜだろう。
彼は誰よりも孤独なのに。
どうしてあんなに優しい目をするのだろう。
その日の放課後。
学院の廊下で騒ぎが起きた。
数人の男子生徒が、一年生の少年を囲んでいた。
「お前みたいな貧乏人がこの学院にいるの、マジで笑える」
教科書が床へ投げ捨てられる。
少年は震えながら頭を下げた。
誰も止めない。
見て見ぬふり。
それが白銀学院だった。
その時。
静かな足音が近づく。
ダンナーだった。
男子生徒たちは顔をしかめる。
「なんだよ」
ダンナーは何も言わない。
ただ床に落ちた教科書を拾い、少年へ渡した。
「帰れ」
低い声。
感情の見えない瞳。
男子生徒たちは舌打ちした。
「……チッ」
だが結局、誰も逆らえなかった。
彼の周囲には、奇妙な圧力があった。
暴力ではない。
けれど本能的に恐怖を感じさせる何か。
男子生徒たちは去っていく。
助けられた少年は涙目で頭を下げた。
「ありがとうございます……」
ダンナーは答えない。
そのまま立ち去る。
まるで感謝されることに慣れていない人間のように。
その様子を見ていたルクマニの中で、噂と現実が少しずつ崩れ始めていた。
翌朝。
まだ空が薄暗い時間。
ルクマニはある決意をしていた。
――ダンナーを追いかけてみよう。
自分でも理由は分からない。
ただ、知りたかった。
本当の彼を。
学院へ向かう途中。
ダンナーは突然、駅前から離れた細い坂道へ入っていく。
その先にあったのは、古びた小さな寺院だった。
早朝の静寂。
冷たい風。
誰もいない本堂。
ダンナーは靴を脱ぎ、静かに座る。
そして目を閉じた。
「ワヘグル……」
小さな声。
「ワヘグル……」
繰り返される祈り。
まるで自分自身を支えるように。
ルクマニは息を呑んだ。
彼は毎朝ここへ来ていたのだ。
誰にも知られず。
誰にも見せず。
祈り続けていた。
その横顔は、学院で見せる冷たい表情とはまるで違っていた。
孤独。
悲しみ。
そして深い痛み。
それが静かに滲んでいる。
突然。
ダンナーが小さく呟いた。
「……どうすれば、人を憎まずにいられるんだろう」
ルクマニの胸が強く締め付けられる。
彼は苦しんでいた。
誰よりも。
その時だった。
背後から足音が響く。
現れたのは長身の男だった。
黒いコート。
鋭い眼差し。
――アングド・シン。
彼はダンナーを見るなり低い声で言った。
「時間がない」
ダンナーは静かに立ち上がる。
「何があった」
「連中が動き始めている」
アングドの表情は異常に険しかった。
「お前を精神的に壊すつもりだ」
ルクマニは柱の陰で息を潜める。
アングドは続けた。
「秘密儀式の日が近い。その前に、お前を完全に孤立させる気だ」
「……そうか」
ダンナーは驚かなかった。
まるで最初から知っていたように。
アングドは強く拳を握る。
「気をつけろ。学院の中にも敵がいる」
沈黙。
そしてアングドは低く呟いた。
「お前はまだ思い出していない。だが連中は恐れている」
「何を」
「お前が“真実”を思い出すことを」
ルクマニの心臓が跳ねる。
真実。
秘密儀式。
敵。
一体、ダンナーは何者なのか。
その日の午後。
学院内で奇妙な噂が広がり始めた。
校舎の壁に、見慣れない印が描かれているというのだ。
ルクマニも実際に目にした。
黒い塗料で描かれた奇妙な紋章。
どこか不気味で、見るだけで不安になる。
そしてその印は――
ダンナーが持っていた銀色のロケットと同じ形だった。
生徒たちは怯え始める。
「呪いじゃない?」
「気味悪い」
「絶対ダンナーが関係してる」
噂は再び彼へ向かう。
ヴィシャーカはそれを嬉しそうに眺めていた。
最近、ルクマニがダンナーを気にしている。
それが面白くなかった。
「まさか、あんな奴に興味あるわけ?」
昼休み。
ヴィシャーカはわざと強い口調で言った。
ルクマニは眉をひそめる。
「別にそういうわけじゃ……」
「じゃあ何? 最近ずっと見てるじゃない」
ヴィシャーカの瞳に苛立ちが浮かぶ。
「危険人物なのよ? あんな奴と関わったら、ルクマニまで変な噂立てられる」
ルクマニは反論できなかった。
だが心のどこかで思っていた。
本当に危険なのは――
噂を信じて人を傷つける側ではないのか。
その夜。
学院の室内プールは誰も使っていなかった。
ルクマニは忘れ物を取りに来ていた。
だが更衣室近くで、誰かの気配を感じる。
静かな水音。
彼女は思わず足を止めた。
そこにいたのはダンナーだった。
濡れた黒髪。
静かにタオルで身体を拭いている。
その瞬間。
ルクマニの呼吸が止まる。
ダンナーの背中には、無数の傷跡が刻まれていた。
赤黒く残る長い線。
古い火傷。
鋭利なもので裂かれたような痕。
まるで――
長年、拷問を受け続けてきた人間の身体だった。
ルクマニは震える。
「あ……」
小さな声が漏れた瞬間。
ダンナーが振り返る。
静かな瞳。
だがその奥に、一瞬だけ鋭い警戒が走った。
そしてルクマニは初めて理解する。
彼が隠している“闇”は。
想像していたより、ずっと深いのだと。
第四章 誰にも理解されなかった祈り
夜と朝の境界が最も曖昧になる時間。
午前四時十七分。
街はまだ眠っていた。
高層ビルの灯りも消え、車の音すら聞こえない。
白銀学院の寮の窓にも、まだ明かりは一つもなかった。
冷たい風だけが静かに通り過ぎていく。
その静寂の中。
一人の少年が、ゆっくりと学院の裏門を出て行った。
ダンナー・シンだった。
黒いパーカーを羽織り、誰にも気づかれないように歩いていく。
その背中には、どこか深い孤独が滲んでいた。
だが足取りは迷っていない。
まるで毎日同じ道を歩いている人間のようだった。
数分後。
彼は古びた小さな寺院へ辿り着く。
山の麓にひっそり建つその寺院は、昼間でも人がほとんど来ない場所だった。
雨で色褪せた木の柱。
壊れかけた石灯籠。
風に揺れる古い鈴。
ダンナーは静かに靴を脱ぎ、本堂へ入る。
冷えた床に膝を下ろし、ゆっくり目を閉じた。
そして、小さな声で唱え始める。
「ワヘグル……」
静かな祈り。
「ワヘグル……」
その声には力があった。
怒りでも絶望でもない。
もっと深く、もっと静かな強さ。
「ワヘグル……」
何度も何度も繰り返される祈り。
それはまるで、傷ついた魂を支える呼吸のようだった。
寺院の外では、空が少しずつ青みを帯び始めている。
だがダンナーは動かない。
ただ静かに祈り続ける。
その姿には、不思議なほどの安らぎがあった。
まるで世界中から憎まれても、この時間だけは心を失わずにいられるように。
その頃。
学院では、彼への悪意がさらに広がっていた。
『危険人物』
『暴力的』
『殺人犯』
匿名の噂は止まらない。
食堂では彼が座った席を避ける生徒もいた。
廊下ですれ違うだけで、小声で悪口を言われる。
だがダンナーは反論しない。
怒鳴らない。
誰かを憎むこともしなかった。
まるで、自分だけ別の世界を生きているように。
その理由を、誰も知らない。
いや――
誰も知ろうとしなかった。
その朝。
ルクマニ・カウルは偶然、ダンナーが寮を出る姿を見ていた。
最初は気になっただけだった。
だが気づけば、彼女は静かに後を追っていた。
なぜ毎朝いなくなるのか。
なぜ彼はいつも疲れたような目をしているのか。
なぜ、あれほど孤独なのか。
知りたかった。
本当の彼を。
冷たい朝霧の中。
ルクマニは遠くからダンナーを見つめる。
そして彼が寺院へ入っていく姿を見て、驚きで立ち止まった。
「……お寺?」
想像していなかった。
彼女は柱の陰へ隠れ、静かに本堂を覗く。
そこで見た光景に、言葉を失った。
ダンナー・シンが、静かに祈っていた。
まるで心を捧げるように。
まるで誰かを救いたいように。
彼の横顔は、学院で見せる冷たい表情とはまったく違っていた。
悲しいほど穏やかだった。
そして次の瞬間。
ルクマニはさらに息を呑む。
ダンナーが小さく祈り始めたからだ。
「どうか……」
震える声。
「僕を憎む人たちが、幸せでありますように……」
ルクマニの瞳が揺れる。
理解できなかった。
どうして。
どうしてそんなことを願えるの。
皆、あなたを傷つけているのに。
皆、あなたを怖がっているのに。
それでも彼は、誰かを恨まなかった。
ダンナーはゆっくり目を閉じる。
「苦しみが……誰にも続きませんように……」
その声は、本当に優しかった。
偽善ではない。
見せかけでもない。
長い孤独の中で、それでも失わなかった優しさだった。
ルクマニの胸が痛む。
彼女は今まで、ダンナーを恐れていた。
危険な人間だと思おうとしていた。
けれど今。
目の前にいる少年は、誰よりも傷ついているように見えた。
静かに。
誰にも助けを求めず。
一人で。
その時だった。
ダンナーの指先から、古い銀色のロケットが滑り落ちる。
床に小さな音が響いた。
彼は慌てたように拾い上げる。
その瞬間だけ。
彼の表情が崩れた。
深い痛み。
消えない後悔。
胸を引き裂くような悲しみ。
ルクマニは気づく。
あのロケットには、彼の過去が隠されている。
そしてきっと。
彼を壊した何かも。
一方その頃。
巨大企業「白銀グループ」の超高層ビル最上階では、重苦しい空気が流れていた。
巨大な円卓。
そこに数人の幹部たちが座っている。
全員が高級スーツ姿。
だが彼らの目には、人間らしい温度がなかった。
大型画面にはダンナーの監視映像が映し出されている。
寺院で祈る姿。
学院で孤立する姿。
無表情な横顔。
一人の男が低い声で言った。
「精神状態は安定しているようです」
別の男が資料を閉じる。
「だが危険性は依然として高い」
「感情制御能力が予測不能だ」
「記憶が戻れば問題になる」
彼らの口調は冷たかった。
まるで人間について話しているようではない。
兵器について議論しているようだった。
その時。
長い沈黙を守っていた女性が静かに口を開く。
ギャン・カウル。
白銀グループ最高幹部。
誰も逆らえない存在。
彼女は画面の中のダンナーを見つめながら、小さく笑った。
「まだ優しさを捨てていないのね」
その声には奇妙な感情が混ざっていた。
哀れみ。
期待。
そして――恐れ。
「だからこそ危険なのよ」
部屋が静まり返る。
ギャン・カウルは静かに立ち上がった。
「人は憎しみより、優しさに支配される方が弱い」
誰も反論できない。
彼女は最後に一言だけ残した。
「監視を続けなさい」
画面の中で。
ダンナーはまだ祈っていた。
まるで、この世界をまだ信じているかのように。
朝日が寺院へ差し込み始める。
淡い光が彼の横顔を照らした。
ルクマニは胸を押さえる。
なぜだろう。
涙が出そうだった。
ダンナーは静かに立ち上がる。
そして寺院の外へ歩き出した。
その時。
彼はふと空を見上げ、小さく呟く。
「人は……」
風が吹く。
「理解しようとしなかったものを、恐れるんだ」
第五章 銀のロケットに隠された秘密
夜十一時。
東京中心部から少し離れた古い雑居ビルの一室だけが、まだ明るかった。
薄暗い部屋の中には大量の新聞、資料、写真、そして壁一面に貼られた人物相関図。
机の上には冷めきったコーヒー。
女性は疲れた目を擦りながら、画面を見つめていた。
――リチャ・トリパティ。
有名な調査記者だった。
彼女は権力者の裏側を暴くことで知られている。
そして今、彼女が追っているのはたった一人の少年。
ダンナー・シン。
「……やっぱり、おかしい」
彼女は低く呟いた。
事故映像。
消された記録。
身元不明の過去。
さらに奇妙なのは――
ダンナーに関する公的情報が、意図的に削除されていることだった。
普通の高校生に、ここまで徹底した情報操作など行われない。
リチャは古い資料をめくる。
その時だった。
一枚の写真が机から滑り落ちる。
それは十五年前の孤児院火災事件の記事だった。
『十二名の子供が行方不明』
記事の隅には、小さな紋章が写っている。
リチャの動きが止まった。
「……これは」
彼女は急いで別の写真を取り出す。
そこには事故現場で撮影されたダンナーの銀のロケット。
刻まれている印。
そして孤児院の記事に映る印。
完全に一致していた。
心臓が嫌な音を立てる。
偶然ではない。
誰かがこの印を隠している。
しかも――
関わっているのは巨大財閥だった。
リチャはさらに調査を進める。
消えた孤児。
存在を抹消された子供たち。
そして複数の大富豪一家との繋がり。
全ての情報が途中で消されていた。
まるで見てはいけない真実に近づいているかのように。
その時。
突然、部屋の電気が一瞬だけ点滅した。
リチャは顔を上げる。
窓の外。
向かいのビル屋上に、誰かが立っていた。
黒いコート姿。
こちらを見ている。
リチャは咄嗟にカーテンを閉めた。
嫌な予感がした。
「……時間がない」
彼女は震える手で録音機を手に取った。
「もし私に何かあったら、このデータを必ず公表して――」
その頃。
白銀学院では、さらに不穏な空気が広がっていた。
昼休み。
食堂の中は騒がしかった。
しかし、その中心にいるのはいつも同じ人物だった。
ヴィシャーカ。
彼女は机に肘をつきながら、わざと大きな声で話していた。
「ねえ、聞いた? ダンナーって前の学校でも問題起こしてたらしいよ」
周囲の生徒たちが食いつく。
「本当に?」
「やっぱ危険人物なんだ」
「目つき普通じゃないもん」
ヴィシャーカは満足そうに笑った。
「しかもさ、人が消えた事件とも関係してるって噂」
もちろん証拠などない。
だが人は、恐怖を与えられると簡単に信じる。
ダンナーは教室の窓際で静かに本を読んでいた。
誰も近づかない。
まるでそこだけ別世界のようだった。
その光景に耐えられなくなった人物がいた。
ルクマニだった。
「もうやめて」
食堂の空気が止まる。
ヴィシャーカはゆっくり振り返った。
「何が?」
「根拠もない噂ばかり広めてる」
ヴィシャーカは鼻で笑う。
「でも皆そう思ってるじゃない」
「それが正しい理由にはならない」
空気が張り詰める。
周囲の生徒たちは黙り込んだ。
ヴィシャーカの目が冷たく細まった。
「……あんた、最近おかしいよね」
「え?」
「まさかダンナーの味方するの?」
ルクマニは言葉に詰まった。
自分でも分からない。
なぜ彼を庇いたくなるのか。
なぜ放っておけないのか。
ヴィシャーカは苛立ったように立ち上がる。
「気をつけなよ。ああいう人間は危険だから」
「ヴィシャーカ――」
「もういい」
彼女は背を向けた。
その瞬間。
二人の間に見えない亀裂が生まれた。
放課後。
学院では創立記念行事が開かれていた。
体育館には大量の生徒が集まり、照明が眩しく輝いている。
音楽。
笑い声。
華やかな空気。
だがダンナーだけは端の暗い場所に立っていた。
誰とも話さない。
まるでこの世界から切り離されているように。
その時だった。
突然。
会場の照明が全て消えた。
女子生徒たちの悲鳴。
ざわめき。
非常灯だけが赤く点滅する。
次の瞬間。
黒い仮面をつけた男たちが体育館へ侵入してきた。
「なっ……!?」
生徒たちは混乱する。
男たちは迷いなくダンナーへ向かった。
その動きは異常に速い。
普通の犯罪者ではない。
一人がナイフを抜く。
「確保しろ」
低い声。
周囲は恐怖で動けなかった。
だがダンナーだけは静かだった。
彼の目が一瞬だけ変わる。
まるで別人のように。
男が襲いかかる。
次の瞬間。
ダンナーの身体が流れるように動いた。
肘打ち。
回避。
関節技。
全てが異常なほど正確だった。
「がっ……!」
男の身体が床へ叩きつけられる。
周囲の生徒たちは言葉を失った。
速すぎる。
迷いがない。
まるで訓練された兵士の動き。
さらに二人が同時に襲いかかる。
だがダンナーは一歩も下がらない。
冷静すぎるほど冷静だった。
拳が飛ぶ。
男の腕を掴む。
そのまま身体を捻り、相手を壁へ激突させる。
鈍い音。
悲鳴。
体育館は地獄のような混乱に包まれた。
ルクマニは震えながらダンナーを見つめていた。
怖い。
なのに目を離せない。
彼は一体何者なのか。
最後の一人が倒れた時。
仮面の男は血を吐きながら笑った。
「思い出すな……」
ダンナーの動きが止まる。
男は震える声で叫んだ。
「組織は……絶対に……お前に真実を思い出させるなと……!」
その瞬間。
男の口から大量の血が溢れた。
生徒たちの悲鳴。
男は痙攣し、そのまま動かなくなる。
静寂。
誰も声を出せなかった。
赤い非常灯の下。
ダンナー・シンだけが静かに立っていた。
まるで――
死よりも恐ろしい過去を知っている人間のように。
第六章 財閥一族が隠した最大の罪
深夜二時。
雨の音だけが静かな部屋に響いていた。
リチャ・トリパティは古びた資料室の中で、一人黙々と書類を読み続けていた。
白銀グループ。
国内最大級の財閥企業。
表向きは慈善活動や教育支援で有名な巨大組織。
しかし――
リチャは数週間前から、この企業に異常な違和感を抱いていた。
消された記録。
存在しないはずの資金。
突然消えた家族。
そして、ダンナー・シン。
すべてが一本の線で繋がり始めていた。
彼女は震える指で古い機密資料をめくる。
そこには十数年前の記事が挟まれていた。
『地域暴動により複数家庭が崩壊』
『危険思想を持つ移民家族への抗議活動激化』
『財閥支援団体、安全維持を発表』
一見すると普通の記事。
だが、細かく読むほど異常だった。
暴動が起きた地域。
破産した家庭。
失踪した人物。
そのすべてが、白銀グループと関係していた。
さらに奥の資料には、恐ろしい記録が残されていた。
“恐怖と偏見は最も効率的な支配手段である”
リチャの顔から血の気が引く。
「まさか……」
白銀グループは、人々の偏見を意図的に煽っていた。
貧富差別。
民族対立。
学校内での階級意識。
世間へ流される印象操作。
恐怖を利用し、人々を分断することで権力を維持していたのだ。
しかも、その対象には子供まで含まれていた。
リチャは次のページを開いた。
そこに記されていた名前を見た瞬間、彼女は息を止める。
――ダンナー・シン。
その下にはさらに二つの名前。
父親。
母親。
そして赤文字でこう記されていた。
“内部告発危険人物”
リチャは立ち上がる。
「嘘でしょ……」
ダンナーの両親は、白銀グループの秘密を暴こうとしていた。
だが、その直後に失踪した。
事故死として処理された記録。
しかし実際には遺体すら発見されていない。
つまり――
消されたのだ。
その瞬間。
資料室の外から物音が聞こえた。
リチャは慌てて電気を消す。
足音。
誰かが近づいてくる。
重くゆっくりした足音だった。
彼女は息を潜める。
扉が開く。
黒い服を着た男たち。
「侵入記録がある。探せ」
低い声。
リチャの背中を冷たい汗が流れる。
彼女は机の下へ隠れながら、小型端末へ急いでデータを保存した。
その時。
一枚の写真が床へ落ちる。
古い家族写真。
そこには幼いダンナーが映っていた。
しかしその表情は今と違った。
笑っていたのだ。
無邪気に。
幸せそうに。
リチャは写真を握り締める。
「あなた、一体何を失ったの……」
その頃。
白銀学院。
夜の屋上。
ダンナーは一人で夜景を見下ろしていた。
冷たい風が制服を揺らす。
彼は最近ずっと眠れていなかった。
頭の奥で、知らない記憶が何度も壊れたように浮かんでは消える。
炎。
悲鳴。
誰かの泣き声。
そして。
『逃げて……ダンナー……!』
女性の声。
彼は目を閉じる。
頭痛が激しくなる。
その時だった。
後ろから静かな足音が近づく。
「またここにいたのね」
ルクマニだった。
ダンナーは振り返らない。
「危ないから戻れ」
冷たい声。
だがルクマニは帰らなかった。
彼女は少しだけ距離を空けて隣へ立つ。
「最近、ちゃんと寝てないでしょ」
「関係ない」
「関係ある」
即答だった。
ダンナーは少しだけ目を細める。
ルクマニは以前よりも彼の変化に敏感になっていた。
無理している時。
苦しんでいる時。
孤独を隠そうとしている時。
全部わかってしまう。
だからこそ怖かった。
彼は誰も近づけようとしない。
まるで最初から、自分が孤独になる未来を受け入れているようだった。
ルクマニは小さく呟く。
「どうしてそんなに一人で抱え込むの……」
ダンナーは答えない。
ただ夜空を見る。
その横顔は悲しいほど綺麗だった。
ルクマニの胸が苦しくなる。
好きになってはいけない。
危険だとわかっている。
それでも。
彼を放っておけなかった。
その時。
遠くの物陰から誰かが二人を見つめていた。
ヴィシャーカだった。
彼女は暗い表情で携帯を握り締める。
画面には匿名の連絡先。
『現在位置を送れ』
ヴィシャーカは唇を噛む。
迷い。
不安。
そして嫉妬。
彼女はルクマニを見る。
ダンナーを見る。
胸の奥が黒く濁っていく。
「どうしてあの子なの……」
彼女は震える指で送信ボタンを押した。
『屋上にいます』
直後。
画面へ返信が届く。
『よくやった』
ヴィシャーカは小さく息を呑む。
だがもう後戻りできなかった。
翌日。
学院の地下駐車場。
ダンナーは無言で歩いていた。
すると暗闇の奥から低い声が響く。
「随分大きくなったな」
ダンナーの目が鋭くなる。
現れたのは、長身の男。
アンガド・シンだった。
鋭い目。
傷だらけの手。
普通の人間ではない空気。
ダンナーは警戒する。
「誰だ」
アンガドは静かに答える。
「お前を守ってきた人間だ」
空気が止まる。
ダンナーは眉をひそめた。
「意味がわからない」
「お前は昔から狙われていた」
アンガドはゆっくり近づく。
「お前の両親が消えた日からな」
ダンナーの呼吸が止まる。
「……何を知ってる」
「全部はまだ話せない」
アンガドは低い声で続けた。
「だが一つだけ言える」
「お前の両親は犯罪者じゃない」
「そして、お前も違う」
ダンナーの拳が震える。
初めてだった。
誰かが迷いなく、自分を否定しなかったのは。
アンガドはポケットから古い鍵を取り出した。
「お前に返す時が来た」
その鍵には、銀色の紋章が刻まれていた。
ダンナーのロケットと同じ印。
彼の瞳が揺れる。
「これは……」
「真実へ繋がる鍵だ」
その瞬間。
遠くでシャッター音が響いた。
誰かが撮影している。
アンガドは即座に振り返る。
しかし既に気配は消えていた。
その頃。
ルクマニは学院図書館の古い倉庫を整理していた。
すると、一冊の古いアルバムが床へ落ちる。
埃まみれの写真。
彼女は何気なくページを開いた。
次の瞬間。
呼吸が止まる。
そこに映っていたのは――
幼い頃の自分。
そして。
隣で笑っている少年。
黒い髪。
静かな瞳。
首には銀色のロケット。
間違いない。
ダンナー・シンだった。
ルクマニの手が震える。
「……嘘……」
写真の裏には、小さな文字が書かれていた。
“また会おうね ダンナー”
その瞬間。
彼女の中で、何かが大きく動き始めていた。
第七章 先に恋へ落ちた少女
雨上がりの朝だった。
白銀学院の中庭には薄い霧が漂い、濡れた石畳が淡く光っている。
ルクマニ・カウルは窓際に立ちながら、静かに下を見つめていた。
視線の先には、黒い制服姿のダンナー・シン。
彼はいつものように一人だった。
誰とも話さない。
誰にも近づかない。
だが最近、ルクマニの目は無意識に彼を探してしまう。
授業中も。
休み時間も。
廊下ですれ違う瞬間さえも。
そして気づいてしまった。
――自分は、彼を好きになっている。
その事実を理解した瞬間、胸が苦しくなった。
普通の恋ではない。
相手は学院中から恐れられている少年。
暗い噂に包まれた存在。
なのに。
彼の孤独そうな背中を見るたび、心が締め付けられる。
「……重症ね」
後ろから声がした。
振り返ると、親友の一人が呆れた顔で立っていた。
「最近ずっと見てるじゃない、ダンナーのこと」
「ち、違っ……」
「顔赤い」
ルクマニは慌てて窓から離れた。
だが否定できなかった。
なぜなら本当に、彼のことで頭がいっぱいだったから。
その時。
中庭で女子生徒たちの悲鳴が上がる。
視線が集まる。
ダンナーの近くで、重い植木鉢が倒れそうになっていたのだ。
危ない。
誰もがそう思った瞬間。
ダンナーは反射的に片手で植木鉢を支えた。
普通ではあり得ない速度だった。
まるで危険を予測していたかのように。
女子生徒たちは呆然とする。
「すご……」
だがダンナーは何も言わず、そのまま立ち去った。
ルクマニの胸がまた強く鳴る。
どうして。
どうして彼は、あんなに優しいのに誰にも理解されないのだろう。
昼休み。
ルクマニは図書室で本を探していた。
高い棚へ手を伸ばした瞬間。
指先が届かない。
あと少し。
その時。
後ろから長い腕が伸び、本が静かに取られた。
ルクマニの肩が小さく跳ねる。
振り返る。
すぐ近く。
ダンナーが立っていた。
距離が近すぎた。
心臓が止まりそうになる。
「……これ?」
低い声。
ルクマニは言葉を失う。
ダンナーは表情を変えないまま、本を差し出した。
しかしその瞬間。
彼の指先が彼女の手に触れた。
熱い。
たった一瞬なのに、身体中が熱くなる。
ルクマニは慌てて本を受け取った。
「……あ、ありがとう」
ダンナーは小さく頷くだけだった。
そしてそのまま離れていく。
だが去り際。
彼が微かに振り返ったことを、ルクマニは見逃さなかった。
その視線だけで胸が苦しくなる。
「本当に終わってる……私……」
彼女は顔を隠すように本を抱き締めた。
放課後。
学院の廊下。
ヴィシャーカは壁にもたれながら、遠くで話すルクマニを見つめていた。
その目は冷たい。
「本気なんだ……」
面白くなかった。
なぜならダンナーは、誰にも興味を示さない。
自分にも。
学院中の美少女たちにも。
だが最近、彼の視線だけは時々ルクマニへ向いている。
それが気に入らない。
ヴィシャーカは静かに笑った。
「じゃあ壊してあげる」
その夜。
学院の特別棟。
ルクマニは資料を届けるため、人気のない廊下を歩いていた。
その時。
角の向こうから声が聞こえる。
女性の声だった。
「……あなたのこと、本当に心配してるの」
ルクマニは足を止める。
聞き覚えのある低い声。
ダンナーだった。
思わず物陰から覗く。
そこにはダンナーと、見知らぬ美しい女性が立っていた。
女性はダンナーの胸元に触れながら微笑む。
「昔から変わらないね」
ルクマニの胸が痛む。
誰……?
彼女……?
その時、女性が突然ダンナーへ抱きついた。
ルクマニの呼吸が止まる。
胸の奥が冷たくなる。
見てはいけない。
そう思ったのに、足が動かなかった。
だが次の瞬間。
ダンナーは静かに女性の腕を外した。
「やめろ」
冷たい声。
「もう関わるな」
女性の笑みが消える。
「まだ過去を忘れられないの?」
ダンナーは答えない。
その沈黙だけが重かった。
ルクマニは逃げるようにその場を離れた。
胸が苦しい。
苦しくて息ができない。
自分は何を期待していたのだろう。
教室へ戻る途中。
突然、後ろから腕を掴まれる。
「見た?」
ヴィシャーカだった。
まるで全部知っていたかのような顔。
「ダンナーって、昔から女関係複雑なんだって」
「……」
「あなた、本気にならない方がいいよ」
ヴィシャーカは笑った。
だがその笑顔は優しくない。
「傷つくから」
ルクマニは何も言えなかった。
その日の夜。
ダンナーの部屋。
机の上に一枚の紙が置かれていた。
送り主不明。
そこには短い文章だけ。
『誰かを大切にすれば、必ずその人は壊される』
ダンナーの目が静かに揺れる。
続き。
『感情を持つな。愛着を持つな。さもなくば次は失う』
ダンナーは無言で紙を握り潰した。
脳裏に蘇る。
炎。
血。
泣き声。
「守れなかった……」
小さく漏れた声。
その瞬間。
胸元の銀色のロケットが微かに揺れた。
翌日。
学院では大規模なイベント準備が始まっていた。
巨大な照明設備。
高いステージ。
忙しく動き回る生徒たち。
ルクマニも準備に参加していたが、集中できなかった。
視界に入るたび、ダンナーのことを考えてしまう。
すると遠くで女子生徒たちの声が聞こえる。
「やっぱりカッコいいよね」
「でも怖い」
「ミステリアスすぎる」
ダンナーが資材を運んでいた。
その時。
上の照明機材が突然大きく揺れる。
固定が外れていた。
重い鉄骨が真下へ落下する。
その真下にいたのは――ルクマニだった。
誰かが悲鳴を上げる。
「危ない!!」
時間が止まったようだった。
逃げられない。
そう思った瞬間。
黒い影が飛び込んでくる。
ダンナーだった。
彼はルクマニを強く抱き寄せ、そのまま地面へ転がる。
ドォン!!
巨大な鉄骨が背後へ激突した。
衝撃で床が揺れる。
周囲が騒然となる。
ルクマニは息を呑んだ。
近い。
近すぎる。
ダンナーの腕の中。
彼の鼓動が聞こえる。
その時だった。
ダンナーが無意識に呟く。
「……ルク」
ルクマニの目が揺れる。
今の名前。
誰も呼んだことのない幼い頃の愛称だった。
どうして彼が、それを知っているのか。
第八章 学院の地下室
夜の白銀学院は、不気味なほど静かだった。
昼間は生徒たちの笑い声で満ちている廊下も、今は冷たい月明かりだけが差し込んでいる。
時計の針は午前一時を指していた。
ルクマニ・カウルは緊張した表情で周囲を見渡す。
「本当に……ここなの?」
小さく囁く。
彼女の隣にはダンナー・シンが立っていた。
黒いパーカーを羽織り、表情はいつも通り静かだったが、その瞳だけは鋭く周囲を警戒している。
昼間、ダンナーの机の中に奇妙な紙が入っていた。
そこには短い文章だけが書かれていた。
――地下を見ろ。
――真実は眠っている。
差出人の名前はなかった。
だが紙には、あの銀色のロケットと同じ紋章が描かれていた。
そして今。
二人は旧校舎の最深部へ来ていた。
ここは長年使われていない区域だった。
壁には古いヒビが走り、湿った空気が漂っている。
ルクマニは不安そうにダンナーを見る。
「本当に入るの?」
「……ああ」
短い返事。
その声には、どこか覚悟のようなものがあった。
ダンナーは壁際の古い棚へ近づく。
そして静かに手を伸ばした。
ギィ……
鈍い音。
次の瞬間。
本棚が横へ動き始めた。
隠し通路だった。
ルクマニは息を呑む。
暗闇の奥へ続く階段。
地下から冷たい風が吹き上がってくる。
まるで何かが待っているように。
ダンナーは躊躇なく歩き出した。
ルクマニも後を追う。
地下へ降りるたび、空気が重くなっていく。
静かすぎる。
異様なほど。
やがて二人は巨大な鉄扉の前へ辿り着いた。
扉には奇妙な番号が刻まれている。
「第七観察区域」
ルクマニは嫌な寒気を感じた。
ダンナーは扉へ手をかける。
ゆっくり押し開く。
その瞬間。
二人は言葉を失った。
広い地下室。
無数の棚。
大量のファイル。
古い写真。
監視画面。
そして壁一面に貼られた子供たちの顔写真。
ルクマニは震える声で呟く。
「……なに、これ……」
ダンナーは無言で歩き始めた。
棚には年代ごとに資料が並んでいる。
“感情誘導実験”
“階級対立形成計画”
“心理分断教育”
理解できない言葉ばかりだった。
だが一つだけ、はっきり分かることがある。
ここは普通の施設ではない。
ルクマニは一冊のファイルを開く。
その中には、幼い子供たちの写真が並んでいた。
名前。
年齢。
家庭環境。
性格分析。
そしてその下には、恐ろしい記録が残されていた。
『貧困層の子供へ劣等感を植え付ける』
『富裕層の子供へ選民意識を強化』
『対立感情の増幅成功』
ルクマニの顔色が変わる。
「嘘……」
手が震える。
「子供を使って……こんなこと……」
ダンナーは別の資料を読んでいた。
その瞳がわずかに揺れる。
そこにはこう書かれていた。
『社会を支配する最も効率的な方法は、恐怖と偏見を与えることである』
『人間同士を憎しみ合わせれば、永遠に操れる』
ルクマニは息苦しさを感じた。
つまり――
この組織は、最初から人々を分断するために動いていたのだ。
貧しい者と裕福な者。
優秀な者と劣った者。
人々が互いを理解しないように。
憎み合うように。
その時。
ダンナーが突然動きを止めた。
彼の視線の先。
一枚の古い写真。
そこには十人ほどの子供たちが並んでいた。
皆、無表情。
番号入りの服を着ている。
そして中央には――
幼い頃のダンナーが写っていた。
ルクマニの呼吸が止まる。
「……ダンナー?」
彼は何も答えない。
ただ写真を見つめている。
その瞳が少しずつ揺れ始める。
写真の裏には文字が書かれていた。
『被験体零一』
『感情耐久性最高値』
『攻撃性抑制成功』
ダンナーの手が震える。
その瞬間。
頭の奥で何かが弾けた。
白い部屋。
泣いている子供。
誰かの怒鳴り声。
暗い廊下。
冷たい注射。
そして――
「泣くな」
知らない大人の声。
「お前は選ばれた存在だ」
ダンナーは突然、壁へ手をついた。
呼吸が乱れる。
ルクマニが慌てて近づく。
「大丈夫!?」
「……思い出しかけてる」
低い声。
苦しそうだった。
「俺は……ここにいた……」
ルクマニは言葉を失う。
ダンナー自身も、この実験の被害者だったのだ。
その時。
奥の棚から一枚の封筒が落ちた。
ルクマニが拾い上げる。
中には奇妙な紙が入っていた。
暗号のような文字列。
だが最後の一文だけ読めた。
『学院内部に裏切り者がいる』
ルクマニは顔を上げる。
「誰かが……生徒たちを売ってる?」
ダンナーは静かに周囲を見る。
「監視されてる可能性が高い」
その瞬間だった。
地下室の奥で、突然モニターが点灯した。
ザーッ……
ノイズ。
そして画面に文字が浮かび上がる。
『ようこそ、継承者』
ルクマニの背筋が凍る。
次の瞬間。
地下全体に赤い警告灯が点滅し始めた。
――侵入者確認。
――侵入者確認。
鋭い警報音が鳴り響く。
ルクマニは青ざめる。
「どうしよう……!」
ダンナーは彼女の手を掴んだ。
「走れ」
だがその時。
暗闇の奥から。
ゆっくりと足音が聞こえてきた。
コツ……
コツ……
誰かが近づいてくる。
一人ではない。
複数。
そして地下室の照明が、一斉に消えた。
完全な闇。
静寂。
その中で。
誰かの低い笑い声だけが響いた。
第九章 ヴィシャーカの危険な執着
白銀学院には、誰もが羨む存在がいた。
ヴィシャーカ。
美貌、才能、人気、財力。
彼女が歩けば人々は振り返り、笑えば周囲は明るくなる。
少なくとも――以前までは。
最近、彼女は気づき始めていた。
自分の中で何かが壊れ始めていることに。
教室の窓際。
ヴィシャーカは無意識に視線を向ける。
そこにはダンナー・シンがいた。
今日も一人だった。
誰とも話さない。
誰にも笑わない。
冷たい横顔。
まるで世界を拒絶しているような目。
なのに。
なのに、ルクマニだけは違った。
彼女を見る時だけ。
ほんの少しだけ。
ダンナーの瞳が柔らかくなる。
その変化が、ヴィシャーカには耐えられなかった。
爪が机を強く掴む。
胸の奥が熱い。
怒りなのか。
嫉妬なのか。
もう自分でも分からなかった。
「……どうして」
小さく呟く。
どうしてルクマニなの。
どうして私じゃないの。
ヴィシャーカは昔から、欲しいものを全て手に入れてきた。
努力もした。
誰より完璧でいようとした。
なのに。
ダンナーだけは、一度も自分を見なかった。
彼はヴィシャーカの笑顔にも、涙にも、魅力にも反応しない。
まるで彼女の存在そのものを通り過ぎていくようだった。
それが悔しかった。
悔しくて。
苦しくて。
気づけば彼女は、ダンナーばかり見ていた。
放課後。
ヴィシャーカは一人で廊下を歩いていた。
その時だった。
背後から低い声が響く。
「感情は、時に人を壊す」
ヴィシャーカは振り返る。
黒いスーツ姿の男。
学院関係者ではない。
だが以前にも見たことがある。
白銀グループの人間。
男は静かに微笑む。
「ダンナー・シンに興味がありますか」
ヴィシャーカの表情が固まる。
「……何が言いたいの」
男は小さな端末を差し出した。
そこにはダンナーの監視記録が映っている。
寺院。
地下室。
戦闘映像。
異常な身体能力。
ヴィシャーカは息を呑む。
男は低く囁いた。
「彼は危険です」
「あなたも感じているでしょう」
「普通ではないと」
ヴィシャーカは黙っていた。
男はさらに続ける。
「彼の正体を暴けば、あなたは学院を救う英雄になれる」
「皆があなたを必要とする」
「誰より特別になれる」
その言葉が、ヴィシャーカの心へ静かに入り込む。
必要とされる。
認められる。
愛される。
彼女がずっと求めていたもの。
男は最後に微笑んだ。
「彼を暴いてください」
「それがあなたの価値になります」
そのまま去っていく。
廊下にはヴィシャーカだけが残された。
静寂。
彼女はゆっくり拳を握る。
胸の奥がざわついていた。
これは正義なのか。
それとも。
ただの嫉妬なのか。
その頃。
ダンナーは学院裏の古い倉庫へ向かっていた。
最近、頭痛が酷かった。
突然、視界が歪む。
耳鳴り。
息苦しさ。
そして――知らない記憶。
ダンナーは壁に手をつく。
次の瞬間。
脳裏に炎が広がった。
赤い炎。
燃え落ちる屋敷。
誰かの叫び声。
幼い自分。
震える小さな手。
「逃げて……!」
女性の声。
涙声。
炎の向こうで、誰かが泣いている。
「ダンナー!」
その瞬間。
鋭い頭痛が走る。
「っ……!」
ダンナーは膝をついた。
呼吸が乱れる。
頭の中で記憶が砕け散る。
炎。
血。
裏切り。
誰かが倒れる音。
そして――
銀色のロケット。
ダンナーは震える手で胸元を掴む。
そこにはいつものロケットがあった。
壊れた銀のロケット。
彼に残された唯一の過去。
「……母さん」
無意識に言葉が漏れる。
だが顔は思い出せない。
声も曖昧だ。
それでも。
あの泣き声だけは、胸に刺さって離れなかった。
その時。
後ろから足音が聞こえた。
ダンナーは振り返る。
ルクマニだった。
彼女は不安そうな目で立っていた。
「また一人で苦しんでるの?」
ダンナーは何も答えない。
ルクマニはゆっくり近づく。
「最近ずっと様子がおかしい」
「何か隠してるよね」
沈黙。
冷たい風だけが流れる。
ルクマニは唇を噛んだ。
「私は……知りたい」
震える声。
「あなたが何を抱えてるのか知りたいの」
ダンナーは目を逸らす。
「知らない方がいい」
「どうして!」
ルクマニの声が強くなる。
「どうして全部一人で抱えるの!」
彼女の瞳には涙が滲んでいた。
「皆に嫌われても、誤解されても、どうして何も言わないの!」
ダンナーの表情が僅かに揺れる。
ルクマニは続けた。
「私は怖いの」
「あなたが突然いなくなりそうで……」
その言葉に。
ダンナーの心が小さく痛んだ。
彼は静かに目を閉じる。
そして小さく呟いた。
「俺の近くにいると危険なんだ」
「そんなの関係ない!」
ルクマニは涙を堪えながら叫ぶ。
「私はあなたを――」
言葉が止まる。
言えなかった。
まだ。
けれど気持ちはもう隠せなかった。
ダンナーはそんな彼女を見つめる。
胸の奥が苦しかった。
暖かい感情ほど、失うのが怖い。
彼はそれを知っていた。
だから近づきたくなかった。
守りたかった。
自分から遠ざけることで。
だが。
ルクマニは逃げない。
真っ直ぐ彼を見ている。
その瞳が眩しかった。
その時だった。
遠くの物陰。
そこにヴィシャーカが立っていた。
二人を見つめている。
静かに。
暗い瞳で。
ルクマニの涙。
ダンナーの表情。
その全てが、ヴィシャーカの胸を締めつけた。
苦しい。
息ができない。
どうしてそんな目をするの。
どうして彼女だけ特別なの。
気づけば。
ヴィシャーカは無意識に涙を流していた。
だが彼女自身、その理由を理解できなかった。
愛なのか。
執着なのか。
壊れた独占欲なのか。
もう境界線は消えていた。
夜。
学院寮。
ダンナーは疲れたようにベッドへ腰を下ろした。
頭痛はまだ続いている。
彼は静かにロケットを握る。
冷たい銀の感触。
その時。
廊下から微かな物音がした。
だがダンナーは気づかない。
扉が僅かに開く。
暗闇の中。
ヴィシャーカが静かに部屋へ入ってきた。
彼女の呼吸は震えていた。
視線はダンナーではなく――
ロケットへ向いている。
彼女はゆっくり近づく。
眠っているダンナー。
苦しそうな表情。
その姿を見て、一瞬だけ迷いが生まれる。
けれど。
次の瞬間。
ヴィシャーカは静かにロケットを掴んだ。
そして――盗んだ。
銀色のロケットが、彼女の手の中で冷たく光っていた。
第十章 仮面祭り
白銀学院最大の行事――仮面祭。
その夜、学院はまるで別世界のようだった。
巨大なシャンデリア。
黄金色の照明。
赤い絨毯。
生演奏の音楽。
生徒たちは皆、仮面を身につけていた。
白。黒。金。銀。
だがそれは単なる装飾ではない。
白は名誉。
金は富。
黒は権力。
銀は特別な選ばれた者。
仮面は、その人間の“価値”を表していた。
まるでこの学院そのもののように。
人間を心ではなく、立場で判断する世界。
ルクマニは鏡の前に立っていた。
淡い青のドレス。
銀色の仮面。
だが彼女の表情は晴れなかった。
最近のダンナーは、以前よりさらに遠く感じる。
何かを隠している。
いや――
何かに追い詰められている。
それなのに彼は何も言わない。
誰にも頼らない。
「……どうして」
ルクマニは小さく呟いた。
その頃。
学院の屋上では、黒い影たちが静かに動いていた。
仮面をつけた数人の男たち。
無線機から低い声が聞こえる。
「標的は会場内にいる」
「騒ぎに紛れて確保しろ」
「絶対に失敗するな」
男たちの視線は、一人の少年へ向けられていた。
ダンナー・シン。
その頃、本人は会場の隅に立っていた。
黒いスーツ。
銀色の仮面。
だが周囲の華やかさとは対照的に、彼だけが静かだった。
誰とも話さない。
誰にも近づかない。
その姿は、まるで孤独そのものだった。
女子生徒たちは遠くから彼を見つめる。
「やっぱりかっこいい……」
「でも怖い」
「近づけないよね」
噂と恐怖。
それが今のダンナーを包む現実だった。
その時。
「……また逃げてるの?」
静かな声。
ダンナーが振り向く。
そこにいたのはルクマニだった。
銀色の仮面越しでも分かる。
彼女は怒っていた。
ダンナーは目を逸らす。
「別に」
「別にじゃない」
ルクマニは一歩近づいた。
「最近ずっとそう。何も話してくれない」
「話しても意味がない」
「意味くらいある!」
感情が溢れる。
だがダンナーは静かなままだった。
その態度が、逆にルクマニを苦しめる。
「私は……」
彼女は言葉を止めた。
言えなかった。
好き。
心配。
そばにいたい。
その全部を。
ダンナーは小さく息を吐く。
「……俺に関わるな」
「どうして」
「危険だからだ」
その瞬間。
ルクマニの胸が痛んだ。
彼は拒絶しているわけじゃない。
守ろうとしている。
だからこそ苦しい。
その時。
会場中央でダンス音楽が流れ始めた。
生徒たちが次々と踊り始める。
学院伝統の仮面舞踏。
ルクマニはダンナーを見つめた。
「……一曲だけ」
「何?」
「踊って」
ダンナーは沈黙する。
断ると思った。
だが数秒後。
彼は静かに手を差し出した。
ルクマニの心臓が跳ねる。
彼女は震える指でその手を取った。
二人はゆっくり中央へ向かう。
音楽が流れる。
光が揺れる。
周囲の生徒たちは驚いていた。
誰とも関わらなかったダンナーが踊っている。
しかも相手はルクマニ。
二人は静かに踊り始めた。
言葉はない。
だが距離が近すぎる。
呼吸が聞こえる。
ダンナーの手が腰に触れるたび、ルクマニの胸が熱くなる。
仮面越しに見つめ合う。
その沈黙の中に、言葉以上の感情があった。
「……どうしてそんな顔するの」
ルクマニが小さく聞く。
「悲しそう」
ダンナーの目が揺れた。
ほんの一瞬だけ。
まるで壊れそうな感情を隠すように。
その時だった。
突然。
会場の巨大画面が切り替わる。
音楽が止まった。
ざわめき。
次の瞬間。
映像が流れ始める。
炎の中。
血まみれの少年。
旧黒影トンネル事故の映像だった。
会場が凍りつく。
さらに新しい映像が映る。
誰かが倒れる姿。
その近くに立つダンナー。
編集された映像。
明らかな偽造。
だが観客には分からない。
「なにこれ……」
「嘘……」
「本当に殺したの?」
壇上へゆっくり現れた人物がいた。
ヴィシャーカだった。
赤い仮面。
冷たい笑み。
「皆、騙されないで」
彼女の声が会場へ響く。
「ダンナー・シンは危険な人間よ」
ルクマニが息を呑む。
「ヴィシャーカ、やめて!」
だが彼女は止まらない。
「彼が隠してる真実を知るべきだわ!」
次々と映像が流れる。
偽造された証拠。
加工された写真。
恐怖を煽る編集。
群衆の空気が変わっていく。
疑念。
恐怖。
嫌悪。
人間は一度恐怖を植え付けられると、簡単に理性を失う。
「最低だ……」
「やっぱり殺人犯じゃん」
「学院から出ていけ!」
怒号が飛び始める。
ルクマニは必死に叫ぶ。
「違う! 騙されないで!」
だが誰も聞かない。
ダンナーは静かに立っていた。
反論しない。
怒らない。
ただ、どこか諦めたような目をしていた。
その姿が逆に胸を締め付ける。
ルクマニは彼の腕を掴んだ。
「逃げよう」
しかしその瞬間。
轟音が響いた。
爆発。
会場中央の舞台が吹き飛ぶ。
悲鳴。
炎。
崩れ落ちる照明。
生徒たちは混乱し、一斉に逃げ始めた。
煙が広がる。
視界が白く染まる。
そして炎の奥から、黒い仮面の男たちが現れた。
異様な空気。
普通ではない。
彼らは真っ直ぐダンナーを見た。
一人が低く呟く。
「見つけたぞ」
別の男が続ける。
「――計画継承者」
ルクマニの背筋が凍る。
ダンナーの表情が初めて変わった。
驚き。
そして恐怖。
男たちはゆっくり近づく。
燃え盛る炎の中。
彼らはまるで死神のようだった。
そして次の瞬間。
男たちは一斉に口を開いた。
「確保しろ――“計画継承者”を」
第十一章 計画継承者の真実
夜の雨が静かに窓を叩いていた。
廃倉庫の中には重たい沈黙が広がっている。
古びた電灯の薄暗い光。
錆びた鉄の匂い。
そして、張り詰めた空気。
ダンナー・シンは壁にもたれたまま、鋭い視線でアンガド・シンを見つめていた。
「……全部話せ」
低く押し殺した声だった。
その瞳には怒りよりも、深い疲労が滲んでいる。
アンガドはしばらく沈黙していた。
まるで、どこから話すべきか迷っているように。
ルクマニは少し離れた場所で二人を見守っていた。
胸が嫌なほど騒いでいる。
これから聞く真実が、きっとダンナーを傷つける。
そんな予感がしていた。
やがてアンガドは静かに口を開いた。
「お前は普通の人間じゃない」
その瞬間。
空気が重く沈む。
ダンナーの眉が僅かに動いた。
「……どういう意味だ」
「お前は白銀グループが最も恐れた血筋の生き残りだ」
アンガドはゆっくり歩きながら続ける。
「昔、この国には複数の巨大財閥が存在していた」
「その中でも、お前の一族は特別だった」
「莫大な資産だけじゃない。政治、人脈、情報網――全てを持っていた」
ルクマニは息を呑む。
ダンナーは無言だった。
だが拳が静かに震えている。
アンガドの声はさらに低くなる。
「だが、お前の両親は違った」
「彼らは財閥の腐敗を止めようとした」
「白銀グループが裏で行っていた実験を暴こうとしたんだ」
ダンナーの瞳が鋭く揺れる。
「……実験?」
アンガドは頷いた。
「感情操作実験だ」
その言葉に、ルクマニの背筋が凍る。
アンガドは古い資料を机へ置いた。
そこには大量の写真と記録が並んでいた。
子供たち。
泣いている子。
無表情の子。
怯えた目。
そして壁に書かれた奇妙な言葉。
“恐怖は最強の支配手段”
ルクマニは思わず口元を押さえた。
「何……これ……」
アンガドは苦しそうに目を閉じる。
「白銀グループは長年、人間の感情を研究していた」
「偏見、恐怖、孤独、怒り――」
「それらを利用すれば、人間は簡単に操れると考えた」
「だから子供を使った」
ダンナーの呼吸が止まる。
空気が異様なほど静かになる。
アンガドは視線を落としたまま続けた。
「裕福な子供と貧しい子供を意図的に対立させる」
「一部には暴力を見せる」
「一部には差別を植え付ける」
「誰が恐怖に耐え、誰が壊れるかを観察した」
ルクマニの目に涙が浮かぶ。
「そんなの……人間のすることじゃない……」
アンガドは静かに頷いた。
「だが白銀グループは成功した」
「世間は簡単に偏見を信じた」
「恐怖を与えれば、人は考えることをやめる」
「敵を作れば、人は安心する」
ダンナーの視線がゆっくり資料へ落ちる。
そこに写っていた。
幼い自分の写真が。
小さな体。
無表情の瞳。
腕には番号が刻まれている。
ルクマニの呼吸が止まった。
「……嘘……」
ダンナーは動かなかった。
まるで感情が消えたように。
アンガドは低い声で言う。
「お前は実験体だった」
その瞬間。
世界が止まった気がした。
ルクマニは震える手で口元を押さえる。
ダンナーは何も言わない。
ただ静かに写真を見つめていた。
アンガドは続ける。
「お前は特別だった」
「どれだけ孤独を与えられても壊れなかった」
「どれだけ恐怖を植え付けられても、他人を憎まなかった」
「だから奴らはお前を危険視した」
「制御できない存在だったからだ」
ダンナーの頭に激しい痛みが走る。
その瞬間――
幼い記憶がフラッシュのように蘇る。
暗い部屋。
泣き声。
白い壁。
知らない大人たち。
『この子は感情反応が異常に安定しています』
『もっと強い刺激を与えろ』
『恐怖を植え付けろ』
ダンナーは頭を押さえる。
呼吸が乱れる。
ルクマニが慌てて近づいた。
「ダンナー!」
だが彼は何も聞こえていなかった。
次々と流れ込む記憶。
炎。
怒鳴り声。
逃げる母親。
そして――
優しい手。
『大丈夫よ』
女性の声。
母親だった。
彼女は涙を流しながら幼いダンナーを抱き締めていた。
『あなたは悪くない』
『絶対に心を壊されちゃだめ』
『逃げなさい』
記憶が切れる。
ダンナーは膝をついた。
荒い呼吸。
全身が震えている。
ルクマニはそんな彼を見ていられなかった。
ずっと一人だったのだ。
誰にも助けを求められず。
誰にも理解されず。
人々から恐れられながら。
それでも彼は、誰かを憎まなかった。
ルクマニの目から涙が零れる。
「どうして……」
「どうして一人で耐えてたの……」
ダンナーはゆっくり顔を上げる。
その瞳は壊れそうなほど静かだった。
「……慣れてる」
その一言が、ルクマニの胸を深く刺した。
慣れてる。
つまり彼はずっと孤独だった。
幼い頃から。
誰にも頼れず。
誰にも守られず。
アンガドは静かに拳を握る。
「俺はお前を守るよう頼まれていた」
「お前の父親にな」
ダンナーが顔を上げる。
アンガドは続けた。
「お前の父親は最後まで戦った」
「白銀グループの罪を暴こうとしていた」
「だが裏切られた」
空気が凍る。
「裏切り……?」
アンガドは頷いた。
「内部に協力者がいた」
「そのせいで全て計画が漏れた」
「お前の両親は追われた」
ダンナーの瞳が暗く沈む。
「……殺されたのか」
アンガドは答えなかった。
その沈黙が、何より残酷だった。
ルクマニは震えながらダンナーを見る。
彼は泣かなかった。
怒鳴りもしない。
ただ静かに立ち尽くしている。
その姿が逆に痛々しかった。
突然。
外で雷が鳴る。
その音と同時に、ダンナーの中で最後の記憶が蘇った。
燃え上がる屋敷。
崩れる天井。
母親の涙。
そして。
最後に聞いた声。
『ダンナー……』
『あなたを誤解する人を、絶対に憎まないで』
『人は、知らないものを怖がるの』
『だから……優しくなりなさい』
世界が静かに止まる。
ダンナーは目を閉じた。
頬を、一筋の涙が静かに流れていった。
第十二章 メディアに壊された少年
雨の朝だった。
灰色の空。
冷たい風。
そして学院中に響く通知音。
生徒たちは一斉に携帯端末を見つめていた。
次の瞬間。
廊下がざわめきに包まれる。
「うそ……」
「最悪なんだけど」
「やっぱり危険人物じゃん」
大型画面に映し出されていたのは、ダンナー・シンの映像だった。
暗い路地。
殴り合い。
血。
怒鳴り声。
そして最後に、誰かを蹴り飛ばすダンナーの姿。
映像は何度も繰り返し再生されていた。
『白銀学院の危険生徒』
『暴力的本性が流出』
『国家レベルの脅威か』
煽るような文字。
恐怖を煽る編集。
だが。
その映像には“前後”が存在しなかった。
なぜ戦っていたのか。
誰を守っていたのか。
何が起きていたのか。
全部切り取られていた。
必要なのは真実ではない。
人々が叩ける“悪役”だった。
そして今、その役を押し付けられているのがダンナーだった。
教室。
ダンナーが入った瞬間、空気が変わる。
昨日まで話しかけていた生徒たちまで視線を逸らした。
「近づかない方がいいって」
「関わると危険らしい」
「本当に人を殺してても不思議じゃない」
小さな声。
だがわざと聞こえるように。
人は集団になると残酷になる。
一人では言えない言葉も、大勢の中なら平気で投げつけられる。
それが“正義”だと思い込みながら。
ダンナーは何も言わず席へ座った。
表情は変わらない。
だが机の下で、指先だけが微かに震えていた。
ルクマニはその震えを見逃さなかった。
胸が痛む。
なぜ誰も見ようとしないのだろう。
彼が本当に何をしてきたのか。
何を守ろうとしていたのか。
その時。
後ろの席から紙くずが飛んできた。
ダンナーの肩に当たる。
クラスが笑う。
「暴力男にはそれくらいで十分でしょ」
さらに別の男子が机を蹴った。
「なぁ、次は誰殴るんだよ?」
教師ですら止めなかった。
見て見ぬふり。
空気に逆らいたくないから。
ルクマニは立ち上がった。
「やめて」
教室が静まる。
彼女は真っ直ぐクラスを見渡した。
「何も知らないくせに、どうしてそんなこと言えるの?」
すると誰かが鼻で笑う。
「でも映像あったじゃん」
「編集されてる可能性だってあるでしょ!」
「庇うんだ?」
冷たい視線が今度はルクマニへ向けられる。
「もしかして付き合ってる?」
「趣味悪……」
「危険人物同士お似合いじゃん」
悪意ある笑い声。
ルクマニの顔が青ざめる。
だが彼女は下がらなかった。
その時。
ダンナーが静かに立ち上がる。
「……もういい」
低い声。
「関わるな」
ルクマニは振り返った。
その目は静かだった。
静かすぎて逆に苦しかった。
まるで。
“慣れている”ように見えたから。
放課後。
学院の裏門。
ダンナーは一人で歩いていた。
すると前方で、小さな男の子が転ぶ。
大量の荷物が道路へ散らばった。
周囲の人々は誰も助けない。
なぜなら皆、端末に映るニュースへ夢中だったから。
ダンナーは無言でしゃがみ込み、荷物を拾い始める。
男の子は驚いた顔をする。
「……ありがとう、お兄ちゃん」
ダンナーは小さく頷いた。
その時。
通行人の女性が彼を見て顔色を変える。
「あっ……!」
すぐに後退する。
「あの人、ニュースの……」
周囲もざわつき始める。
「本物?」
「怖……」
「なんで普通に歩いてるの?」
男の子の母親は慌てて息子を引き寄せた。
「行くわよ!」
まるで危険物から逃げるように。
ダンナーは何も言わなかった。
ただ静かに立ち上がる。
雨が降り始める。
濡れた道路に映る自分の姿。
その時だった。
後ろから傘が差し出される。
ルクマニだった。
「……帰るなら一緒に帰る」
ダンナーは目を伏せる。
「やめろ」
「嫌」
「お前まで嫌われる」
ルクマニは震える声で答えた。
「もう嫌われてる」
ダンナーの目が揺れる。
彼女は小さく笑った。
だがその笑顔は寂しかった。
「でも、それでもいい」
その言葉に。
ダンナーは一瞬だけ視線を逸らした。
まるで彼女を見るのが怖いように。
学院では、さらに状況が悪化していた。
ルクマニまで孤立し始めたのだ。
「危険人物の味方してる子」
「頭おかしくなったんじゃない?」
「恋って怖いね」
友人たちも離れていく。
食堂でも席が空く。
だがルクマニは後悔していなかった。
むしろ。
一人で傷つき続けるダンナーを見ている方が苦しかった。
その夜。
ヴィシャーカは自室で震えていた。
机の上には大量の資料。
匿名の指示。
偽映像。
世論操作。
心理誘導。
そこに記されていた名前。
――白銀グループ。
ヴィシャーカの顔から血の気が引く。
「……うそ……」
今まで自分が信じていたもの。
正義だと思っていたもの。
全部。
誰かに作られていた。
ダンナーを危険人物に見せるため。
人々に恐怖を植え付けるため。
彼女は思い出す。
自分が投げた言葉。
傷つけた視線。
笑った瞬間。
突然、吐き気が込み上げた。
「私……何してたの……」
涙が落ちる。
だがもう遅い。
ダンナーはずっと、一人で戦っていたのだ。
深夜。
リチャ・トリパティは古い資料室にいた。
机の上には大量の機密文書。
失踪事件。
偽ニュース。
心理実験。
そして一枚の写真。
幼いダンナー。
その背後に立つ白銀グループ幹部たち。
リチャの呼吸が止まる。
「まさか……全部繋がってる……」
彼女は急いで端末へデータを移し始める。
だがその時。
部屋の外で足音が止まった。
リチャの表情が強張る。
静かすぎる。
嫌な予感。
次の瞬間。
照明が消えた。
真っ暗になる部屋。
「誰!?」
返事はない。
ただ。
暗闇の中で、ゆっくり扉が開く音だけが響いた。
翌朝。
リチャ・トリパティは姿を消していた。
第十三章 忘れられた子供たちの部屋
雨が降っていた。
灰色の空から落ちる冷たい雫が、白銀学院の古い時計塔を静かに濡らしている。
放課後。
学院の廊下には誰もいなかった。
静寂。
だがその静けさの裏側で、確実に“何か”が動いていた。
ルクマニ・カウルは不安そうにダンナー・シンを見つめる。
「本当に行くの?」
小さな声。
ダンナーは窓の外を見たまま答えた。
「確かめなきゃいけない」
低く静かな声だった。
だがその瞳には、これまで以上に強い決意が宿っていた。
地下施設で見つけた資料。
心理操作実験。
社会階級の分断計画。
そして、被験体として記録されていた自分自身。
すべてが少しずつ繋がり始めていた。
だが、まだ足りない。
“核心”が隠されている。
ダンナーには、そんな確信があった。
その夜。
二人は再び学院旧棟へ向かった。
誰にも見つからないよう、暗い廊下を進んでいく。
古い壁。
湿った空気。
どこか腐ったような匂い。
地下施設へ続く通路のさらに奥。
以前は閉ざされていた鉄扉が、今夜は半開きになっていた。
ルクマニが息を呑む。
「誰かいる……?」
ダンナーは静かに首を振る。
「いや……誘われてる」
その言葉に、ルクマニの背筋が冷たくなる。
二人は慎重に扉を押し開けた。
ギィ……
鈍い音。
そして次の瞬間。
ルクマニは言葉を失った。
そこは――巨大な保管室だった。
壁一面の棚。
積み上げられたファイル。
大量の写真。
名前。
番号。
そして無数の子供たちの顔。
まるで墓場だった。
忘れ去られた人生の墓場。
ルクマニは震える手で、一枚の写真を取る。
そこには笑顔の少女が写っていた。
年齢は十歳ほど。
だが写真の下には、冷たい文字が並んでいる。
『被験体番号二七』
『家庭環境・貧困層』
『長期間の差別刺激により情緒崩壊』
『現在消息不明』
ルクマニの顔色が変わる。
「……なに、これ……」
次のファイル。
『被験体番号四三』
『富裕層家庭』
『優越思想形成成功』
『暴力事件後、少年院収監』
さらに別の資料。
『精神誘導実験継続不能』
『自殺確認』
ルクマニの喉が震える。
「こんなの……人間じゃない……」
その声は涙混じりだった。
だがダンナーは何も言わない。
静かに資料を見続けていた。
彼の表情は凍りついている。
棚の奥。
そこには巨大な年表が貼られていた。
数十年前から続く記録。
“階級対立強化政策”
“若年層心理分断教育”
“感情操作媒体投入”
ダンナーはゆっくり読み上げる。
「人間同士を比較させろ……」
「優劣を植え付けろ……」
「貧困への怒りと富への憎悪を増幅させろ……」
ルクマニは唇を押さえた。
理解してしまったのだ。
この組織は最初から、人々を憎しみ合わせるために動いていた。
貧しい者は富裕層を憎む。
富裕層は下層を見下す。
そうやって対立を生み続ければ、人間は決して団結しない。
恐怖と偏見の中で支配され続ける。
そのために――
子供たちが利用された。
ダンナーの拳が震える。
視線の先には、一枚の古い契約書があった。
そこに刻まれていた名前。
――シン財団。
ダンナーの呼吸が止まる。
「……そんな」
彼は契約書を掴む。
ページをめくる。
資金提供記録。
研究支援。
施設運営援助。
そこには、自分の家族が運営していた財団の名前が何度も記載されていた。
ルクマニが不安そうに近づく。
「ダンナー……?」
彼は答えない。
その瞳だけが、ゆっくり壊れていく。
「俺の家が……」
低い声。
「この地獄を作った……?」
ルクマニは首を振る。
「違う……! あなたのせいじゃ――」
「違わない!」
突然、ダンナーが叫んだ。
初めてだった。
彼が感情を爆発させたのは。
「俺たちは知らなかっただけだ!」
声が震える。
「知らないまま金を流して……!」
「そのせいで……こんな……!」
彼の目に激しい苦しみが滲む。
棚いっぱいの子供たちの写真。
壊された人生。
失われた未来。
その全てに、自分の家族が関わっていた。
ダンナーはゆっくり膝をついた。
「俺は……何も知らずに生きてた」
声が掠れる。
「誰かが傷ついてる間も……」
ルクマニは胸が締め付けられた。
今まで彼はずっと、自分だけを責め続けてきたのだ。
孤独の中で。
憎しみの中で。
誰にも頼れず。
その時だった。
一枚の写真が床へ落ちる。
幼い頃のダンナー。
隣には、泣いている少年がいた。
写真の裏に文字がある。
『被験体零一は他被験体への共感性が高すぎる』
『感情制御実験継続困難』
『処分対象候補』
ダンナーの瞳が揺れる。
頭の奥で、記憶が蘇り始める。
暗い部屋。
泣いている子供たち。
「助けて……」
小さな声。
だが幼いダンナーには、何もできなかった。
彼自身もまた、実験の中にいたから。
「……ごめん」
ダンナーは写真を握り締める。
「助けられなかった……」
ルクマニはもう我慢できなかった。
彼女はゆっくりダンナーの前へ座る。
そして――
初めて、彼を抱き締めた。
ダンナーの身体が小さく震える。
ルクマニは優しく囁いた。
「あなたは悪くない」
「でも――」
「違う」
彼女の声は涙で震えていた。
「あなたは今、苦しんでる人を助けようとしてる」
「逃げてない」
「ちゃんと向き合ってる」
ダンナーは何も言えなかった。
ただ静かに目を閉じる。
誰かに抱き締められる温かさを、彼は長い間忘れていた。
ルクマニは彼の背中を優しく撫でる。
「もう一人で背負わなくていい」
その言葉に。
ダンナーの目から、一筋の涙が落ちた。
長い沈黙。
やがて彼はゆっくり立ち上がる。
瞳の中に、静かな炎が灯っていた。
「……終わらせる」
低い声。
だが強かった。
ダンナーは部屋中の資料を見渡す。
忘れられた子供たち。
壊された人生。
憎しみを植え付けられた世界。
「全部、公開する」
ルクマニが顔を上げる。
ダンナーは静かに言った。
「もう隠させない」
その瞬間。
地下室の奥にあるモニターが突然点灯した。
ザーッ……
激しいノイズ。
そして画面に、一人の女の影が映る。
優雅な笑み。
冷たい目。
その女は静かに呟いた。
「やはり、あなたは壊れなかったのね」
ダンナーの瞳が鋭くなる。
女は微笑んだ。
「なら次は、“彼女”を失う恐怖を教えてあげる」
画面が暗転する。
同時に。
地下室の扉が自動的に閉まり始めた。
重い警報音が鳴り響く。
そして暗闇の向こうから、無数の足音が近づいてきた。
第十四章 ヴィシャーカの裏切り
夜の雨が静かに街を濡らしていた。
白銀学院の屋上。
冷たい風の中で、ヴィシャーカは震える手を握り締めていた。
胸が苦しい。
呼吸が浅い。
何度も迷った。
ここへ来るべきではなかったのかもしれない。
だが――
もう限界だった。
彼女はポケットから小さな通信端末を取り出す。
画面には一つの名前。
ダンナー・シン。
指先が震える。
数秒間、動けなかった。
だがやがて。
ヴィシャーカはゆっくり通話ボタンを押した。
数回の呼び出し音。
そして低い声が聞こえる。
「……誰だ」
その声だけで胸が締め付けられる。
ヴィシャーカは唇を噛んだ。
「私……」
沈黙。
「ヴィシャーカ?」
ダンナーの声が少し変わる。
警戒。
困惑。
そして微かな疲労。
ヴィシャーカは目を閉じた。
「話したいことがあるの」
「今さら何を――」
「お願い」
声が震える。
「一度だけでいいから会って」
長い沈黙。
雨音だけが流れる。
やがてダンナーが小さく答えた。
「……場所は」
一時間後。
学院から離れた廃工場。
昔は巨大倉庫として使われていた場所だった。
今は人も来ない。
壊れた窓。
剥がれた壁。
暗い空間。
そこへダンナーは一人で現れた。
黒いパーカーを羽織り、静かに周囲を見渡す。
その瞳は鋭かった。
ヴィシャーカは奥の柱の陰から姿を現す。
彼女の顔色は悪い。
目元も赤く腫れていた。
ダンナーは無表情のまま彼女を見る。
「話って何だ」
ヴィシャーカは言葉を失う。
目の前に立つ彼は、以前よりさらに疲れて見えた。
世界中から憎まれ。
追われ。
孤独の中で戦い続けている少年。
その姿が胸を刺す。
ヴィシャーカは俯いた。
「……ごめんなさい」
ダンナーの眉が僅かに動く。
「私、全部間違ってた」
雨音が遠くで響く。
ヴィシャーカの肩が震えていた。
「あなたを傷つければ……皆が私を認めてくれると思った」
「必要としてくれると思った」
涙が落ちる。
「でも違った……」
ダンナーは黙って聞いていた。
ヴィシャーカは続ける。
「私はずっと怖かったの」
「誰かより劣るのが怖かった」
「価値がないって思われるのが怖かった」
声が崩れていく。
「だから完璧でいようとした」
「誰より綺麗で、誰より優秀で、誰より愛される存在になろうとした」
彼女は苦しそうに胸を押さえる。
「でも……あなただけは私を見なかった」
その言葉に、ダンナーの瞳が静かに揺れる。
ヴィシャーカは涙を流しながら笑った。
「悔しかった」
「苦しかった」
「気づいたら……あなたのことばかり考えてた」
愛だったのか。
執着だったのか。
もう彼女自身にも分からない。
その時だった。
ダンナーの表情が突然変わる。
鋭く周囲を見渡す。
「……伏せろ!」
瞬間。
銃声が響いた。
ガラスが砕け散る。
ヴィシャーカの悲鳴。
ダンナーは即座に彼女を抱き寄せ、床へ倒れ込む。
次々と銃弾が飛び込んできた。
暗闇の奥。
黒い装備の男たち。
殺し屋だった。
ヴィシャーカの顔が青ざめる。
「な、なんで……!」
ダンナーはすぐに理解した。
追跡装置。
彼女が監視されていたのだ。
組織は最初から彼女を利用していた。
ヴィシャーカもまた、ただの駒だった。
男たちが突入してくる。
「対象確認」
「ダンナー・シンを排除しろ」
冷たい声。
殺意。
ダンナーはヴィシャーカを庇いながら立ち上がる。
鉄パイプを掴み、一人目の攻撃を受け止めた。
激しい衝突音。
次の瞬間。
ダンナーの拳が男の腹へ叩き込まれる。
男が吹き飛ぶ。
だが敵は多い。
四方から襲いかかる。
ヴィシャーカは震えながらその光景を見ていた。
ダンナーは逃げられた。
彼女を置いて。
なのに。
彼は彼女を守っている。
裏切った自分を。
傷つけた自分を。
それでも。
「後ろに下がれ!」
ダンナーの声が響く。
再び銃声。
彼は咄嗟にヴィシャーカを抱き寄せる。
銃弾が肩を掠めた。
赤い血が飛び散る。
ヴィシャーカの瞳が大きく揺れる。
「どうして……!」
涙混じりの叫び。
「どうして私なんか守るの!」
ダンナーは痛みに顔を歪めながら答える。
「お前まで壊れなくていい」
その言葉が。
ヴィシャーカの心を完全に壊した。
彼女はその場に崩れ落ちる。
涙が止まらない。
「私は……」
嗚咽。
「私はただ……誰かに必要だって言ってほしかっただけなの……!」
声が響く。
「この世界、皆お金とか地位とか、そんなものしか見てくれない!」
「価値がなければ愛されない!」
「だから必死だったの……!」
涙が床へ落ちる。
「本当は怖かった……!」
「ずっと一人だった……!」
ダンナーは静かに彼女を見る。
その瞳には怒りがなかった。
ただ深い悲しみだけがあった。
彼は知っている。
孤独が人を壊すことを。
理解されない苦しみを。
その時。
突然、工場内の巨大画面が点灯する。
全員が振り向く。
映し出されたのはニュース速報だった。
画面中央。
ダンナー・シンの顔写真。
そして赤い文字。
『国家危険人物指定』
ヴィシャーカの呼吸が止まる。
ニュースキャスターが冷たい声で読み上げる。
「政府及び白銀グループは本日、ダンナー・シンを国家レベルの危険人物として正式認定しました」
「極めて高い暴力性と社会不安誘導の可能性があるとして、発見次第通報が求められます」
次々流れる偽映像。
編集された戦闘映像。
暴力的に見える加工。
人々の恐怖を煽る報道。
ヴィシャーカは震える。
全部嘘だ。
全部。
なのに世間は信じる。
また彼は一人になる。
その瞬間。
外から激しい車の音が響いた。
「ダンナー!」
聞き慣れた声。
アンガド・シンだった。
彼は工場へ飛び込んでくる。
「早く逃げろ!」
だがその直後。
暗闇から銃口が現れる。
乾いた発砲音。
時間が止まった。
ダンナーの瞳が大きく開かれる。
アンガドの身体が揺れた。
胸から赤い血が溢れ出す。
「……っ」
そのまま彼は、ダンナーを庇うように倒れ込んだ。
第十五章 アンガド・シンの最後の伝言
雨が降っていた。
冷たい夜の雨だった。
廃工場の奥にある古い隠れ部屋には、血の匂いが広がっている。
床へ倒れているアンガド・シンの周囲には赤黒い血溜まり。
銃弾は深く身体を貫いていた。
ルクマニは震える手で傷口を押さえていた。
「しっかりして……お願い……!」
だが血は止まらない。
アンガドの呼吸は荒く、顔色は青白かった。
ダンナーはその場に立ち尽くしていた。
拳が震えている。
目の前で、自分を守ってくれた人間が死にかけている。
なのに何もできない。
その無力感が胸を締めつけた。
「……なんで」
掠れた声が漏れる。
「なんで俺なんかを守った」
アンガドは苦しそうに笑った。
「坊ちゃんは……昔からそうだな」
「答えになってない」
「……お前は知らないだけだ」
アンガドは咳き込み、大量の血を吐いた。
ルクマニの顔が青ざめる。
だがアンガドは震える手でダンナーの腕を掴んだ。
「聞け……時間がない……」
空気が張り詰める。
アンガドの目が真剣に変わった。
「組織の頂点にいる人間は……お前と無関係じゃない」
ダンナーの眉が動く。
「……どういう意味だ」
アンガドは苦しそうに息を吸った。
「お前の過去を知っている人間だ……」
「……!」
その瞬間。
ダンナーの脳裏に断片的な記憶が走った。
炎。
泣き叫ぶ声。
白い部屋。
誰かの優しい手。
そして――
微笑む女性。
頭痛が走る。
ダンナーは思わず頭を押さえた。
「ぐっ……!」
ルクマニが慌てて支える。
「ダンナー!」
視界が揺れる。
記憶の奥底から何かが浮かび上がろうとしていた。
母親の顔。
優しい声。
しかし次の瞬間、その映像は血に染まる。
炎の中で倒れる二人。
伸ばされた手。
助けられなかった。
守れなかった。
「……っ」
呼吸が乱れる。
胸が苦しい。
アンガドは震える声で続けた。
「お前の両親は……組織に殺された」
空気が止まった。
ルクマニの目が見開かれる。
ダンナーは何も言えなかった。
ただ静かに立っている。
だがその瞳は崩れ始めていた。
「違う……」
小さな声。
「違う……そんなはずない……」
「現実だ」
アンガドの言葉は残酷だった。
「お前の父親は組織を止めようとした。だから消された」
ダンナーの呼吸がさらに乱れる。
耳鳴り。
視界の歪み。
感情が壊れそうになる。
その時だった。
ルクマニが突然、彼の手を強く握った。
温かかった。
「……一人で壊れないで」
震える声。
「お願いだから」
ダンナーはゆっくり彼女を見る。
ルクマニの目には涙が浮かんでいた。
怖いはずなのに。
危険なはずなのに。
それでも彼女は離れない。
「私はここにいる」
その一言が胸に刺さった。
誰も信じられなかった。
誰かを失うのが怖かった。
だからずっと距離を置いてきた。
なのに彼女は、壊れそうな自分の隣に立ち続けている。
ダンナーは小さく顔を伏せた。
「……なんで」
「え?」
「なんでそこまで出来るんだ」
ルクマニは泣きそうな顔で笑った。
「好きだからに決まってるでしょ……」
静寂。
ダンナーの心臓が強く鳴った。
彼女はもう隠さなかった。
恐怖も不安も全部抱えたまま、それでも彼を選んでいた。
その瞬間。
ダンナーの中で張り詰めていた何かが崩れる。
彼はゆっくりルクマニの肩へ額を預けた。
まるで限界だった人間のように。
ルクマニは何も言わず、静かに彼を抱き締める。
冷え切った身体。
震える呼吸。
彼は今まで、どれだけ孤独だったのだろう。
その時。
突然、遠くから警笛が聞こえた。
アンガドが苦しそうに顔を上げる。
「……来たか」
外では大量の車の音が響いていた。
警察。
そして組織側の人間。
この場所が見つかったのだ。
ルクマニの顔が強張る。
「どうするの……!?」
だがその時。
扉が勢いよく開いた。
全員が振り向く。
そこに立っていたのは――
ヴィシャーカだった。
息を切らし、全身濡れている。
「早く逃げて!」
ルクマニが驚く。
「ヴィシャーカ……!?」
彼女は唇を噛み締めた。
「警察に場所が漏れてる! もう包囲される!」
ダンナーは警戒した目を向ける。
ヴィシャーカはその視線に傷ついたように笑った。
「分かってる……信用されないよね」
彼女の声は震えていた。
「でも今は時間がないの!」
外から怒号が近づいてくる。
ヴィシャーカは震える手で裏口の鍵を差し出した。
「裏の通路を使って。そこならまだ逃げられる」
ルクマニは驚いた。
「でもそんなことしたら、あなたが――」
「もういいの」
ヴィシャーカは苦しそうに笑った。
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